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たんぽぽ畑でつかまえて

作者: 前田 耕平

駆は、小さな秘密を持つことによる快感を、日記を書くことに見出だしている。

どうしても市場に出回るのは雄弁な者の言葉が多いが、駆は、誰に見せるでもない日記を書いている。

駆が、日記を書く媒体として紙のノートにこだわる理由は、データ化されないという所にある。

別にデータ化されて困るような文章を書いているわけでもないのだが。

駆は、各駅停車の電車に乗っていた。

窓の外を眺めていると、人気の少ない公園で、ベビーカーに赤ん坊を乗せた母親を見つけた。

駆は、なぜか、その母親が今から子どもを置き去りにして立ち去ろうとしているのではないか、と感じた。

しかし、そんなに簡単に、親は子どもを捨てないだろうと、根拠はないが強引に、考えることにした。

駆の頭の中で突発的に名もない孤児が形作られた。駆は、暇潰しに、会話を楽しむことにした。すると、孤児は”自分には親がいない”ということを、駆に対して隠そうとして、話を逸らしたり、わざと、どうでもいい質問をしてきたりした。孤児は、駆が頭の中で作り出した孤児なのだから、隠したところで、仕方がないのに。

駆は、不思議な感情になった。親がいないということは、子供の責任では無いにも関わらず、駆は、孤児にとって警察や教師のような、めんどくさい存在に規定されてしまったのだ。

駆は、孤児に対して”自分はこういう存在だ、無害である”という事実を言葉によって示そうとしたが、丁度いい言葉が見つからなかった。見つからないということは、駆をめんどくさい存在だと規定した孤児の判断は正しかったということになるのかもしれない。

駆の頭の中で喋る孤児は、ベビーカーの赤ん坊そのものでは、もちろん無いが、孤児に、めんどくさいと思われてしまったことを、どう受けとめればいいのか、駆は分からなかった。

不意に、小さい頃の記憶がよみがえる。そういえば、あの公園は、よく母親に連れてきてもらって遊んでいたということ。そして、たんぽぽ畑のことも…。

意識を現実に戻すと、駆の目の前に座る、おばあさんは膝の上に本を開いたまま、目を閉じていた。

しばらくすると、駆が降りる駅に電車が停まった。

春子は、赤坂先生に恋をしているが、相手にされていないことに気付かずに、あるいは、気付かないふりをして、自分勝手な恋愛ごっこを続けている。皆が見ている教室の中でも。

駆は、そんな、春子を痛々しく思って、いつも遠くから見ている。しかし、反対に羨ましく思っている部分もある。駆は、何をするにしても、それをすることによって、人からどう見られるかを考えて、まず、最初に保身の為のラインを目の前の人間との間にだけではなく、周りの全員との間にも瞬間的に引いてしまうからだ。

春子は女子からも男子からも、疎ましがられ、一部のいじめが好きな女子からバカみたいに弄ばれている。

客観的にみて、いじめの原因は、春子にあるので、誰も春子を助けようとはしないし、助けられない。

春子は、嘘をつきすぎるのだ。そして、人は誰しも嘘をつくが、嘘をつく時に極力、嘘がバレないような工夫をする。その工夫が春子は、目に見えてヘタクソなのだ。

駆には、春子が恋している赤坂先生は、人気教師という仮面を剥がされることに怯えているように見える。ベタベタとすり寄ってくる春子を赤坂先生は邪険には扱わないし、一見、優しい。しかし、春子に向けられる微笑みには時折、微かな嫌悪が含まれているような気がする。しかし、それで、赤坂先生の人間性を自分の中で否定しようとも駆は、思わない。男でも女でもアイドルのように崇められる人間にとって、自分の感情を表にしないということは、ある種、義務のようなものなのだろうと思うからだ。


