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愛情の裏返し

作者: 哀姫

 時計の針は、気づけば十二時を指し示していた。

 途端、携帯電話が鳴る。

 緋月は、静まり返った部屋の中で突然鳴り出した携帯の着信音に、多少びくつきながらも何とか慌てて手に取った。漫画を読んでいたらうっかり寝入ってしまい、いつもは九時になるとマナーモードにするのだが、それを忘れていた。

「も、もしもし」

『あ、兄さん? 俺俺』

 オレオレ詐欺か? と思って緋月は一瞬身構えたが、相手が『詐欺じゃなくて夕月だよ』と、緋月の心の中を読んだようにそう言ってきたので、電話越しに話している相手が自身の弟――夕月だということを悟る。

「あ、うん。どうした? こんな夜中に」

『俺、今から兄さんのアパートに行くから。ノックしたら鍵開けてね』

「は?」

 緋月がいろいろなことを問いただそうとする前に、それを避けてか、通話は強制的に断ち切られた。夕月の携帯にかけてみたが、電源を切ったらしく、通じることはなかった。

 それから数分後、控えめにアパートの俺が借りている部屋のドアをノックする音が聞こえた。緋月は鍵を開けると弟を部屋に招きいれた。外は雨だったらしく、夕月はずぶ濡れだった。緋月がじっと夕月の目を見つめても、俯いて顔を背けるだけで、自分からは何も話そうとしない。緋月は溜め息をついた。

「……とにかく、今コーヒー入れてやるからそこらへんにでも座っとけ」

「俺コーヒー嫌い」

 あ、そういえば夕月は根っからの甘党だったな、と緋月は思い出すと、「じゃあホットミルクにするな」と言うと、やっと夕月は笑ってくれた。

 そうして二人でホットミルクを飲みながら、とりあえずひとつひとつ聞いていくことにした。まず、どうしてこんなところにいるのか。

「お前、まだ学校夏休みに入ってないじゃん。休み入ったとしてもさ、お盆まで部活は毎日あるはずだろ。母さんから聞いたぜ。だから八月になるまで家に帰ってくるなって。忙しいからってさ。全く、お盆の方が絶対忙しいだろ」

 緋月はそこで自分の愚痴に話がすりかわっていることに気がつき、慌てて軌道修正を試みた。

「と、とにかく。なんでだよ」

「家出した」

「……は?」

 何のためらいもなくきっぱりとそう言って退ける弟を目の前にして、兄として、眩暈がした。反抗期? とも思った。しかしとにかくその理由は何となくわかるような気がした。

「……母さん、か?」

 やや躊躇いがちに尋ねてみると、大当たり。やはり緋月の思ったとおり、親子関係がうまくいっていなかったらしい。緋月が大学に入学してアパートで一人暮らしをする前も、頻繁に――下手をすれば、毎日――母さんと夕月は喧嘩をしていた。その内容は勉強であったり、部活であったり、成績であったりと様々だったが、そのたびに緋月が仲裁に入り、その場を丸く……ではなく、どちらかというと四角くおさめていたのだ。

「何が原因だよ。勉強か、部活か? それとも生活態度か?」

「浮気」

「…………はぁッ?」

 それは緋月としても聞き捨てならないセリフだった。しかし夕月はその続きを言いたがらない。いつもなら詮索は避けているのだが、今回ばかりは聞き逃すことができない。そりゃそうだろう。

 緋月はがくがくと、弟の肩を両手で掴んで揺さぶった。

「どういうことだよ!? 浮気ってなんだよ!? 母さんが浮気してたのか? そうなのか?」

「違う。……って本人は言ってたけど、俺、見ちゃったんだよ」

 何、何を見たんだ! 緋月は声を荒げそうになったが、夜中であることと、隣で人が寝ているかもしれないことを思い出し、とにかくゆっくり、ふーっと息を吐いた。

 しかし、一体夕月は何を見たのだ。緋月の頭の中に浮かぶのは、めくるめくるピンクのいやらしいネオン、そしてやたらくっついて歩くカップル、大金に目をくらませて冴えない親父に媚びる女学生たち……。

