第1話 見えない未来
「俺には、お前の1秒先が見える。お前が1秒後、何をするかが手に取るように分かる。」
19世紀初頭のロシア、サンクトペテルブルク郊外にある離宮ツァールスコエ・セロー。
良く晴れた空の下、日本のサムライ、金剛元治がロシアの兵士と対峙していた。
傍らでは、ロシア貴族たちが彼らに好奇の目を向けている。まるで、野生動物の争いでも見るかのように。そして、奥にある装飾のほどこされた椅子には、ロシア皇帝アレクサンドル1世が腰掛けている。彼もまた、この戦いの結末に興味があるようだ。
「ウォー!」という叫び声とともに、ロシアの大男の兵士が打ちかかってくるが、元治は難なくそれをかわす。
大男の剣は元治をとらえることができない。
汗ひとつかかない元治は、大男の腕を打ち据え、剣を落としたところをさらに額を打ち込むと、大男はもんどり打って倒れた。
腕くらべの試合なので木剣なのだが、それでも大男の額からはおびただしい血が流れている。
「まったく話にならん。」
そう思っている俺を見ながら、榛名石之助がにやついていやがる。
「元治ともあろうものが、ずいぶん手こずったね。2回も打ち込むとは。」
俺と石之助は幼馴染であり、彼の剣の腕前は俺と対等、いや、それ以上かもしれない。
相手の息づかい、瞼や視線の動き、わずかに力を入れた時に浮き出る血管、かすかに逆立つ毛の一本一本、意識せずとも必ず現れる予兆みたいなものがある。
目で見るのではない、己の持つすべての感覚をとおして感じとることで、相手の1秒先の姿が見える。
1秒先が見えるだけで俺には充分だ。
絶対に負けることはない。
今、俺と石之助は異国であるロシアという国にいる。
さすがに自分の五感をもってしても、我々がこの先どうなってしまうのか、まったく見当がつかない。
そうだ、俺たちは日の本の国を離れて、もう5年近くにもなる。
私こと金剛元治、そして友である榛名石之助は、徳川幕府の直轄地である天領となった東蝦夷地の警備に赴くため、北へ向かう船に乗った。
蝦夷地などという未開の地、しかも、生きて帰ることがかなうかどうかも分からぬゆえ、我々のような食い詰めた浪人であっても、願い出ることで雇ってもらうことができた。
お上にとっては、死んでも惜しくない捨て駒というわけだ。
いや、適当なところで死んでくれた方が、都合がいいのかもしれない。
そんなことは分かりきっているのだが、我々貧乏人は生きるためには命を削るしかない。
私も石之助も失うものは何もない身の上、死んだところで悲しむ者もいないのだから、考えようによっては気楽このうえない。
しかし、蝦夷地へ向かう船が嵐に呑まれてしまったことから、運命の歯車が動き出した。
どれだけの間、漂流していただろうか。
蝦夷地は米がとれないため、大量の米を積んでの船旅であったので、その米を食いつないで生きながらえていた。
しかし、その間に何人もが死んでいった。人が死ぬたびに、彼らの遺体を海へ捨てる。
そして、どこへともなく彼らは流れていく、まるで故郷へ帰ろうとするかのように。
何度もそのようなことが繰り返され、気が付けば、生き残っているのは若い5人だけになってしまった。
「陸だ、陸が見えるぞ。」
何か月ぶりに見る陸地であったが、何だか様子が変だ。
鉛色の空の下、冬でもないのに冷たい風が吹きつけ、荒涼とした大地は背の低い樹木に覆われている。およそ大地の恵というものが感じられない異様な地だ。
ここは蝦夷地なのか、人が見えるがアイヌだろうか、それと妙な服を着た大柄な男たちがいる。
「ここはどこだ、蝦夷地なのか。」
得体の知れない者たちに問うてみたが、言葉がまったく通じない。彼らも戸惑っているようだが、敵意らしきものはないらしい。
いずれにしろ、生きるためには彼らに頼るしかなかった。
後で知ったことだが、どうやらカムチャツカというところに流れ着いたようであり、大柄な男たちは我らが警備するはずであった相手であるロシアという国の者だったのだ。
それからの私たちは生きるために必死に言葉を覚えた。
流ちょうに話すことはできないが、ある程度の会話はできるようになった。
「日本へ帰りたい。船を出して欲しい。」
最も言葉を覚えるのが早かった石之助が、何度もロシア人に願い出たのだが、
「日本へ行く船はない。イルクーツクに日本人がいるから、とりあえずそこへ行け。」との答えを繰り返すだけだった。
「イルクーツクとはいったいどこにあるんだ。」
「どうして、そんなところに日本人がいるんだ。」
答えが出るはずのない問答をするのが、どうも性に合わない。ましてや、ここにいたところで寒さと飢えで死ぬだけだ。
だったら、行けと言われたところに行くしかないだろう、そこが地獄であったとしても。鬼がいようがなんだろうが、叩き斬ってでも己の道を切り開くだけだ。
「俺はイルクーツクとやらに行く。一人でも行く。行きたくない者はここに残ればいい。」
「私も同感だ。自分の命は自分で守るだけだ。」
石之助が間髪入れずに言い放った。
俺と違って思慮深い石之助には似つかわしくない言葉だ。
多分、これからの旅は、長い旅になるだろう。
そして、生きる執念を持ち続けた者だけが生き残るのだ。
間違いなく苦難に満ちた旅になるだろうが、自分たちの命を脅かす運命という巨大な敵に対し、あふれんばかりの闘志と腰に差す刀で立ち向かうだけだ。
未知のものへの恐怖より、飽くなき探求心や冒険心が、元治と石之助の二人を包んでいた。




