第6話 新たなる決意
秋風が吹き、木々の葉が紅く色づき始めたサンクトペテルブルク。
その郊外にあるセルゲイの屋敷の門前に一人の男が立っていた。
服は破れ、髭も伸び放題の、まるで物乞いのような姿をした男であった。
しかし、なぜか腰に刀のようなものを差している。
「ここへ何の用だ。」
不気味な雰囲気を発するこの男への嫌悪感と不快感を示しつつ、ひとりの使用人がつかつかと男の前へ歩み寄って来た。
「ここはお前のような者が来る場所ではない。用がないのなら、さっさと立ち去れ。」
その時、奥の方から女の声がした。
「待ちなさい。」
セルゲイの妹マリアである。
「もしかして、石之助ではありませんか。」
「お前、石之助なのか。」
使用人も男の正体に気づいたようだ。
マリアは屋敷の玄関から門の方へと進み、石之助の前に立った。
石之助を見る彼女の表情は何かを悟り、そして覚悟した、そのような表情であった。
「もしかして、お兄様の身に何かあったのではありませんか。それに、元治の姿が見当たりませんが。」
石之助は何も答えることができないばかりか、マリアの顔を見ることさえできなかった。
「とりあえず石之助を屋敷の中へ。それと、着るものと食事を用意しなさい。」
「承知いたしました。」
使用人の招きで、石之助はセルゲイの屋敷の中へ歩みを進めた。
数か月ぶりのセルゲイの屋敷、しかし、ここに主が帰ってくることはもうないのだ。
セルゲイの妹であるマリアは、父親が亡くなり家督を継いだ兄とともにこの屋敷に住んでいた。
石之助たちがこの屋敷で世話になっている時に顔を合わせることはあったが、漂流してきた東洋人の男が貴族の淑女に声をかけるようなことは、許されるはずもなかった。
身なりを整え空腹を満たし、落ち着きを取り戻した石之助がマリアの前に現れた。
「お兄様のことを話していただけませんか。」
フリートラントでの戦いにおいて、味方の兵士たちが敗走する中でセルゲイは最後まで戦い続けたこと、負傷した彼が石之助を振り払い、自ら川の流れの中に沈んでいったこと、元治は我々を逃がすため戦場にとどまり、その後は行方知れずであること、石之助は包み隠さずすべてをマリアに話した。
「そうですか、お兄様は最期まで立派でありましたか。」
気丈にもそう話すマリアの目からは、今にも涙がこぼれそうだった。
「申し訳ありません。自分だけが生き残ってしまいました。セルゲイの代わりに自分が死ぬべきでした。」
石之助はそう言いながら、日本人としての性なのか土下座をしていた。
「顔をお上げなさい石之助。よく知らせてくれました。ありがとう。そして、生きている命を大切にしなさい。お兄様もそれを望んでいるはずです。」
マリアは使用人にこう言いつけた。
「石之助は我が家の大切な客人です。これからは当家が彼のお世話をします。決して無礼な振る舞いのないように。」
兄を亡くし失意の中にあるはずの彼女の言葉、そして厚情に、石之助はただただ頭を下げ続けた。
今はマリアが主となった屋敷で、石之助は療養に努めた。
どんな些細なことでもセルゲイについて思い出したことを、マリアに話して聞かせた。
石之助にとってはマリアとの語らいの時が、もっとも心が休まる時であり、それはマリアにとっても同じであった。
そして、時が二人の距離を少しずつ縮めていた。
「石之助、これからどうするつもりですか。やはり、日本へ帰るのですか。」
「…。」
「ここにいてもいいのですよ、いつまでも。私のためにも…。」
「マリア…。」
石之助はイルクーツクで別れた与一のことを思い出していた。
人生には限られた時間しかない、ならば、不確かなものにいつまでも縛られず、新たな人生を切り開くべきではないのか。
そう思えるくらい、この国で情熱を持って生きた、そして、ここにいて欲しいと言ってくれる女性までいる。
漂流してからの数年間、自分は時の流れを巻き戻すことばかりを考えてきたような気がする。
生き残った5人のうち、前へ進むことを決断したのは若輩の与一だけだ。
若輩でありながら、最も強き男であったのかもしれない。
「もう後ろを向くのはやめよう。セルゲイ、君は私に元治とともに日本へ帰るようにと言ったが、それはできそうにもない。しかし、私は後悔はしない。」
石之助の胸中に自然とそのような思いが浮かんだ。
ここで生き、そしてここの土になるのだ、それが自分の進むべき道なのだと。
フリートラントの戦いの後、ロシアとフランスはプロイセンのティルジットにおいて和議を結び、両国には平和が訪れた。
例え一時的な見せかけの平和だったとしても、彼らの生活に平穏をもたらしたのは確かだ。
身分や人種の違いに戸惑う使用人もいたが、石之助の人柄、信義を重んじるサムライの心、そして彼を慕うマリアの姿が、この家に新たな風を吹き込んだのである。
数年後、石之助とマリアの間に男の子が生まれた。
「この子の名前はどうしましょうか。」
「君さえよければ、セルゲイと名付けたいのだが。」
「お兄様と同じ名前ですね。」
「ああ。そして、私も新しい名前を名乗ろうと思う。ロシアに生きる者としての名前を。」
「どんな名前ですの。」
「パーヴェル・イシノスキーだ。」
石之助は少し照れくさそうだった。
明らかに、本名の榛名石之助をもじったからだ。
「あら、でも日本では、ハルナが姓で、イシノスケが名ではないのですか。何だか逆になってますわ。」
「かまわない。その方が響きがいいから。」
二人は笑みを浮かべながら見つめ合ってていた。
この幸せがいつまでも続いて欲しい、そう思いながら。
その知らせが飛び込んできたのは、しばらく後のことだった。
血相を変えた使用人が、イシノスキーとマリアに告げた。
「ナポレオン率いるフランス軍がネマン川を渡り、ロシア領内に攻め入りました!」
1812年6月のことであった。