第3話 サンクトペテルブルク
イルクーツクを発って何か月が過ぎたろうか、どうにかサンクトペテルブルクにたどり着いた。
大きな港を持ち、街中には石造りの建物が並んでいる。イルクーツクとは比べものにならない大きな街だ。
「江戸も大きな街だが、ここもなかなかだな。」
物珍しいのか、落ち着かない様子の元治を石之助が諫めた。
「いつ皇帝に会えるか分からない、ましてや、会えるかどうかも分からないのだ、浮かれている場合ではない。」
同行させてもらった役人の世話で、皇帝との謁見が許されるまでの間、セルゲイという貴族のもとに身を寄せることとなった。
「私は石之助、こちらは元治。この度はお世話になります。」
立派な髭を生やし穏やかな雰囲気を漂わせるセルゲイは、二人の日本人に興味津々のようだ。
「私は東洋に興味があってね。特に、君たちが腰に差している刀に。私も軍人なのでね。」
「よろしければ、お見せしましょう。」
刀は武士の魂とも言われるが、得体の知れぬ我らを世話してくれる以上、それ相応の誠意を見せなければと石之助は思った。
セルゲイは受け取った刀を抜いてみた。
「実に美しい…。それ以上、何とも言えない。」
ロシア人が持つサーベルとは何かが違う。
その国の文化や民族が持つ特質といったものが現れるのか、ますます日本という国に興味が湧いてくる。
「君たちは、剣の腕には自信があるのか。」
「機会があればお見せしましょう。口で言うよりも分かりやすい。」
「ロシアの兵士も強いですよ。」
「私たちも強いですよ。」
三人の顔から笑みがこぼれた。
セルゲイは、この控えめでありながら、奥底に強さを秘めた日本のサムライに心惹かれ始めていた。
そして、東洋からやって来た二人のサムライに、ロシアの兵士にない何かを感じ取っていた。
サンクトペテルブルクへ来て数週間が経った頃だった。セルゲイがその知らせを持ってきた。
「皇帝への謁見が許されましたよ。」
ついにやって来たのだ、この時が。
元治と石之助は、皇帝のいる離宮ツァールスコエ・セローへと招かれた。
セルゲイに連れられやって来た離宮は美しい庭園に囲まれており、荘厳な建物を見るだけで、日本との国の力の違いを見せつけられているようだった。
「あの男が皇帝か。」
通された大広間の最も奥に腰掛ける人物の両側に、多くの貴族たちが並んでいる。
「皇帝アレクサドル1世様だ。」
セルゲイが二人に向かって小声でささやいた。
アレクサンドル1世は何やら側近と話している。
「我々の言い分をじかに聞いてくれるのではないのか。」
石之助がセルゲイに尋ねたのだが、意外な答えが返ってきた。
「皇帝ともあろうお方に、お前たちが直接話すことなどできるわけがないだろう。お前たちの言い分は側近どもに伝えてある。」
側近の一人がセルゲイに向かって言った。
「皇帝陛下は、日本人の剣の腕前を見てみたいとのことだ。」
「面白い、望むところだ。」
元治がすかさず答えたのだが、石之助は早合点の元治に少しばかりあきれているようだった。
「この者が相手をする。」
庭に出た元治の前に姿を現したロシアの兵士は、天を衝くような大男、まるで仁王か不動明王のようだ。
「小僧、逃げるなら今のうちだぞ。」
「でかいの、お前に嫁はいるのか。いないのならやめておけ。みじめな姿をさらせば、誰も嫁には来てくれないぞ。」
「やれやれ、元治にも困ったものだ。」
呆れ顔をしつつも、この瞬間を石之助は楽しんでもいた。
勝負はあっけなく終わった。
相手の1秒先が見える元治に、動きの遅い大男がかなうはずもなかった。
勝負を見ていた皇帝も側近たちも驚いており、そして、元治たちの顔には安堵の表情が浮かんでいた。
「これで日本に帰ることができる。」
しかし次の瞬間、側近の口から意外な言葉が飛び出した。
「今、ロシアはフランスとの間で国家の存亡をかけた戦いを行っている。ただちに日本へ行くための船や金を出すことはできない。」
二人には、何が起こったのかすぐには理解できなかった。
「ならば、どうしろと。」
石之助の言葉に、側近は冷たく返すだけだった。
「フランスに勝利し国の安定を図ることが先決であり、お前たちの帰国はその次だ。」
さらに元治が何かを叫ぼうとしたが、セルゲイがそれを制した。
「やめるんだ。ここで言い争えば、何もかも終わりだ。」
ここで何を言ったところで何も変わらないだろう。皇帝の機嫌を損ねれば、命すら危ういかもしれない。
皇帝アレクサンドル1世は、まるで何かの見世物を見終わり満足したとでも言いたげな表情を浮かべ、奥の間へ姿を消した。
「船が難破してから5年、5年も待った結果がこれか…。」
残された二人は、すぐには動くことができず、そのまま地蔵にでもなってしまったかのようだ。
「とりあえず帰ろう。」
落胆する二人にセルゲイは優しく声をかけたのだが、彼自身も悔しかったに違いない。
「話が違うではないか。」
元治は怒りが収まらないようだった。
「二人の言い分は伝えたのだが、今のロシアは…。」
「フランスという国と戦争をしてるとか言っていたが、どういうことなのだ。」
落胆しても怒っても何も変わらない。我々を取り巻く状況を理解し、対策を考えなければと石之助は考えていた。
セルゲイは地球儀と地図を指して説明を始めた。
「フランスとは西にある国で、ナポレオンという男が皇帝だ。この男はヨーロッパを征服しようとしている。」
「ナポレオンのフランスはそんなに強いのか。」
「強い。」
セルゲイが即答するくらいだ、本当に強いのだろうが、日本を出たことのない二人には世界情勢など分かるはずもなかった。
さらにセルゲイは続けた。
「フランスを除くほとんどの国が協力して立ち向かっているのだが、ナポレオンは強い。昨年もイエナというところで、我がロシアとプロイセンの連合軍がナポレオンに敗れた。」
その時、セルゲイの部下が部屋へ入ってきて彼に何やら伝えた。
「どうしたんだ、何かあったのか。」
セルゲイの表情から、良くない知らせなのだろうとは予想がついた。
「アイラウというところでロシア軍とフランス軍が戦ったのだが、お互いに大損害を出しての痛み分けだったようだ。」
しかし、知らせはそれだけではなかった。
「私にも出陣命令が下った。」
セルゲイは沈痛な表情を浮かべている。
ナポレオンという常勝皇帝に立ち向かわなければならないのである、生きて帰ることができるかどうか。
しかし、沈んだ空気を吹き飛ばすかのように、元治が面白いことを言い出した。
「我らも同行して手柄を立てることができれば、日本へ帰ることをいまいちど皇帝アレクサンドルにお願いできるのではないのか。」
考えうる最後の策であり、もはや、それしか道はないだろうと石之助も考えていた。
「ナポレオンとやらの軍を蹴散らせばいいんだな。あわよくばそいつの首を取ることができれば文句はなかろう。」
まことに元治らしいその言葉に、セルゲイは笑いが込み上げた。
「二人で時代を動かしてみろ。お前たちならそれができるかもしれない。」
どんなに追い落とされようと、絶望の淵に立たされようと、決して闘志を失わない二人のサムライ、彼らなら本当に何かをやってくれるかもしれないと思うセルゲイであった。