 その中で名前も知らぬ、見たことも会ったこともない変な男と寄り添って歩く母親の姿を思い浮かべると、緋月は本気で吐き気がした。軽く口元を押さえる。

 何を見たんだよ。緋月は視線で夕月に答えを促すと、夕月は臆することなく言った。

「母さんがとんでもない独り言を呟いている場面、見ちゃったんだよ」

 そこで緋月は安堵の溜め息をついた。少なくとも、自分の想像していたような自体には陥っていないらしい。

「……なんて、言ってたんだ?」

「『新しいお母さんがくれば、どうせ夕月も緋月も喜ぶんでしょう』……って」

 それは……何というか、危機だ。

「で、それが何で浮気に繋がって、喧嘩まで発展したんだよ」

「その言葉を呟いた後、母さん男の人に電話かけてたんだよ」

 それも……それが本当なら、かなり危機だ。

「それを今日問いただしたらさ。母さんは『近所のおじちゃんよ』って言うんだけど、おじちゃんじゃないよ。だってすっごく楽しそうに話してたし、時々小さい声で何か呟いてたし……きっと愛の言葉だよ」

 夕月は拳を握って俺に迫ってきた。よほど興奮しているのか、鼻息も荒い気がする。緋月は「とりあえず、落ち着け」と、まだコップに残っているホットミルクを勧めた。

「で、会話の内容は?」

「ありゃあデートの約束だね」

「……で、でーと?」

 緋月がしどろもどろになりながら問い返すと、夕月は憮然とした面持ちで、一丁前に腕組みなんかして、多少怒気を含んだ声で言った。

「六月十八日がどうこうって言ってたんだよ。母さんのシステム手帳ちらっとのぞいたら、これみよがしに六月の欄の十八の数字に赤丸つけてた」

 緋月は、軽く眩暈がするのを感じ、寝不足かなとぼんやり思った。ついさっき寝たばかりなのにおかしいな、とも思った。ところで何の話だっけ? と、現実逃避もしたりした。目の前の夕月は憤然とした表情でホットミルクを一気に飲み干した。

 もうホットミルクはぬるくなっている。それを緋月も一気に飲み干した。

「……で、母さんは否定したけど、お前は浮気だ離婚だと怒鳴って逃げてきた、と」

「家を出たのが七時近くでさ。手持ち金もそんなになかったし、最短ルートでここまできた。いやあー、兄さんの大学が隣の県でよかった」

 と、心底安堵したような声で言うので、緋月は全身の力が風船のようにするすると抜けていくのを感じた。雨がざあざあと降っている。屋根に当たって耳障りな音楽を奏でている。この小さいアパートに二人寝るのはきついな、と思ったが(布団ひとつしかないし)、今更追い返すこともできるわけがないので、仕方なく泊めてやることにした。

「そのかわりお前はソファーで寝ろよ」

「えー、つれないなあ兄さん。小さい頃なんか一緒に眠ってたじゃないか」

「黙れ。誰のためにこんな真夜中に風呂沸かしてると思ってる」

「兄さん。風呂を沸かしてるのは兄さんじゃなくて機械だよ。文明の利器ってすごいよねえ」

 あーいえばこーいう。俺がいない間にどんだけ性格捻くれたんだ。あ、元からか。……なんて思ってみる。口に出さなかったのは賢明な判断だ。

「……とにかく駄目だ! 屁理屈ばっか言ってねえで、ソファに毛布でも敷いておけ!」

 緋月は傍にあった毛布を指差して言った。緋月は寒がりなので、何重にも毛布をかぶせて眠るのだ。少し寒くはなるが、一枚くらいどうってことないだろう。

「じゃ、多分これから世話になりまーす」

 緋月は、危うく自分のコップを落としそうになった。無論、洗剤のせいだけではない。夕月が敬礼をする。それからコップを持ってくる。鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、そのまま風呂場へ向かう。

