第5話 皇帝ナポレオン
フリートラントの戦いの後、元治は捕虜になったロシア兵たちの集団の中にいた。
背水の陣になってしまった状況の中、何とか踏みとどまっていたのだが、これ以上の抵抗は無用な犠牲を出すだけだと判断した味方の将校が降伏を命じたのだ。
ロシア軍の中に、見たこともない武器を使って獅子奮迅の働きをした東洋人がいたらしい。
次から次へと、襲い来る兵士を斬り倒していたそうだ。
そんな噂がフランス兵の間で流れていた。
ロシアは多民族国家であるゆえ、アジア系の兵士がいることはそれほど珍しくもないのだが、農民から徴用された兵士は戦意が乏しく、多くの兵士が我先にと逃げ出す中での活躍は人々の興味を誘った。
「皇帝陛下、これが噂の東洋人です。」
元治は引き立てられた、皇帝ナポレオンの前に。
その瞬間、元治は雷にでも打たれたような感覚に襲われた。
その場にいる将軍連中と比べて背が低く、それほど風采の上がらない、言ってしまえば不細工な男だ。
しかし、何かが違う。他の将軍連中、いや、この世に生きるすべての人間と比べても何かが違うような気がする。
こいつは並の男ではない、セルゲイが恐れるのも無理はない。
戸惑う元治をよそに、ナポレオンの部下が元治に何かを問いただしてきたが、フランス語が分かるはずもなく、ロシア語を話せる将校が代わりに問いただした。
「何という名前だ。」
「金剛元治だ。」
「どこからきた。」
「日本からやって来た。東にある国だ。」
ナポレオンは日本と聞いてもそれほど驚くことはなく、日本という国の存在を知っているかのようだった。
さらに、フランス軍将校が問いただした。
「なぜ、ロシア軍にいるのだ。」
「そこにいる男、ナポレオンの首を取って日本へ帰るためだ。」
一瞬の間をおいて、その場にいるフランス軍のすべての将軍連中が大声をあげて笑い出した。
彼らには、元治がアジアの野蛮人、もしくは狂人にしか見えなかったに違いない。
しかし、もし元治が後ろ手に縛られていなかったら、彼は今にもナポレオンに飛びかかっていただろう。
さらに、他の降伏したロシア軍将校のように帯剣を許されていたならば、ナポレオンの命はこの場で消えていたに違いない。
元治という名もなき東洋のサムライが世界の色を塗り変えてしまう、その一歩手前まで迫った瞬間でもあった。
「お前の顔は覚えた。大将首の顔をな。」
真正面からナポレオンを睨みつける元治の言葉を聞いた瞬間、将軍連中からは笑いが消えた。
その場にいる者すべてが、こう思った。
「この男は真剣だ。間違いなく皇帝陛下の命を狙っている。」
その時だった、一人の男が進み出て、皇帝ナポレオンに願い出た。
「この男を、私にいただけませんか。」
この願い出がなければ、元治はその場で斬り捨てられていたのかもしれなかった。
「好きにしろ。」
ナポレオンはそれだけを言うと、幕僚たちとともに姿を消した。
「自身の命を狙う男を解き放つほどの度胸、やはりこの男はただ者ではない。」
元治は改めて思い知った。
先ほど元治をもらい受けたいと願い出た男が歩み寄って来た。
「はじめまして元治さん、私はフレデリックといいます。」
元治は目を丸くした、何と日本語で話しかけてきたのだ。
「どうして日本語を話せるんだ。」
「私はオランダ人です。昔、長崎の出島に住んでいました。」
フレデリックに引き取られた元治は、彼の住まいがあるオランダのアムステルダムへ連れてこられた。
貿易港として栄えるこの街は、美しい造りの建物や花に満ちた庭園に彩られ、サンクトペテルブルクとは違った魅力を持っていた。
さらに、ここを都とするオランダの国王にはナポレオンの弟ルイが就いていたのである。
「フレデリックよ、俺をこんなところまで連れてきてどうしようというのだ。奴隷として売り飛ばそうとでもいうのか。」
「まさか、そんなことはしませんよ。あなたに興味がありましてね。」
「興味だと?」
フレデリックは、昔を思い出すように話し始めた。
「長崎の出島にはオランダ商館がありましてね。私は、商館長のもとで働いていました。そのとき出会ったサムライの方々はとても興味深かった。生き方、考え方、何もかもが私たちとは違う。そして何よりも信義を重んじる。そんなサムライに、このヨーロッパで会えるとは思っていなかったのです。」
「俺を野に放てば、ナポレオンの寝首を掻くやもしれんぞ。」
「元治さん、あなたはそんな卑怯なことをするのですか。」
確かにそうだ、正々堂々と戦うことを信条とする元治には、そんな卑怯な真似をできるわけもなかった。
その時、元治はあることに気づいた。
「そうだ、オランダは日本と交易のある数少ない国だ。だったら、この街からも日本へ行く船があるはずだ。それに乗せてはくれないか。」
これまでの苦労がすべて報われるような、そんな期待をふくらませた。
「ええ、以前はありましたよ。ここからバタヴィアという日本のはるか南にあるところまで行き、そして日本へ向かう船が。」
「以前とはどういうことだ、今はないのか。」
フレデリックは壁に貼ってある地図を指して話した。
「今、オランダはフランスの支配下です。そして、ほかの国々も。しかし、イギリスだけはフランスに抵抗し続けている。しかも、イギリスは世界一の海軍国であり、すべての海を支配していると言ってもいい。そのような状況でオランダの船が日本へ行けるはずもない。」
日本という小さな国しか知らない元治は、ロシアに流されてからというもの、何度も世界の国々の話を聞かされてきた。
世界はあまりにも広く、多くの国が存在し、それらの国々のせめぎあいの中で時代というものは作られる。
そして、時代の持つ巨大な力は、元治のような小さき者にも容赦なく牙をむいて襲いかかってくる。
「どうです、元治さん、ここで暮らしてみませんか。焦ったところで、今は日本へ帰る手立てはない。ならば、少し世の中を見て回るのもいいと思いますよ。」
「そうだな…。」
元治はじっと窓の外に映る景色、そう、港に停泊する多くの船を見つめていた。
安否の知れない石之助やセルゲイへの思い、日本への思い、それらが錯綜する中で、何もできない自分が口惜しかった。