駆が、昼休みに便所に行くと、春子が個室トイレの取手にロープで両手を縛りつけられて立っていた。

春子は、”なぜ、自分がこんな仕打ちを受けるのか、意味が分からない”という被害者意識でもって、いつも通りにメソメソと泣いていた。

そう言えば、二時間目も三時間目も教室にいなかったなと、駆は気付く。


「赤坂先生はお前のこと好きじゃないし、好きにはならんよ」

「なんでそんなこと言うの?」

「事実だから」

「なんで?」

「お前だって分かってんだろ?お前のやってること、社会に出たらストーカーだよ」

「好きなんだもん」

「だから、それがストーカーだって」

「うるさい」

イヤイヤと頭を横に振っている。脳みそでバターでも作るつもりだろうか?と、駆は思った。


ロープをほどいて、教室に戻ったら、クラスメイトの村上が話しかけてきた。

「駆君、放課後空いてる?空いてたら一緒に立花書店とアニメイトにいかない?一人で行くのもなんだしさ」

「いいけど、村上は、昨日も行ったんだろ?」

「まあね、僕くらいになるとね」

「ははは、なると、なんなんだよ」

村上の自意識は変な方向に曲がっているが、それは彼なりの真っ直ぐさなのだと駆は、最近、理解し始めた。

「駆君みたいな、陽キャの友達もいるってとこを店長や店員に見せつけとかないと。…奴らがナメた態度取るようになっちゃ困るからさ」

村上は、得意の冗談が決まったとでもいうように、こちらを見て笑った。

「俺は陽キャではない…」

一応否定するし、客観的にみて俺は陽キャではないと思うが、村上が、そう思うのだから、村上の中ではそうなのだろう。


村上は、アニメや漫画を愛していて、月にマンガ雑誌を二十冊は購読していて、その上、単行本や、グッズやフィギュアなども集めているから、大変な出費だろう。

村上が、少し前にハマっていた小学生の女の子がたくさん出てくる将棋のアニメを勧められて、観始めたら面白くて最後まで観てしまった。その事を駆は、村上に伝えると、じゃあ、これも観ろ、あれも観ろと、青学の陸上部における原晋のように、監督目線でレベルの高いアニメ好きに駆を育て上げようとしてくるようになってしまった。

村上は善人だが、コンプレックスを抱えた、精神的に弱い人間ほど偉ぶって、自分の信者を作りたがる傾向があると、駆は感じている。


村上と、くだらない話を続けていると、クラスメイトの祥子が近寄ってきた。

「駆君、春子を助けたんだって?」祥子は、顔面のみで、”わたしは意地悪ですよ”という笑顔を作っていた。こちらに歩いてくる時に用意していたのだろう。

「助けたっていうと、俺が良い奴みたいじゃん」

「知ってるよ。ロープほどいたでしょ?なんで?」

「ほどいちゃダメだったの?だったら書いといてくれないと。”ブス”とか”わたしでオナニーしてください”とかじゃなくてさ」

「あはは、確かにそうだね、今度から書いとくわ。…ねぇ、春子のこと好きなんでしょ?辛いねぇ、片想いは」

よしよしと、駆の頭を撫でる祥子。

「俺は入学以来、ずっと祥子が好きなんだけど、勘違いされて悲しいな、本当に辛いよ、片想いって」

「嘘が上手いでちゅねぇ、…お金持ちがそんなに偉いんでちゅか?バブバブゥ」駆の頭を撫で続ける祥子。完全に駆をバカにして、怒らせようとしているのが分かる。なんでこんな、あからさまな挑発に乗ってやる必要があるだろうか、馬鹿らしい。と、駆は思った。

「ハハ、俺の兄貴は将来偉くなるだろうから、俺も今から媚び売るのに苦労してるよ」

「ふふふ、可哀想に、よちよち」

村上は、フリーズしたスマホのように体も心も運動を停止させているように見えて、その姿の滑稽さに、駆は吹き出しそうになった。

その後も、しばらく駆の頭を撫でてから、祥子は自分の席に戻っていった。


駆は、自分の父が長年に渡って市議会議員であることや、母が某有名企業の家の息女であることが、生活を営む上で、自分を物質的にも精神的にも生きやすくしていることについて、時々考えるが、それについて苦悩や自己嫌悪だのをしていようものなら、太宰的だと鼻で笑われるのは目に見えていたので隠していたが、自分をバカにできないほど、自分をバカだと思えないほど、自分に自信があるわけでもなかった。


駆は、春子のように誰かに恋をするということもなく、兄のように勉強が出来るわけでもなく、村上のように何かに熱中できることもなく、父のようにひたすら欲深くなることもできず、ただ、生きてるだけなのに、むやみやたらと恵まれてる不自然さと、夏場の蚊のような不快さを自分自身に感じることがある。