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待て。お前、ずっとここにいるつもりなのか? が、学校は?」

「そんなこといちいち気にしてたら家出なんてデキマセンて」

 手をひらひらと振ると、そのまま脱衣所に入っていく。扉を閉める。緋月はその場に立ち尽くすしかなかった。

 ――雨が耳障りなくらい降っている。

 あ、いつも耳障りか。


 次の日になってもやはり、夕月が帰る気配は全くなかった。

「……俺、大学行くけど」

「どーぞ」

「メシ、ちゃんと食えよ。せっかく作ったんだから」

「あいよー。そんじゃ俺、メシ食ったら兄さんのエロ本探して待ってるわ」

 笑いながら言う夕月を小突く。緋月は堂々と言い切った。「俺はそんな猥褻な本など持ってはいない!」そしたら、

「それも健全な大学生としてどうかと思うけど……」

 一蹴。

「……とにかく! 俺は行ってくるからな!」

 緋月はそのままドアを開け、鍵を閉めると、ドタドタと階段を下りていった。鉄製の階段は思った以上にうるさくて、憂さ晴らしに強く踏んでやったのに恥ずかしくなった。情けない。


 ――緋月は、高校は一応陸上部に入部していた。ショートスプリンターとして頑張っていたが(成績は……ともかく)、大学でやる気は最初からなかった。そのためサークルにも入らず、授業が終わったら真っ直ぐ家に帰ることができるのだ。自動車学校がある時は別だが。

「ただいまー」

 と言いながら緋月は鍵を開け、中に入る。夕月は部屋の中で寝ていた。布団を敷いている辺り、眠くて自分の意志で寝たのだろう。緋月はちっ、と小さく舌打ちをした。あまり料理が得意ではない……というか、むしろ不得意な緋月は、今日の夕飯を弟に頼もうと企んでいたのである。さすがに気持ちよさそうに眠っている弟を無理矢理起こして奉仕をさせるほど緋月は鬼ではない。

 緋月が仕方が無く台所に立つと、今日の夕飯は夕月の嫌いなものを作ってやろうか……と企んだ。しかし夕月が嫌いなものは緋月も大抵嫌いなので、やめた。変なところで似た兄弟だ。

「しょうがね、今日はハンバーグにすっか」

 因みに、ハンバーグは緋月の好物だ。そう考えて、そういや夕月の好物でもあったな……と思い出した。がっくりきて、暫し考えて、やっぱりハンバーグに決めた。

 変なところで似やがって。――そう溜め息をついた時、カンカン、とアパートの階段をのぼる音がした。ここのアパートに住んでる他の奴が帰ってきたのかなーとか、緋月がぼんやり考えていると、突然夕月が飛び起きた。そして、一言。

「……生・ハゲが来た」

 ――――なまはげ、って言いたいんだろうな。うん。

 ……そこで切るなよ。


 で。

 緋月と夕月は、母親の前に座らされていた。

「兄さんっ、何で鍵を母さんに渡してるんだよっ」

 夕月が小声で緋月に愚痴を零す。「いやいや、普通渡すだろ」と一般常識を口にするも、夕月は全く聞く耳をもたず、小声でずっと「兄さんの馬鹿、馬鹿、ハゲ」と罵っていた。ていうか、最後のハゲってのはなまはげって意味なのか、それとも中年親父に多い現象のことを言っているのか。

「夕月」

 ソファに座りながら悠然と二人を見下ろしている母親に、静かに名前を呼ばれ、夕月が肩をすくめる。母の目は据わっていた。夕月は更に首もすくめる。完全に萎縮してしまっているのだ。普段、つっけんどんな態度で、母親に怒られてもそっぽを向いているような夕月が萎縮している!……となぜか夕月の隣に座らされている緋月は物珍しそうに夕月の、主に表情を盗み見る。

