第2話 それぞれの決断
「ここがイルクーツクか。」
元治、石之助のほかに、最も若い水主の与一、同じく水主の八郎、そして旗本のせがれである青葉秀直がいた。
初めて見るロシアの大きな街、店が並ぶ通りを多くの人や馬橇が行き交っている。
カムチャツカから船でオホーツクという港町へ行き、そこからはトナカイや馬が引く橇での移動であった。
何もない雪原を進むだけの旅であり、ロシア人や遊牧民の助けなしではここまで来ることはできなかっただろう。
「よく来ましたね。日本と違ってここは寒いでしょう。」
その男は日本語で話しかけてきた。
50歳くらいであろうか、ロシアの服を着てはいるが、顔は日本人だ。
驚く元治たちに彼は話し続けた。
「私の名は新蔵といいます。日本人です。私がみなさんのお世話をすることになります。」
「日本人がどうしてここにいるんだ。」
秀直が問いただす。
彼は旗本ということで、どうも我々の頭領のような態度をとるところがある。
「私も、船が流されここに来ました。この街には、私のほかにも日本人がいます。ここに住み着いた者もいますが、日本へ帰った者もいます。」
新蔵のその言葉を聞いた時、最年長の八郎が叫ぶように言った。
「日本へ帰った連中は、どうやって帰ったんだ。誰に頼めばいいんだ!」
しかし、ことはそう簡単ではないようだ。
「イルクーツクにいる総督にお願いすることになるのですが、やはり皇帝に直接願い出る方がいいと思います。」
「皇帝とは、いったい何者なんだ。」
「皇帝とは、日本でいうところの天子様のような方です。」
天子様か、そんな方にどうやって会えというんだ。
日本人に会えた喜びから、一転して皆の顔には暗い表情が浮かんでいた。
それからは新蔵の世話になり、総督からわずかながらの銀貨が支給されての生活であった。
若い与一が新蔵に尋ねていた。
「新蔵さんは、どうして日本に帰らなかったんだ。」
「キリスト教に改宗してロシア人と結婚したんです。私の主人だった大黒屋光太夫ともう二人は日本へ帰りました。私は、いつになるか分からない帰国を待ち続けるより、ここで生きていこうと、自分の時間を大切にしようと思って。」
そう語る新蔵の目は潤んでいるようでもあった。
ここで生きると決め、家族を持ったとしても、故郷への想いはそう簡単に断ち切れるものではない。
また、こうも話していた。
「ロシアは日本に通商を求めるため、日本語や日本の知識を必要としています。ここに残ってその仕事をすれば、生活に困らないだけの銀貨をもらえますしね。」
与一はその話を聞いて、何か思うところがあるようだった。
新蔵が総督に掛け合ったようだが、我々が望むような答えを得ることはできなかったらしい。
「イルクーツクの総督の話では、やはり皇帝に許可を求めるしかないとのことです。実は、私の主人であった大黒屋光太夫も皇帝に会いに行ったのです。」
「皇帝のいるお城はここから遠いのか。」
「遠いです。馬車に乗って何か月もかかります。」
元治と石之助は、とうに覚悟が決まっていた。
「何か月かかろうと、行くだけだ。」
その時だった、秀直が怒ったように叫んだ。
「貴様ら、私の許可なく勝手なことは許さん!」
元治が何か言い返そうとしたが、それを制して石之助が言った。
「我々は、あなたの家来ではない。進むべき道は自分で決める。」
腰の刀を今にも抜きそうな気配だ。
秀直の返答次第では、本当に刀を抜いていたのかもしれない。
しかし、ここで意外な言葉が聞こえてきた。
「俺は、イルクーツクに残ろうと思う。この街で生きていこうと思う。」
与一の言葉だった。
「俺の家は村一番の貧乏だ。帰ったところで、今日の飯だって食えるかどうか。それが死ぬまで続くんだ。だったら、新蔵さんのところで働いて、銀貨をもらったほうがなんぼかいい。」
「貴様までそのようなことを言うか!」
秀直が与一を怒鳴りつけた。
「秀直様、あなたは旗本だから分らんだろう。俺の村では、娘は遊郭に売られ、男は奉公に出されるかだ。それだってまだいい方だ。身体が弱けりゃ間引きされて殺されるか、捨てられるかだ。そんな生活が待ってるだけだ。もうまっぴらだ。」
与一の話を聞いていた石之助は諭すように言った。
「秀直さん、私たちが忠義を尽くす相手はここにはいない。もう終わったんだ。ここで区切りをつけて、それぞれの道を選ばせたらどうだ。私と元治はもう決めている、皇帝に会いに行くと。」
「八郎はどう思う。」
秀直は八郎にすがるような目で声をかけた。
「とりあえず、ここで許しが出るのを待とうと思う。ほかにも日本人が流れてくるかもしれない。皇帝とやらに会うために何か月もかけて旅をして、生きて帰って来られるのか。行ったところで許しが出るのか。しかも、日本とは逆の方角だ、遠くなるだけだ。」
「もう、その辺で。」
黙って聞いていた新蔵が口を開いた。
「これまで、何人もの流れてきた日本人の世話をしてきました。帰国のことだけを考え、ここで悲嘆にくれるだけの人生を終えた者もいます。もちろん、帰国できた者もいました。しかし、限られた命だからこそ、現状を受け入れ、今の生活を大切にしたいと思っても不思議ではない。」
まるで自分に言い聞かせるように、新蔵は話し続けた。
「私の主人であった大黒屋光太夫も、そういう私の考えを理解してくれたのです。極貧の生活に戻るより、ここで新しい生活を始めたいという与一の気持ちは自然なことなのです。」
「新蔵さん、与一をよろしく頼みます。」
石之助のその言葉に秀直はもう何も言えなかった。
「秀直さん、あなたも我らと一緒に皇帝に会いに行かないか。」
元治は秀直を試すかのように彼を誘った。
「いや、私は、その…。」
生きる執念の違いか、意志の強さの違いか、これ以上この男に語りかけても無意味だと元治は悟った。
元治と石之助は、任期を終えロシアの都サンクトペテルブルクへ帰る役人に同行することとなった。
「与一、達者でな。まあ、帰国の許しが出たら、ここへいったん戻ることになるから、また会えるさ。」
与一は涙をこらえて元治の手を握っていた。
「元治、石之助、帰国の許しを持ってきてくれよ。」
懇願する八郎に、なぜか石之助はこう言うのであった。
「我々が帰らなかったら、その時は、進むべき道を自分で決めなければならない。そのことだけは心得てくれ。」
秀直は下を向いたままで、何も話そうとはしない、いや、話せないのだ。
幸運や偶然が自分たちを救ってくれるかもしれない、そのような淡い期待にすがる男は、何ともみじめなものだ。
「みんな、達者で!」
手を振る二人を乗せた馬車を与一は追いかけた、涙を流しながら。
「元治、石之助、さようなら、さようなら!」
「与一、もういい、ここでいい。お前のことは決して忘れない。幸せになるんだぞ!」
そう叫ぶ元治と石之助の目からも涙があふれていた。