春子は、幼い頃から何事にもトロくて、いつもぼんやりとしていた。その上、病弱で鼻水をよく垂らしていたので、ハナコと呼ばれてバカにされていた。


春子は高校に入って赤坂先生と出会い、生まれて初めて異性から優しく接してもらえたので、当然のように恋をした。


春子は友達と楽しい会話というものをしたことがなかった。

友達は、YouTuberの誰々が面白いとか格好いいとか、ジャニーズの○○君が出てたドラマが面白かったとか、春子の分からない難しい話を延々と、やり合っていて会話に入っていくことすら、困難だった。

春子は、もう15歳になるのに、家では子供の頃に買ってもらったお気に入りの絵本を繰り返し読んだり、子供の頃から遊んでいる、春には、たくさんのたんぽぽが咲く公園に行っては日向ぼっこをして遊んでいた。学校の勉強も全然ついていけてなかった。そして、そのことでお母さんからよく怒られた。

春子は、なんでクラスで自分だけがいじめられるのか分からなかった。”今日も、祥子ちゃん達怖かったなぁ”と開花前のたんぽぽに囲まれて春子は、思い出す。


「お前さぁ、なんで、私たちにいじめられてるか、分かってる?」

「えっ?…なにが?」

「なにが?が答えなの?あはは、こいつマジもんのバカじゃん」祥子達は男子トイレの中で、春子を包囲した状態のまま、笑った。

「ご、ごめんね」

「お前さぁ、赤坂先生のことが好きなんだろ?赤坂先生はお前のこと好きじゃないけど、好きになってほしいんだろ?」

「え?赤坂先生?好きじゃ…ないよ、違うよ」

祥子達は、ハハッと渇いた声で笑った。

「嘘つかなくていいよ。私たちはお前と赤坂先生に両想いになってほしくってさ、良い方法を考えたわけよ」

「え?…なにが?」

祥子達は春子の返事も聞かない内に行動を始めた。

春子は、あっという間に個室トイレのドアの取手から両手が離れなくなるようにロープで、きつく縛られた。

「…いてて」動けなくなった春子を見て、大きな笑いが起こる。

「赤坂先生は職員用トイレしか使わないと思うけど、もし、万が一の確率で来たとしたら助けてもらいなよ。赤坂先生に興奮してもらえるように貼り紙もしといてあげるから。ほんと、わたしって、優しすぎるわぁ」

「やだやだ!」春子は暴れようとしたが、バチンと大きな音が鳴った。春子は驚いて目を丸くした。ほっぺがジンジンしてきたので、ビンタされたことに気づいた。涙がポロポロと溢れた。

「…祥子ちゃんごめんなさい」

「かわい~」と言い残して、祥子達はトイレから出ていった。


祥子達が出ていってから、駆がロープをほどくまでの間に、たくさんの男子がトイレに入ってきては、春子のみっともない姿を見て驚いてから、笑ったり、憐れんだりして、最終的には見なかったことにして、出ていった。春子は「助けて」とは、言わなかった。


単純な春子は、祥子が言うように”赤坂先生が助けに来てくれたら良いのにな”と思ってしまっていたからだった。


春子は気がつくと、公園で、たんぽぽに囲まれたまま眠っていた。起きた時には、空はもう暗くなり始めていた。

駆が、帰り支度をしていると、祥子の彼氏だという岡田が話しかけてきた。

「お前のこと祥子から聞いたけど、なんなの?祥子のこと、えらくバカにしてくれたそうじゃんか?どーゆーつもりなん?」

「バカにされたことはあっても、バカにしたことはないと思う」

「祥子が嘘ついてるって言いたいわけだ。ふーん。」

「嘘というか勘違いしてるんじゃないかなって思う」

「お前が勘違いしてるって可能性はないんか?」

「そうかもしれないけど、自分のことはなかなか、気付けないもんだから」

「お前、俺らのことバカにしてんだろ?」

「してないと思う」

「俺がお前のことを殴れないと思ってる?」

「雰囲気的に殴りそうだなと思ってる」

「正解」


校門から出て300メートルくらい歩いた辺りで、村上が後ろから追いかけてきて、駆に、話しかけてきた。

「…うやぁ、顔エグいな。何発殴られた?」

「5発だったと思う。殴られるの見てなかったのか?」

「怖いから隠れてた、岡田は強いからな、あーいうのからは逃げるが勝ちだ」

「俺も逃げたかったよ。…そういえば、本屋一緒に行く約束してたな。殴られて忘れてたよ、すまん」

「そんなことは、別にいいよ。僕も隠れてたし。へへへ。…でもしかし、喧嘩なんて、馬鹿げたもんだと思うけど、大人も戦争ばっかりしてるからな。人間てそういう生き物なんだよな」

