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マヨヒガの住人

作者: HONET

『遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。』

(遠野では、山の中で見かける不思議な家を迷い家(マヨヒガ)と呼ぶ。迷い家に辿り付く人は、その家の中にある器や家畜など、なんでもよいので持ち帰るべきである。その人に物を与えるために、家は姿を現すのだから)

                    ―― 柳田國男著 『遠野物語』より 抜粋 ――



  1  



 ここちよいリズムの震動が次第に緩やかになるのを感じて、三上透子はまぶたをこじ開けた。大きく伸びをし、車窓から見える景色を一瞥する。時期が時期なだけに、銀世界という言葉が似合う。東京とは比べものにならないほど寒いだろう。何年も前の記憶を呼び起こし、透子はセーターで包んだ体をぶるりと振るわせた。

 今となってはもう珍しいボックスタイプの単線列車は着実にスピードを落としている。東京の地下鉄のように、各駅ごとにアナウンスが流れるわけではないから、降りる駅を間違えないよう注意をしなければいけない。時計を見て、次の駅が目的の駅だと確認してから、透子は向かいに座っている男に声をかけた。

「先生、次の駅で降りますよ」

 先生、と呼ばれた男は声に反応して「はい、はい」と二度頷くと、また目をつむり静かな寝息をたてはじめた。いかにも〝優男〟の二文字が似合いそうな風体。顔は中性的ともいえ、三十代半ばという実年齢を信じる人はそれほど多くない。切れ長の目尻が下がり気味なため優しげに見えるのも、透子を含め学生からの評価が高い理由の一つだろう。

 床の下からブレーキ音も聞こえ始め、スピードはさらに下がった。仕方なく透子は男のジャケットを掴み激しく揺さぶった。

「先生ってば」

「ああ、ちょ、ちょっとまって。わかった、起きるから、まってくれ」

 透子の手が止まるのと、列車が停車するのが同時だった。

「早くしてくださいっ」

 男の返事を待たず、透子は荷物とジャケットの襟を掴むと引きずるように出口へと向かった。

 

 駅のホームは閑散としていた。列車から降りる人は透子と男二人だけ、乗る人の影は見えない。単線であるから、ホームも一つしかなく、それに続く駅舎もみすぼらしいの一言で片付けられそうなものだ。

 空は曇っていて、日がどれほど傾いたかも確認はできなかったが、まだ日の短い二月のことだ、早めに目的地につかなければならないだろう。そう考え、透子は地面に投げ出した荷物を肩に引っ掛け手に持って改札へと歩き出す。背後から聞こえる「乱暴ですよ、透子さん」という声は黙殺した。

 非常勤講師として、透子が通う東京の私立大学の教壇に立つ古原恭也の本業は小説家である。高校時代からのファンであった透子は喜び勇んで講義をとり、質問に次ぐ質問を重ね、果てには恭也が取材に行きたいと言った土地に自分の親戚がいることを思い出し、それを理由に着いて来たのだった。

 恭也が書く小説は恋愛ものからミステリー、ライトSFと幅広いが、何より透子が楽しみにしているのは、歴史や民俗学などを絡めたミステリーだった。たんなる推理小説にとどまらない奥の深さを味わえることは望外の喜びと言えよう。そして、今回の取材は民俗学的なものの調査だということだった。何の調査なのかまでは聞いていなかったが、透子の従姉にあたる菊池祥子が住む地名を出すと、恭也は喜んで透子の同行を許可したのだった。

「ここからどのように行けばいいのですか?」

 駅舎を出てバス停が一つあるだけの駅前広場に出ると、過疎化という言葉がどういうことを表すのか、見ただけでわかるような寂れた商店街が目に入る。

 岩手県M村は、国道や新幹線が走る都市部から外れた山奥にある。新幹線を降り、在来線に乗り換え、単線に揺られること約一時間。そこから透子の従姉が住む、谷間に位置する中郡地区までは車でさらに三十分の距離がある。

「一応、祥子さん……私の従姉が車で迎えに来てくれる事になってます。ただ、さっきメールを見たら三十分ほど遅れるって言ってました」

「泊まる場所も貸していただけるそうで、本当にすみません」

「気にしないでください、祥子さんの家……私の祖父母の家でもあるんですけど、祖父母や伯母さんが早くに亡くなってしまったので、部屋が余ってるんです。それに、あの辺りは民宿も何もないですから」

