1話 継承する名
ミュラルティは張り巡らされた水路を悠々と泳ぎ、いつもの洞窟にやってきた。
一応の警戒をするためにチラリと周りを確認するが、誰の気配も感じない。
珍しく着飾って出かけたが、それに気づく者はいなかったようだ。
それもそのはず、いくら王の娘であっても母が平民の遊女で、現在はその父親が代を譲り新しい王が立っているからだ。
王の直系にのみ現れる灰色の瞳があったため王族として迎えられたが、そうでなければただの遊女の娘として町で客でも取っていたかもしれない。
「母様は私を産まない方が幸せだったかもしれないけれど、ね」
そんな雰囲気を母が出したことなどなかったけれど。
あの奥の殿という魔窟で、いない者として扱われる自分とは違い、母は窮屈な思いをしたはずなのだ。
新しく王となった姉様は、自分という存在を知らないかもしれないし。
さしずめ忘れられた王族の娘という扱いに、ミュラルティは自嘲すると中を進んだ。
奥に入れば入るほど不思議と青く光るこの場所が、ミュラルティの心を慰めてくれる。早逝した母と散策中に偶然見つけた、思い出の多い場所なのだ。
だから、何かあるとここに足を運んでしまう。
一番奥まで辿り着くと跪き、少し削られたような棚状の壁に額を押し付ける。
「母様、私今日で成人しました」
祈るように懐かしむように、今日ここへ来たのは亡き母に自分の成長を報告するためなのだ。
そう、ただ成人を報告するためだけに来たはず、だった。
床に鮮やかな魔方陣が浮かび上がり、眩い光に包まれてどこかに移動させられるまでは。
☆☆☆
まばゆい光の中で身体が熱く発熱する。
ミュラルティは自分がこのまま焼き切れてしまうのではないかという恐怖を感じて、特に刺すように痛みを発する肩をぐっと抱きしめる。
「くっ」
ミュラルティは歯を食いしばり声を殺すと、目をぎゅっと閉じた。
気がつくと、そこは山すその一片だった。
見渡せば緑の多いその山の、けれどその場所だけ生えている草すら真っ白だ。
「なんとも不思議な場所ね」
燃えるようだった身体の熱も引いた。恐る恐る見たが特に身体に変わりはないようだ。
『主人不在の地に足を踏み入れた、其方は何者か』
頭の中に響き渡る威厳のある声に、王族といえども限りなく下位のミュラルティは思わず膝をつき頭を垂れて名乗った。
「私は、ミュラルティ。ドウシタンタ国第86番王女です」
自分を表すその数字は、今現在存命の王族の生まれた順番だ。上の誰かが死んだり臣下に身を落としたりすると、順番も繰り上がる。つまりこの国には今現在少なくとも86人の王族がいることになる。下に弟妹がいることを思えば、その数がもっと多いことに気づくだろう。
『其方に、ミュラルティ リ ラミキシオン デイ オクスィピト ディアルマの名を与えよう。この地に選ばれし者よ。これよりこの〈該博の森〉にふさわしい支配者として、正しく治めよ』
「は!」
威圧感のある語り手に思わず返事をすると、右上腕が激しく乱打されたように感じた。
「ぐっ」
思いもよらない激痛に腕を抱え込み、落ち着いたころで服をまくると、肩が赤くなっていた。
けれどひどい目にあったと息をつく間もなく、今度はなにやら意味のわからない暗号が頭の中に蓄積されていく。
「頭が、割れそうっ」
今のミュラルティには、それが異国の言語や世界中に散らばっている知識だと気づくことすらできないが、グワングワンと揺れる脳が落ち着くまで静かに瞑想することに決めた。
そして頭の揺れが収まるころ現状の把握ができた。
成人した直系の王族の中には、稀に神より土地を与えられることがある、ということを新しい知識から知ったためだ。
「はあ、なんだか今日は疲れたわ」
本当ならこのあと町に出て、いつも連んでいる彼らに成人の報告に行くつもりだったけれど「もう帰ろう」と腰を上げた。
また後日でもいいわよね。
帰り方はわかっている。頭にある知識が方法を示してくれるからだ。手順を追っていくと、元の洞窟に立っていた。
ミュラルティは帰って昼寝を堪能することに決めると、元来た水路に勢いよく潜水した。