「戦争か、ずいぶん大きい話になったな」

「でも、ほんとにそうだと思うもんなぁ、主義だ、思想だ、お国の為だって言ったって、殺しあいして、勝った奴は負けた奴から金を奪って、帝国主義の時代だったら、国まで奪っちゃうんだもんさぁ。子どもの喧嘩と同じじゃねぇーか、って思うんだよなぁ」

「年齢だけで、大人と子どもを分けるから、そーいうことになる。まぁ、どこの国も、政治家になろうなんて奴にろくなのはいないさ」

「言い切るねぇ。でも君の父親は確か、市議会議員だろ?」

「エディプス・コンプレックスてやつかな?これが有名な」

村上は、”んなははは”と、面白かった頃の松本さんみたいな笑いかたをした。

「…子どもみたいな会話だな」と村上が呟いた。

確かに子どもみたいな会話だと、駆は思った。正しいだけの子どもの理屈では、社会はとてもじゃないが変わらない部分が大きい。それが現実だ。しかし、大人の理屈を振り回して、生きてるだけの大人になるくらいなら、ツィゴイネルワイゼンの中砂糺のやうに、狂ったままに生きて気づいたら死んでいたというほうが、いくらかマシな生き方のように思った。

「まぁ、子どもなんだから、しょうがないだろ」


春子は、ブレザーのポケットからハイチュウをとりだして、包み紙を剥いで口のなかに放り込んだ。


春子は春に、いっせいに咲くたんぽぽが好きだ。

黄色くて元気な、たんぽぽが好きだ。”一緒に頑張ろう”って春子に言ってくれてるみたいだから。

そして夕方になると、黄色いたんぽぽを赤い夕日が、とってもきれいな黄金に変えてしまうから。

黄金のたんぽぽに包まれているとき、春子はすごく幸せな気持ちになる。お母さんやお父さんにありがとうって言って、抱きつきたくなる。

今年も見れるかな、黄色いたんぽぽ。黄金のたんぽぽ。

見れますように。春子は神様にお願いした。

………お願いってこういうことだったんだ!

昔、初詣に神社へ行った時、お母さんに神様になにかお願いしなさいって言われたときには、なんにも思い浮かばなかったけど、たんぽぽのお願いをすればよかったんだ。

わたしってやっぱりバカだなぁと、春子は、ちょっぴり落ち込んだ。


春子が、家につく頃には、すっかり空は暗くなっていて、きれいな三日月が置いてあった。玄関のドアを開けると、心配してたお母さんが飛んできて、やっぱりすごく怒られた。

「ねぇ、お母さん、お願いごと決まったの」

「お願いごとってなによ、お母さん今、怒ってるのよ」

「今度、神社行ったらするお願い。たんぽぽにした」

春子が、あまりにも嬉しそうに言うものだから、お母さんは怒ってるのがバカらしくなってしまった。

「まったくもう、…早く手を洗ってきて、ご飯たべちゃいなさい。」

「はーい」


お母さんは、春子が学校でいじめられていることを知らない。



駆は、寝る前に書く日記を書いていた。

最近の駆は、戦争映画を観たり、戦争中に兵士が書いた日記などを読んで、混沌とした今の時代との共通点を考えてみたり、戦争中の関東軍が、なぜ、あのような無謀な戦いかたをしてしまったのか?どの地点で、日本は引き返すことができなくなってしまったのか?”軍部の暴走”という言葉に対する違和感や、その言葉の主語は誰なのか?などについて考えている。