 もしかしたら、怒鳴らない母親は怖いのか……とも考えてみた。あながち嘘でもないと思う。

「理由をまず言いなさい」

 夕月は俯いて、全身で拒否のオーラを発しまくった。流石に母親の前でストレートに原因は言いたくない……といった表情で俯き、顔を上げない。

 腕組みをし、足を組み、据わった目で二人を見下ろす母親は、なまはげというよりは……むしろ、悪魔のように見えた。

「緋月」

「は、はひっ」

 急に名前を呼ばれて思わず裏声が喉を突いて出てくる。

「あなたは知っているでしょう? 夕月が家を飛び出したわけ」

 緋月は知っていると答えようか知っていないと答えようか迷ったが、嘘が今の母親に通用するとは思えない。緋月はびくびくしながら頷いた。

「……だけどやっぱり、言わなくていいわ。私だってわからないほど鈍感じゃないもの」

 じゃあ聞くなよ!――と、恐らく同時に二人は心の中でそう思った。

 母は組んでいた腕をほどき、膝の隣に置いた。そして、少し身を乗り出す。依然表情は全く変わらず、ただ瞳だけがふっと揺らいだだけだった。

「……私がいなくなっても、いいんでしょ?」

 ――恐らく、同時に二人は息を飲んだ。

 夕月が、全身に憎しみと怒りのオーラを滲み出して怒っている。緋月は信じられない、といった表情で母を見つめる。「母」を見つめる。

「それ、さ。……り、離婚して赤の他人になるってこと、かよ」

 緋月が声を振り絞って言うと、案の定声が震えた。夕月は何も言わず、俯いたまま静かに震えていた。

「私は別に、いいもの。あなたたちがいなくても、生きていけるもの。あなたたちは? 私がいなくなれば、生きていけるの? お父さんだけで、生きていけるの?」

 押し黙る二人を確認して母は唇の端を吊り上げた。

「毎日三度の料理を作るのは誰? 家中の掃除をするのは誰? 二人の物で散らかったリビングを片付けるのは誰? 学校に通わせたり、いろいろな経費を払ったりするのは?」

 おもしろいものを見るような目で、心底おかしいというような口調で、母は二人を責めた。

「洗濯をするのは誰? お風呂を沸かすのは誰?」

「そ、それは機械デス」

 夕月が掠れた声で呟く。あ、馬鹿夕月……と思ったが何も言わなかった。こいつは、口が減らない奴だなと思って、内心で溜め息をついた。

「お黙り」

 夕月は背中を丸めて、更に小さくなる。しかし、急に立ち上がった。

「……なんだよ!」

 夕月は完全に怒りを制御できていなかった。震えていたのはショックのせいではなく、怒りを抑えるためだったのだ。緋月は「やめさせなければ」と大脳とせきずいが判断を下しているのに、上手く筋肉まで伝わってくれない。

「みんな勝手じゃねえか! 自分の理想押し付けといて、自分いつのまにか男作ってて、全部全部俺たち騙してコソコソして、嘘がばれたら権力に頼る。いつもそうだ! もうウンザリなんだよッ」

 やめろ。やめろって。――緋月はそう思った。夕月も自分の中で危険信号が鳴り響いているのがわかっているだろう。それは確かに聞こえている。でも止められない。制御できない。

「大体、兄さんの大学だって、勝手に母さんが決めたんだろ? 高校もそうだ。俺の高校だって勝手に決めた。小学校だって幼稚園だってそうだったかもしれない。それが親の特権ってやつか? みんなみんな自分の思い通りにするのか。そうやって俺たちを『育てる』のか。育成ゲームみたいに」

 夕月はそこで初めて、口を噤んだ。緋月はそこで初めて、夕月の服の裾を引っ張った。

 母さんはそこで初めて、立ち上がって、

 ――夕月をぶった。

「っ……」

 大体予想していたことだ。夕月はぶたれた頬を右手で押さえると、母を睨みつけた。

 その場に漂う静寂。怒り、憎しみ、悔しさ。

 静かな、雨の音。

 束の間、雨の音が三人の聴覚を完全に支配していた。雨の音以外の全ての音が突然遮断されてしまったかのようだ。サアァ、ともザアァ、とも言えぬ音が耳の奥で響き、余韻を残し、また新たな雨を受け入れる。