 実はそれなりに無理を言って泊めてもらうことになったのだが、それは秘密にしておいた。気を使わせることもあるまい。そう思い、透子は話を変えた。

「そういえば先生、近くにちょっと美味しいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店があるんですが、そこで時間を潰しませんか?」

 コーヒーと聞いて、恭也の下がりめの眉がぴくりと動いた。古原恭也のコーヒー好きはインターネットのファンサイトなどでは常識である。都内の美味しいコーヒーの店をファンレターで教えると必ず返事が来る、などという逸話すらある。

 これで恭也の中での自分のポイントが高くなるだろうと、透子は以前に一度だけ立ち寄った店の、カウンターの奥の禿げたマスターにお礼の言葉を胸中で繰り返した。三分後、店が潰れている事実に、扉を思いっきり蹴りとばすまでは。


 文系の私立大学生にとって、二月はすでに春休みである。来期が始まるまでの約二ヶ月間をどう過ごすか、頭を悩ませる季節だ。しかし東北の二月はまだまだ雪の季節である。M村は、豪雪地帯といえないものの、いまだ数十センチの積雪が残っていた。

 東京でこれほどの雪が降れば道路は大渋滞を起こすだろうが、菊池祥子が運転する白い4WDのジープは軽快に山道を走っていた。車が違うのか、はたまた運転手の腕が違うのか。暖房の効いた車内で透子はそんなことを考えていた。

「今年は暖冬と聞いていましたが、そうでもないんですねぇ」

 後部座席で透子の隣に座っていた恭也がのんびりと言葉を漏らした。すると運転席から「いや、暖冬だよ」と祥子の声が返ってきた。

「私が子供の頃から考えると、今は雪が少なくなったなと思うよ。もっと昔はこの辺りでも一メートル近い積雪はざらにあったようだから」

 一メートルの積雪、と言われても透子にはピンとこない。スキー場などは二メートルを越える積雪があるようだが、みんな普通にスキーを楽しめるのだから、一メートルなんてさほどでもないのではないだろうか、などと考えてしまう。そんなことを口走ると、祥子は声をあげて笑った。

「都会の子には想像できないだろうね。玄関を開けると、自分の背くらいの白い壁がいきなり現れるんだよ。今じゃ便利な機械もあるけど、昔はみんな手作業でその雪をかいたのさ。雪かきをしなけりゃ、どんどん降り積もって身動きが取れなくなっちまうし、下手すりゃ重みで屋根が壊れる。まあ、そんなことは滅多になかったらしいけどね」

 菊池祥子は今年でまだ三十半ばである。高齢化が進む農村ではまだ十分に若いうちに入るが、病気で入院している父に代わり持っている田畑を一手に請け負っているため、出会いがないのかいまだ独身だ。

 恭也と初めて顔を合わせた時、祥子が漏らした言葉に、透子は思わず笑ってしまった。

「なんだか折れそうな体してるねぇ」

 そういった言葉が嫌味に聞こえないあたりが、祥子の人柄の良さなのだと透子は思う。言われた恭也も「いやぁ、そうですか」と笑っていた。

「それにしても、何の研究でこちらの村に来たんだい? ここら辺は何もないだろうに」

 祥子の声で、そういえば自分も目的を聞いていなかったことに透子は気がついた。透子の目的は恭也の近くにいることだったので、民俗学的なこととしか聞いていなかったのだ。

 ぼんやりとした表情を窓に映し眺めていた小説家は「そういえば話していませんでしたね」と前を向き直った。

「実は、こちらの方にマヨヒガの実物が存在すると聞きましてね。以前こちらの方に旅行にこられた知人のライターが興味深いものだと話していたのを聞きまして、ぜひこの目で見たいと。もっとも、こちらの地理は不案内だったもので、地元の知識に明るい方とこうしてお会いできて嬉しい限りです」

「マヨヒガ、かい?」

 祥子は後部座席からもはっきりとわかるように首を傾げた。

「ちょっと聞いたことないね。私が知らないだけかもしれないから、後で物知りの人を紹介するよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 見えていないだろうに、運転席に深々と頭を下げる恭也へ透子が問いかけた。