コーヒーを飲みながら、タバコを吸って、いろんなことを、より多角的な視点から考えようとしてみても、いまひとつ考えがまとまらない。話を変えてみる。

今日は、わりと濃い1日だったなぁと、思った。

祥子も岡田も、もう少し冷静に自分というものを見つめるべきなのだ。

学校という、小さな池のなかで、虚勢を張ってなんになるというのだろうか。

しかし、全国のどんな学校にも、駆が通っている高校にあるのと同じようないじめは存在しているのだろうし、そして、全国のどこの学校にも、駆と同じような、少し偏屈な人間はいるのだろうと思った。誰しも、自分は特別と思いたい気持ちは分かるが、そんなに大勢の特別な人間がいたら、それはもう普通の人間でしかないのだし、そういう意味で、駆は自分を客観的に見つめると、どう考えても、少し偏屈なだけの普通の人間なのだった。

また、話は変わるが、駆は今日、初めて話した、春子のことが気にかかっていた。

しかし、なにが、気にかかるのかを言語化するのは難しい。気にかかるという程度のものだから。

今まで、駆は春子に対して、くだらない嘘をつく、恋愛中毒者という印象を持っていたが、今日いくらかの会話をしてみて、印象はガラリと変わった。

下品な悪口が書かれた貼り紙をされて、その上、身動きが取れない状態になっていた春子を見るに見かねた駆が、両手を縛っているロープをほどこうとした時の会話を思い出した。


駆は、下を向いてスンスンと鼻を垂らしながら泣いている春子に近寄った。すると、春子は、危険を感じたのか、体をビクンと震わせて、こちらを睨んだ。

「なにするの!」

「ロープを取ってやるだけだ」

「なんで取っちゃうの!」

「………今の状態はお前の趣味か?なら、ほっとくけど」

「…祥子ちゃん達がやった」

「その体勢はきついだろ?」

「…ほどいちゃうの?」

「意味分かんない女だな、…そもそもここは男子トイレだから、お前は居ちゃいけないんだ。迷惑なんだよ」駆は、喋りながら、春子の両手を縛るロープをほどいてしまった。

「………ほどいちゃった」

「はは、普通はありがとうって言われる場面だけどな」

「…赤坂先生にほどいてほしかったのに」

バカげたことを言いながらも、春子はまだ、鼻を啜っている。

「赤坂先生なら職員用のトイレを使うはずだぞ」

「…知ってるもん」

「お前なぁ、嫌なことは嫌って言えるようになれよ。お前の人生なんだから」

「…分かんない」

「はぁ、…助けてもらおうとか、分かんないとか、お前はほんとにダメなやつだな」

「…うん、ダメなやつだよ、わたし」

「同情だけで、人は人を好きにはならないってことも分からないのか?」

「………そうなの?…でも、赤坂先生は違う…」

「お前がどう思おうが、お前の勝手だけど、同情で人から愛されようなんて虫のいいことを考えるのはやめろ。人間が汚れていくぞ」

「…だから、みんなわたしを汚い物みたいに扱うの?」

「いや、…そういう奴らは端からなにも見えちゃいないんだ、自分自身の汚さも含めてな」

「…分かんない」

「まあ、俺も汚い人間だけどな」


とまあ、そんなことを話して、駆は先にトイレから出た。話しすぎてしまったような気がしたからだ。なんで、初めて話す相手にあんな風に自分をさらけ出してしまったのか、駆は自分でも、分からなかった。春子と同じように。



春子は、上手く自分の気持ちを言葉にすることがヘタクソである。自分でも気がついていたが、それすら言葉にできない、自分の頭の悪さに悩んでいた。

そんな、春子の心の中では、嘘と、怒りと、悲しみと、純粋と、恋と、卑屈が一緒に暮らしている。

彼らの中でも、卑屈が一番でかい顔をして、心の部屋でふんぞり反っていて嘘を手なずけている、怒りは連日のストライキによって、疲れて眠っていて、悲しみは四六時中メソメソしていて、恋と純粋は仲良くランチをしたり、テニスをしたり、映画を観たりしている、というのが最近の彼らの動向といえる。


春子は、自分は他の人と比べてどうやら、頭の出来が良くないことは感じていた。だから、純粋を愛してくれる、両親の前では純粋な自分を表に出していた。どうせ、自分はそれくらいしか、取り柄がないし、と卑屈に考えていた。


しかし、春子の純粋を愛してくれているのは、たったの2人、両親のみであることにも、薄々、気づいてもいた。でも、純粋に代わる、愛されるなにかが自分にあるとは思えなかった。