「…………冗談、よ」

 何時間も続いたように思えたその雨の音色を断ち切ったのは、母だった。

「は……」

 夕月が放心状態で声を漏らす。

「離婚? 何ソレ。一体誰がするのよ」

「……何、言ってんの?」

 緋月が消え入りそうな声で問う。

 母は悲しそうな顔をしていた。瞳が潤んでいた。理由はよくよくわかっていたから、二人は俯くしかなかった。夕月は僅かに後悔の色を表情に滲ませている。

 夕月は本気で言ったわけじゃなかった。母もまた、離婚なんて本気で言ったわけではなかったのだ。頭に血が上っていて、二人とも我を失っていただけなのだ。気づけばよかった。そう後悔するだけなのに。

「確かに、親には特権があるわ。小さい頃なら好きな服着せたり、可愛がったり、良い子に育つように願ったり、育てたり。でもそれは、義務でもあるのよ」

 声は震えていた。緋月と夕月を生まれたその瞬間から見てきた母にとって、夕月の言葉は辛すぎたのだ。

「あなたたちを、幸せにする義務が、私たちにはあるのよ!」

 ――叫んだ。

 そして勢いよく立ち上がった。ソファだったので目立った音はしなかったが、なぜか夕月と緋月はびくりと肩を揺らしてしまった。

 そして何も言わず、バックを手に取るとそのままドアを乱暴に開けて出ていく。雨の中、傘も持たずに。ドアを閉める前に一度だけ、こちらを振り返った。

「どこへでも、勝手に行けばいいわ。私は帰る。私は、帰るからね!」

 バタン、とやはり乱暴にドアは閉められ、緋月と夕月は呆然と立ち尽くすしか術は無かった。朝の緋月のように大きな足音をたてながら階段を下りていく。その音が聞こえなくなってようやく、「出て行った」という感覚がつかめた。

 立ち尽くす。呆然と。今の事態が上手く飲み込めなくて、混乱する。まだのどの辺りで詰まっている。

 やがて、緋月が椅子にかけていたジャンパーを羽織った。そして傘と財布を持つと、夕月に「行くぞ」と声をかけた。「追わなきゃ」

「やだ」

 夕月はぷい、とそっぽを向いた。

「ガキかよお前は……」

 と緋月が盛大に溜め息をついて呆れてみるも、夕月は一センチたりとも動く気配はない。

 もう一度、溜め息をつく。

「馬鹿」

 緋月は、そう一言だけ言うと、ドアを開けて出て行こうとした。とにかく、これ以上時間を無駄にはできない。行かないのなら無理に連れて行く必要もあるまい。

「……兄さんっ」

 夕月が兄に声をかける。緋月は振り返った。

「……待って」

 ――もう一度緋月は、溜め息をついた。しかし、ちょっと笑ってしまったのも事実である。

 行こう。小さく緋月が呟くと、今度は素直に頷いた。よしよし、と言って頭を撫でてやりたかったが(90%の確率で振り払われる)、今はそんなことをしている時間など無かった。


 ――外は、寒かった。

 しかし、予想していた寒さよりずっと温かいような気がした。部屋の中が寒かったからだろうか……と頭の隅で緋月が考えていると、夕月が「あ」と小さい声を上げて前方を指差した。そして、その指の指す方向を目を凝らして見つめて、緋月も「あ」と声を上げる。