「マヨヒガって、なんですか?」

「透子さんは、遠野物語を知っていますか?」

 逆に質問で返され、透子は戸惑う。素直に、名前は知っているが読んだことはないと言うと恭也は深く頷いた。

「マヨヒガは柳田國男の遠野物語に出てくるアヤカシの一種です。山中に迷い込んだ人の前に家という形で現れ、そこにたどり着いた人は家にあるものから器でも家畜でも、なにか一つならば持ち帰ってよいとされています。持ち帰った器で米をはかると、なぜか米は減らなかったという寓話で遠野物語のマヨヒガの部分は締められていますが、つまりその家にたどり着いた人は金持ちになれるという話ですね」

「それは本当にあった話なんですか?」

「うーん、どこまでが本当の話なのか、それはわかりません。遠野物語も、柳田國男が遠野の佐々木という方に聞いた口伝であるとされています。ただ……」

 そこで恭也は話を句切る。

「私が気になったのは、マヨヒガがM村にも話として残っていることでした。実はこのマヨヒガがあるとされる山は白見山というところなんですよ」

「白見山? だったら反対じゃないか」

 祥子が口を挟む。白見山は遠野の北東に位置するが、M村は遠野の西側なのだ。

「そうです。地理的には近いですから、M村にも似た話があってもおかしくはないかもしれません。しかし、実物と呼ばれるものがM村にあるということはどういうことなのか。もしこの話がただの寓話ではなく、何らかの意味を含んでいるのだとしたら、その辺りの謎も解けるのではないかと思ったのです」

 話を続ける恭也の眼差しは鋭かった。講義でも、深い話をし始めると優しい小説家の顔は一変する。そして透子は、その表情が一番気に入っていた。

 車は次第に山と山に挟まれた谷間の集落に入り込み、田畑に囲まれた大きな屋敷の前で停まった。七年ぶりに見た赤い瓦屋根の家の大きさに透子は驚くが、庭から見渡せる範囲にある数件の家の大きさもさほど変わりはしない。土地だけは余るほどある田舎だから、家も自然と大きくなるのだろうか。東京にこんな家を建てようとしたらそれこそ土地代だけで数億はいきそうである。

 山はほとんどが杉林のようで、雪の白さとあいまって綺麗なコントラストを見せている。反面、水田が敷き詰められた谷間の集落部はそれほど大きくなく、その間隙に配置された家々は両手で足りるほどの数だ。中山間農家とはこういう場所を言うのだろう。山と山のちょうど真ん中辺りを流れている川の音が耳に届いてきそうなほど、冬の農村は静けさに満ちていた。

「まあ、とりあえずあがってよ。泊まる部屋はあとでまた教えるから、居間にいてちょうだい」

 車を降りると、祥子は玄関を開け二人を家の中に招き入れた。玄関の鍵を開ける動作がなかったのは中に人がいるからだと透子は思ったのだが、家の中から気配は感じられなかった。思えば祖父母も母の姉である伯母さんも亡くなり、伯父さんも入院しているから今は気丈な従姉しか住んでいないのである。

「急須と湯呑みはそこにあるから、透子いれてあげて。私はさっき話した物知りの人連れてくるから」

 ご丁寧にありがとうございます、と恭也が頭を下げるのも見ず祥子は再び家を出ていった。あんなに忙しい人だっただろうか、と透子は思ったが、一人で農家を継いでいくというのも大変なのだろうと勝手に納得してお茶を入れはじめた。

 年季を感じさせる居間の中央にあるのは掘り炬燵だった。テーブルの下に四十センチほどの段差のある穴が開いており、その中にさらに練炭を入れる穴がある。今は練炭は用いず、電気で暖めるものが使われているが、ものめずらしさか恭也は「いいですねぇ」と興味深く眺めていた。

 ふと、何かの音を聞いた気がして、透子は顔をあげた。

「今、何か聞こえませんでした?」

「何か、とは?」

「なんか、鈴の音みたいな……」

 それも家の外から聞こえた気がしたように思えたが、透子もいまいち自信がなかった。恭也も炬燵の上に置いてあった本を読みながら「聞こえませんでしたよ」と言うので、聞き間違いかと思うことにしてお茶をすする。