卑屈も、嘘も、怒りも、悲しみも、表に出せば、いじめられることはあっても、愛されることはないと、春子は、今までの経験上、知っていた。


高校に入って、赤坂先生と出会ってから、初めて、恋という感情を知った。日常生活からTVドラマの世界まで、いたるところにあって、友達が良く話していて大好きな、でも、春子にはさっぱり分からなかった例のやつ。


赤坂先生は誰にでも、優しくて、春子にも優しい。これは、春子にとって、すごいことだった。友達はいつも、みんなは仲が良いのに、春子にだけは意地悪だった。春子は赤坂先生に恋をしてから、難しいドラマを頑張って観るようになったし、友達が話している恋とか、愛の話にも聞き耳を立てて、どんな勉強よりも、一生懸命に理解しようと頑張るようになった。


春子は、赤坂先生がお母さんとかお父さんと同じように、春子を愛して、可愛がってくれることを望んだ。


もしかしたら、お母さんとかお父さん以上にだったかもしれない。


春子は、勉強のために観たTVドラマや、恋や愛に関して友達が話していた内容から、どういうことをしたら、赤坂先生に好きになってもらえるかを考えて、実践した。

そして、赤坂先生を見かけたら走って行って、勉強したばかりの恋と純粋を貢ぎ物でもするかのように春子は、差し出した。

赤坂先生はいつも、春子があんまりにもしつこいから、”こまったなぁ”の顔をしながらも、よしよしと、春子の頭を撫でたり、優しい言葉をかけたりしていた。


春子は、今日、駆君に言われた言葉の内容を頭のなかで反芻させていた。

駆君はわたしを汚い人間として、扱わなかった。そして、汚い人間にはなるなと言った。

嫌なことは嫌と言えわたしの人生なんだからって言った。

春子は、駆君にその言葉を言われた時には、よく意味が分からなかったけど、振り返って考えてみると、なんだか、温かい言葉のような気がした。

同情だけで、赤坂先生はわたしを好きにはならないと駆君は言った。

俺も汚い人間だ、とも言っていた。

春子は、駆君を汚い人間とは感じたことがなかった。駆君が、思う”汚い”と、わたしが思う”汚い”は何かが違っている気がする。

駆君は、結局わたしになにを言いたかったのだろう?

結局わたしにどうしろと言っていたのだろう?

春子は、グルグルグルグルと一生懸命、頭を使って考えようとしたが、瞼が重たくなってきたので、ベッドに入って寝た。


その夜、春子は、夢の中で赤ずきんちゃんになっていて、おばあさんの家にお見舞いに行くと、童話の通りに、おばあさんに化けた狼がいた。

今までの春子だったら、食べられても、猟師さんが後で助けてくれるからと思って、狼に食べられていたかもしれない。

でも、今の春子は、それは良くないことだと思う。なぜなら、それは、自分の人生を誰かに預けてしまうことだから。それはやっぱり、甘えだし、家でわたしの帰りを待ってるお母さんを裏切ることのような気がするからだ。

勇気を出して、春子は、狼に言った。

「わたしを食べないで!!」



次の日、学校に行くと、赤坂先生と英語教師の伊東先生が結婚したという噂でクラスは持ちきりだった。悲しさのあまり、泣いている女子までいる。

駆は、春子を確認すると、なんにも理解できてないことが一目で分かる、ボケーっとした顔をしていた。

赤坂先生が教室に入ってくると、早速、女子達からの質問責めにあった。

「結婚するってほんとですか?ショック~」

「いつ頃付き合い始めたんですかぁ?」

「きっかけはなんですか?」

「いつ式挙げるんですか?赤ちゃんはまだてすか?」

「指輪はもうあげたんですか?プロポーズの言葉はなんていったんですかぁ?」


人は、俗っぽいことを言うことに、躊躇いや恥ずかしさを感じなくなった時から、なにか大切なものが失われていくと、駆は思う。

しかし、それは目には見えないものなので、なにか大切なものを失ってしまった本人は気付かずにケロッとしていることが多い。それもその筈で、彼ら、彼女らが失ってしまった大切なものとは、それに"気付ける"という感覚そのものなのだから。

