祈祷・おしまいおしまい
6.45:永遠の相のもとに世界を観るとは、世界を全体として--限界づけられた全体として--観ることである。
限界づけられた全体として世界を感じること、これが神秘的感情である。
『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)より
ボロボロの建物の中で車は止まりました。
「白鳥、キミに会わせたい人がいるんだ、祈祷って名前で通してる。すぐそこに待ってる。」おや、誰でしょうか。
「車から降りてのお楽しみだよ。さあ降りた降りた。」急かされ降りてあたりを見回すと車の前方に誰かいます。あの物乞いでした。逃げようとするも、道化に首を掴まれてしまいました。
「あの人のことは覚えてるよね?さんざんな目に遭わされたはずだし。」
白鳥は戸惑いました。「なんであいつに会って話さなきゃいけないんだ。」ふてくされています。王子も自分もひどい目に遭ったのにどうして口を利かなければならないのでしょうか。
「なんか話したいことがあるんだって。そんなに身構えなくてもいいよ、案外話せるから。試すだけならどうかな?」と言われても納得できません。
「それなら一回笑ってみよう。笑ってみたら怖さもどうにかなる。」こう言ってくるので一回笑ってみました。顔がひきつってしまいました。
白鳥さん、という声とともに祈祷が近づいてきました。
「初めまして白鳥さん。私は祈祷と名乗っております。何度も追いまわしてしまい誠に申し訳ありませんでした。王子さんに大変な迷惑をかけてしまい何を言ってよいのかわかりません。」面と向かって謝られしまい、ばつが悪くなりました。
「謝ってくれるならいいんだけど。」そっぽを向きながらつぶやきます。
「不躾ですが白鳥さんに聞きたいことがあったのです。何度も追いかけてしまったことにはそれ故でして。」祈祷が話を切り出してきました。
「言語に聞いたところ白鳥さんは銀河鉄道に乗るまでにとある人を見たと聞きまして。アタマリバースやスパイラルマタイと言っていたはずなのですが…」思い出しました。
「確かそんなこと言って寄生虫に食べられて
たのがいたかな。世界が終わる、とか?」少し祈祷が黙り込んでしまいました。どうしたんだろと思っていると祈祷が話し始めました。
「食べられて、ですか。」祈祷は悲しんでいるような惜しんでいるような表情を浮かべます。
「あやつには生き抜く意志を教えたつもりでした。しかし彼方に救いを求めてしまい私の元を去り、どこにいるのか、何をしているのか心配しておりました。まさか死んでしまったとは、最後まで彼方に逃げたままで。」祈祷は呼吸を整えます。
「白鳥さん、あやつのことを教えていただきありがとうございます。くれぐれもあなたはあのように彼方に逃げないでください。」
気がかりなことが聞こえてきました。自分が彼方に逃げる?「どういうことですか?」
「白鳥さんが王子さんのことで現在から目を背けてしまうのでは、と心配になりましてな。老人のお節介ですが。」笑いながらも優しく言ってくれました。
「多分大丈夫です、王子から幸福の証を託されたんで。さっきまでみたいに現実から逃げることはもう無いと思いますよ。」
「そうならよいのです。ですがまだ、あなたは現実を直視できていないのでは?白鳥さん。いえ、アヒルさん。」
「なんでそれを…また言語が言ってたんですか?」
「ええ、言っていましたとも。アヒルと名乗る勇気は出ませんか?」
「出ないですよ、もちろん。王子に助けられたからといって、自分を受け入れるなんてやりたくないし元のあの壁の外なんて怖いだけだ。」
「それでも王子さんのことを受け止めることはできたんです。大きな一歩ではありませんか。ゆっくりでいいですから壁の外にだって慣れていけばいいんです。自分を受け入れることも同じことです。」
「ゆっくりですか。ちょっとずつ時間をかけてでもやれってことですか?それじゃあすぐ死んで道半ばで終わりになるだけなんじゃ。」祈祷がやさしく語りかけます。
「いつか死ぬとしてもその時幸福であったならいいではないですか。死の限界が存在することを祝福してください、もちろん他にも限界は山程ありますが、その限界たちも愛してください。その上で痛みも受け入れ足掻いてこそ、幸福に生きていけるのですから。」
幸福に生きるという言葉がここまで厳しいとは白鳥には思ってもみませんでした。こんなことできるのだろうか?
「疲れたらいつだって銀河鉄道に来れます。想えば願えばすぐです。しかしあの列車にもこの場所にも踏み留まってしまってはかつての幸福に溺れてしまいますから、また頑張れるようになりましたら踏み出さなければなりません。」そんなのじゃいつになったら幸福になれるかわかったもんじゃない。
祈祷は一息置いてから話し始めました、最後の言葉であるかのように。
「踏み出しただけで幸福なのです。踏み出そうと努力し、意志を覚悟を決めたならもう幸福なのです。幸福は最後に得るものではありません。物事の最中についてきます。」私からは以上です。「幸福に生きよ。くれぐれもかつての幸福に溺れることのないように。」
そこまで言って祈祷は白鳥の目をじっくりと見つめだしました。
白鳥は幸福に生きていけるのでしょうか。多くの限界が待ち受けているでしょう。痛みもあるでしょう。かつての幸福に溺れることもあるでしょう。
それでも、
白鳥は、
やっとアヒルになれましたとさ。
そしてアヒルは、
幸福に生きました/すぐ寄生虫に食べられました。