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喫茶いなりの稲荷さん

作者: 日博

 ここは、天上の神様が住まう世界。

 広い広い雲の上で、一つの小さなお店が開いています。

 お店の名前は『喫茶いなり』。その名の通り、お茶やコーヒーを淹れてもらえる場所です。

 神様はみな忙しいのでお客さんは多くはありません。なので店主はいつものんびりと窓から雲上に広がる美しい光景を飽きずに眺めて過ごしています。

――――からん、ころん。

 そして不思議なことに、ごくまれに人々が生きている世界からこの喫茶店に迷い込んでくる子どもがいます。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな表情を残したまま、店主は店の扉の方を向きながら珍しいお客さんに挨拶をしました。

 きつね色の耳をぴょこんと立てた姿に驚いたのか、小さなお客さんは扉を開けたまま立ち止まってしまいました。

「こちらにどうぞ」

 カウンターから手を伸ばして、すぐ目の前の席へ座るよう促します。

 やっと扉が閉まって、お客さんはちょこんとカウンター席に落ち着きました。

 店主がメニューを表を差し出すと、遠慮するように手を振って見ようともしません。

「お代はいりませんよ。神様の世界ですもの」

 ふふふ、と笑みを浮かべて安心させようとします。小さなお客さんは少し困ったような顔をしながら、じっとメニューに目を走らせるのでした。


「お待たせいたしました。当店自慢の『いなり寿司』です」

「あ、ありがとうございます」

 小さなお客さんは、どうやら困った挙句の果てに看板メニューを選んだようです。油揚げが好物な店主の作るいなり寿司はそのこだわりもあって他の神様をも笑顔にさせるほど絶品です。

 ぱくり、と大きな口を開けて丸々一個を含み、頬が膨らみました。よほど空腹だったのでしょうか。

「おいしい……」

「それはよかったです。他の神様たちもよく喜んで食べてくれるんですよ」

「神様……神様って本当にいるんですね」

「人々の気付かないところに、いつ、どこにでもいるのです。人々がそれを望み、祈れば、いつだって」

「えっと、じゃあここのお店の人たちも、神様?」

「もちろん。従業員は私だけですけどね」

「ちなみに、どんな神様なんですか?」

 その質問の直後、少しの間静寂が続きました。うーん、うーんと喉を鳴らしながらこう言います。

「食べ物の神様……でしょうか? 実は私、これといって何をしたのかよく知らないのです。数百年は生きているのですがね」

 ふふふ、とまた微笑んで狐のような姿をした神様は洗い物を始めました。

 食器が重なる音を店内に響かせて、不思議な時間が過ぎていきます。

「あの、聞いてみてもいいですか」

 三つのいなり寿司を食べ切って、グラスに入ったオレンジジュースの線が半分のところで、何かを決心したようにお客さんは言いました。

「いいですよ。私、神様なので」

「その、自分がどんな人間なのか……こう、明確な才能だとか、何をして生きればよいのか、自分は何をしたいのかがわからなくて。迷っていたらいつの間にかここに来ていたんです」

「なるほどなるほど。自分が何をしたいかわからない、ですか」

 グラスを棚に戻した神様は、目線をお客さんの方から窓の方に向けました。その横顔は、まさに女神のような美しさと包容力を思わせます。

 まるで何かを探すように、窓の向こうに広がる世界を目で見渡して、その広大さにため息さえもついてしまいそうな気分になっていきました。

「さっき話した通り、私も君と同じ、何をすればよいのかわかりませんでした。豊穣の神様だとか、稲の神様だとか、食べ物に通ずるのはわかったのだけれど、やっぱりわかりません」

 外の風がすうっと入ってきて、神様の整えられた前髪を小さく揺らします。風が目に当たるのを嫌がるように、少しだけ瞼が閉じて柔らかな表情のまま細目になりました。

「でも、少しわかったんです。何かをしようとして過ごさなくても、今ここにいるだけで、ただそこにいるだけでも意味があるんだよって。こうして君と今話していることがそれを証明していると思います」

「……でも、やっぱりわかりません。何をしたいのか、何を求めて走り続けるのか。何を成し遂げなければならないのか」

「何もないなら、なんでもしてみる。そういうのもいいんじゃないでしょうか。その中で一つでも自分がしたいことがあったら、それを飽きるまで続ければいい。それに、何か特別なことを成し遂げる必要性はきっとないと思うんです。普通であること、今の自分が何も持っていないこと。それをちゃんと受け止められるだけでも、素晴らしいことだと私は感じますよ?」

「普通であること、何も持っていないことを受け止める……。悲観する必要はないってことですね。何も持っていない、って。なんだか旅人みたいだ」

「人生とは旅だ。なんて言葉もよく聞きますよね。私神様なので人生はありませんが、いい言葉だと聞く度に思います」

 窓に向けていた顔はいつしかお客さんの方へ向いていました。耳をぴくぴくさせて、神様なりに応援しようと頑張っていたのです。まるで、過去の自分を見るように。

 追加注文された少し甘めのコーヒーもなくなっていて、最初は小さく見えていたお客さんが、少しだけではありますが大きくなったように見えます。

「自分探しの旅もいいですね。目的がないからこそ、何かを発見したときの驚きは大きい。もっと広く世界を見て、自分とは何か、どう生きたいかを考えなおしてみます」

「そうですか。私もとてもうれしいです。そこまで行きつけばあとは大丈夫なのでしょうね。いつまでも応援していますよ」

 神様でありこのお店の店主でもある美しき顔が、少しだけ物寂しそうな表情を浮かべました。ですが、カウンター越しのお客さんには気付かれることはなく、席を立ちます。

 伸びた背を真っすぐにして、ふんわりとした雰囲気を漂わせた笑顔で、「ごちそうさまでした、また来ます」と背中を店主に向けて扉に向かいました。

「ありがとうございました。また迷ったときは、いつでもきてくださいね」

 がちゃん、と大きく扉の閉まる音だけが店内に残ります。静けさを取り戻した喫茶店でただ余韻を感じるだけの神様は、ずっとそのままの表情でした。

 なぜなら、こうして旅立っていた人たちは、きまってもう一度ここへやってくることはないからです。

 今日の日のように、人と会話をしている間だけが、神様にとって唯一時間というものを感じていられる瞬間でした。そして再び、永遠とも思われる静寂が続くのです。


――――からん、ころん。


 どうやら今日は、いつも以上に忙しくなりそうです。

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