 母だった。ふらふらと千鳥足で歩いている。まるで酩酊しているみたいだ。近付いてみても反応を示さない。雨のせいで声が聞こえていないのか。

「母さん」

 小さく名前を呼んでみる。母が反応した。なぜか緋月はほっとしながら母の目の前に立った。傘を差し出して母を雨から守る。

「待って、母さん」

 母の瞳はどこか虚ろだが、その瞳に緋月と夕月を捕らえると、疲れたように頭を振った。まるで「何の用?」とでもいいたげで、少しドキッとしてしまった。

 緋月が、軽く夕月の背中を押す。夕月も母の目の前に立ち、小さく、

「ごめん」

 謝った。

「言い過ぎた」

 たった、それだけの言葉。多分伝わる。そんな確信が緋月にはあった。

「…………」

 母は、いまだ沈黙を守っている。ひょっとしたら、伝わっていても母の怒りや悲しみを消すことはできないのだろうか、と不安になる。緋月は少し顔を伏せた。夕月は真っ直ぐ母を見つめていた。その表情にもやはり、翳りがあった。

「…………滑稽ね」

 長い長い沈黙の後、母の発した言葉がそれだった。

 その言葉の意味をはかりかねて、二人は母の……なんとも言えぬ微笑を目にしながら、その言葉の意味を促した。

「小学生みたいだわ。喧嘩をして、先生に怒られたら素直に謝って、はい、一件落着」

 母が疲れたように笑う。

「私は謝らない。私は悪くない。謝ってくれたことにも感謝なんか絶対にしない」

「母さ――」

「でも」

 名を呼ぼうとした夕月の言葉を遮って、母が言った。表情を崩さぬまま。

「雨の中を、追いかけてきてくれたことには感謝してあげる。正直、追いかけてこなかったらどうしようかと……思ってた。次の日からどうしていいのか、きっと混乱するだろうな、とかわかっていながら飛び出してきて……ちょっと今、安心してる」

 笑った。それは疲れた微笑みなどではなく、緋月と夕月も顔を見合わせて、笑った。もっとも、二人の笑みは大分疲れたものではあったが。




「は……はいひんかいしゅう?」

 あえて平仮名で言ってみた……わけではない。驚きのあまり、素っ頓狂な声を出してしまっただけだ。緋月は慌てて夕月を見る。すると、夕月も同じくあんぐりと口をあけたまま固まっていた。

 ……かと思うと、俯いて自分の勘違いを恥じた。

「話していたのは本当に近所のおじさんよ。まあ、確かにパワフルで、ダンディなジェントルマンだとは思うけど、残念ながら私の趣味じゃないわ」

 そう説明する母はどこか楽しそうだった。予想通りの反応をする二人を見ておもしろがっているのだ。緋月は溜め息をついた。この前より数倍は滑稽に見えるに違いない。

 ――緋月は、一時帰省していた。お盆までは帰ってくるなと言われていたが、こんな状況になってはいち早く母の口から説明が欲しいものだ。幸い隣の県だったので、週末に帰ってくることができた。

「楽しそうに笑って何かを話していた、とか。小さい声で何かを話し合っていた、とか。全部夕月の妄想でしょう」

 妄想、とはっきり言い切られて、夕月はますます頬に朱をさし、俯く。緋月は何だか少し可哀想に思えてきたが、仕方がない。こればかりは夕月の完全な思い違いだ。

「廃品回収が六月十八日にありますよ、ってこと」

「そ、そんなのあちこちに貼ってあるポスター見ればいいし、そのことの詳細だって町内の家全部に配られるはず、だし……」

 夕月は一応反論を試みるも、母の笑いに一蹴されてしまい、また俯いた。

「私、毎回廃品回収でも雑誌とか外に用意しておかないのよ。紙とか家に届いてもね、他の広告と一緒に、いつも捨てちゃうし」

「か、確認ぐらいしろよ!」

 と緋月が言うも母は悪びれた様子もなく、

「それに、電柱に貼ってあるポスターなんてわざわざ見ないわよ」

 なんて言っている。

「でも、それだけで電話してくるかな普通? 夕月も俺も、もう小学校はとうに卒業した訳だから、町内子ども会の役員とかでもないだろうに」

「電話してもらえるように頼んだのよ、私が。じゃなきゃ夕月が毎週買ってくるヒップだかホップだかステップだかが溜まっちゃうじゃない」

 ――それは「ジャンプ」のことを言っているのか?