駆は浅いため息をついた。


赤坂先生はいつも通りの爽やか笑顔で、女子達からの質問に簡潔に答えた。

「まあ~、本当に噂話の回るスピードは速いな。僕なんかの結婚を祝ってもらえるのは嬉しいが、貴重な授業の時間を使ってまで話す話でもないだろうから、この話はここまで。じゃあ、教科書の84ページを開いて…」


女子達はまだ、聞きたがっていたが、赤坂先生は授業を進めていくので、その話はそこで終わった。


また、駆は、春子を確認すると、今度は拗ねた子どものような顔をしていた。



駆は、幼い頃、母親に連れられて遊びに行った、たんぽぽがたくさん咲いていた公園に行きたくなった。あの頃の母親が、とても優しかったことだけは忘れようとしても忘れられない記憶として、駆の中に残っている。

理由はよく分からないが、最近、なぜだかひどく落ち着かない。

学校が終わると電車に乗って、思い出の公園がある駅で降りた。

公園に着くと、”この公園こんなに小さかったっけ”と、ありきたりなことを感じた。幼い頃は、世界が大きく見えたが為に、”たんぽぽ畑”と呼んでいた、たんぽぽが密集して生えているスペースに腰を下ろす。

タバコを胸ポケットから取り出して吸い始める。

どうして、こうなっちゃったかなぁ?と呟いて、寝転がると草の匂いがした。


「何してるの?」誰かの声がした。

駆は、びっくりして目を覚ます。いつの間にかうたた寝をしていたらしい。

声をかけてきた相手は春子だった。

「なにって寝てたんだよ。つーか、お前が起こしたんだから分かるだろ」

「なんでここにいるの?」

「どうでもいいだろ」

「どうでも良くない。そこわたしの場所だもん」

「そーですか」

駆は、また、タバコに火を着ける。

「タバコは二十歳から。体にも良くない」

「いーんだよ、俺の体なんかどうでも」

「この前と言ってること違う。嘘もよくない」

春子は、駆の横に座ってタバコの煙をくんくんと犬のように嗅いだ。

「どうして、この場所をしってるの?」

「子どもの頃、母親に連れられて、よく来てたんだ………まぁ、本当の母親じゃないけどな」

なんで、俺はこの前、初めて会話したばかりの春子に、こんなに大きな秘密を打ち明けているのだろう?と駆は自分自身に対して不思議に思った。

駆は渇いた笑いを煙と一緒に吐き出した。

春子は、しばらく考えていた。

「…本当じゃないお母さん?狼ってこと?」

「…なに言ってんだ?お前ってやっぱバカだなぁ」

春子は駆を睨み付ける。

「わたしはバカじゃない、駆君がそう言った」

「そんなことを言ったけ?………チェンジリングって知ってるか?」

「知らない」

「生まれたばっかりの赤ちゃんて、どれも同じように見えるから、ごく稀に入れ替わっちゃうことがあるんだ。病院のミスで。それで俺は本当のお母さんとハグレちゃったってわけ」

「ふーん。じゃあ、本当のお母さんはどこにいるの?」

「俺を生んだあとすぐに死んじゃったらしいね」

「じゃあ、本当のお父さんは?」

「母さんが死んだショックで、半年後に自殺したらしいね。取り違えられた子どもと一緒に」

「駆君は悲しい?」

「微妙なとこだな、感情に名前をつけるのは簡単だけど、それが正しいかの確認はできないから」

「駆君は一人ぼっち?」

「そんな気もするし、そうじゃない気もするし、まぁ、そんなことどうでもいいことだと思ってるってのは確かだな。…ところで、なんでこの場所が春子の場所なんだ?」

「たんぽぽが好きだから」

「………それだけか?」

「うん」

「確かにきれいはきれいだけどさ」

「もうすぐ、黄金のたんぽぽ見れるよ」

「黄金のたんぽぽ?なんだそれ?」

空を見上げると太陽は赤く染まり始めていた。

「黄色いたんぽぽと赤い太陽で黄金のたんぽぽになるの。わたしが見つけた」

「俺には見つけられなかったのに…春子は、すごいな」

「ありがとう」春子は笑っていた。


駆は、遠い記憶の中にしかないと思っていた、まだ、世界の全てが大きくて、美しかった気がする"たんぽぽ畑"のそのなかに自分がいるような気がした。


そうこうしてる間に、たんぽぽは赤い夕陽に照らされて本当に黄金色に輝きはじめた。


End






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