 夕月の性格の悪さはきっと母さんからだ……と、緋月はこっそり心の中で思う。無論、思うだけで絶対に口に出すなんて命知らずなことはしないが。

「ホント、下らない理由で家出しちゃったわね夕月。まあ、一ヶ月もたてば武勇伝、または笑い話として友達に披露できる日もくるんじゃないかしら」

 せせら笑いは侮蔑の色を含む。まるでいつものお返しとばかりに。夕月は反論の余地もなく俯いている。緋月はそんな夕月が本気で可哀想になってきた。しかし、やはり自業自得だから何も言わないが。

「……、さい」

 緋月と母が同時に「は?」と聞き返した。夕月の言葉がよく聞こえなかったからである。

「……ごめんな……さい」

 俯いたまま囁く程度の小さい声で、それも僅かに掠れてはいたが、夕月は確かに今、母に向かって謝罪の言葉を口にした。

 緋月はめずらしいものを見るような目で(実際めずらしいのだ)夕月を見、母は――

「あら、謝る気があったの」

 と、言いながら、優しそうな目で――――はなく、勝ち誇ったような目で笑みを浮かべた。

「それじゃあ、これから一週間……いえ、一ヶ月。償いとして夕ご飯の茶碗洗いと、朝食を作ってもらおうかしら。朝食作るには朝早ーく起きなくちゃいけないのよ? 自分も食べなきゃ部活に遅刻するし、その他に家族の分も作らなくちゃいけないし。緋月も帰ってきたからね、自分と、私と、緋月と、おばあちゃんと、おじいちゃん。五人分しっかり作ってね」

 あ、それからおばあちゃんとおじいちゃんはあまり固いものが食べられないからそういうものは作っちゃ駄目、じゃがいもとにんじんはよく火を通す、二人の好みで卵焼きは甘い方――などなど、母は嬉しそうに語っている。夕月は、それに屈辱を受ける、というよりも毎日毎日、料理だけでそんなにたくさんのことに気を遣いながら生活していたこと……そして、それを当たり前のことのように思いながら過ごしてきたことにショックを受けているようだ。

「緋月」

「へ? あ、はい!」

 我関せずとばかりに傍観を決めていた緋月は、急に母に呼ばれて驚きながら返事をする。

「あなたも手伝いなさい。夕月が来ても私に連絡もしないで匿った罰よ」

「それだけで!?」

 とばっちりだ……という言葉を必死で飲み込む。

「返事は?」

「……へーい」

 我ながら気のない返事だ。

「返事ははい、でしょう?」

「はいッ!」

 もうこうなったらヤケクソだ。緋月は叫んでやった。

 それから二人は開放されたものの、開放された気がまるでしなかった。これから続くであろうあわただしい日々と、母の余裕に満ちた笑みが鮮明に浮かぶ。それは二人とも同じだったようで、部屋に引き上げた後は各々の部屋に戻らず、夕月の部屋で二人は愚痴を言い合った。

 ただ、緋月がそれを幸福だ――と感じてしまうのはあのような騒動が起きた後であるからで、Mであるからではない。断じてそうではない。

 夕月もそれは同じらしい。愚痴を言い合いながらも、どことなくほっとした様子が緋月に伝わってくる。恐らく、母が浮気していないと知って一番安心しているのは夕月だろう。そう緋月は思う。いや、緋月も安心しているから、一番、というには語弊があるか。

 とにかく、それがわかっているから、緋月はぷりぷりした様子の夕月も、なんだか可愛らしく思えてきた。そうやって頬を膨らませて怒るのは、愛情の裏返し――だったりして。

「それは兄さんも同じだろ」

 まあそうだけどね、と緋月は軽く首を竦めて答える。

 それにしても、否定はしないんだな。

 三人称難しかったです。

 楽しんでもらえたなら幸いです。

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