 恭也の読んでいる本は『新・平家物語』と表紙に書かれていた。はて、祥子は難しそうな本を読むような人だっただろうか、などと考えていると、すぐに玄関の開く音がした。

「どうもどうも。なんでも、こちらにマヨヒガを見に来られたとか」

 祥子と並んで居間に入ってきた男はいかにも農家の男という風貌をしていた。作業着のようなズボンに分厚いジャンバーを着込み、髭は剃ることを忘れたのかと思うほどだ。とはいえ、まだ五十には届いていないだろう若さもあり、話しやすそうだなと透子は胸中で呟く。

「マヨヒガってこっちではあまり呼ばないんですがね。一応そう呼んどるもんはありますよ。こっちではケラズヤって呼んでます」

 透子がいれたお茶をすすりながら、守屋章吾と名乗った男は答えた。どうやら隣の家に住んでいるらしい。それを聞いて祥子が「あー、あれのことだったの」と呟く。

「ケラズヤ、ですか。それはどう書くのですか?」

「んー、書き方までは知らねけんど、ケラズヤ、ケラズヤ呼んでるねぇ」

「それはここから近いですか? よければ今から見に行きたいのですが」

 恭也がそう尋ねると、章吾はやめたほうがいいと首を横に振った。なんでも車で五分ほどの場所にあるそうだが、そこから結構な山道を歩いて登らなければならず、日も暮れるから明日にしたほうがいいだろうとのことだった。

「では、よければ明日案内をお願いできますでしょうか」

 恭也の物腰の低い頼みに、章吾は特に見るものはないけど、と前置きをしながらも、この季節はまだ暇だから時間つぶしにはちょうどいいと頷いた。

 その後、夕食まで外を巡ってみたいという恭也に透子はついていくことにした。祖母が亡くなる七年前までは何度か家族で来たことがあったが、祖母と母の姉とが立て続けに倒れてからは顔を出すことがなくなったため、久々に歩きたかったのだ。

 家を出ると、恭也は「やはり独特ですね」と唐突に語りだした。

「何がですか?」

「あれです」

 指差す方向には、田舎には似つかわしくない近代的なイメージの二階建ての家があった。たった今出てきた菊池家の重農な造りとは対照的である。

「あれの何が?」

「ほら、屋根の角度が線対称じゃあないでしょう? 南側の斜面面積の方が多くなっています。なぜかわかりますか?」

 それはまさに教師が生徒に問いかける口調で、ここまで来てと思いながらも透子は考えてみた。確かに屋根はへの字のような傾き方をしている。しかも急勾配だ。特に注意して見ていなかったが、東京ではなかなか見られない形だ。

「えーっと、雪が溶けやすいように、ですか?」

「ええ、ほぼ正解です。正確には、雪が落ちやすくなるように、ですね」

 できるかぎり太陽の光を受け止めて雪を溶かし、滑りやすくするのが目的であり、雪が多い地帯には多い設計の屋根だと恭也は歩きながら語った。

 菊池家の庭はほとんど変わっていなかった。生垣のように庭を囲うイチイの木の外は一面水田だが、今は雪に覆われている。母屋の隣にある小屋には農作業に用いるのだろうトラクターなどが置かれている。そのさらに奥にある、唯一菊池家と隣接している守屋家との垣根におかしなものを見つけ、透子は恭也を呼んだ。

「これ、なんですかね?」

「鈴でしょうね」

 あっさりと恭也は答えた。鈍い黒色の輝きを放つそれは、岩手名産の南部鉄器の風鈴とよく似ていた。ただし、紐はきつく木の枝に縛られておりどんなに強く吹いても風では鳴ることはないのではと思えた。特にその風鈴が吊るされている木は風が通らないであろう場所に生えているのだ。

「でも、なんでこんなところに?」

 透子の問いかけに、恭也は「なるほど」と呟き、薄く微笑んだ。

「なんなんです? 教えてくださいよ」

 恭也は楽しそうに、答えにならない答えを呟いた。

「祥子さんと、さっきの章吾さん。いい仲のようですね」



   2   



 目的の建物は、駐車場から三十分ほど細い山道を登ったところにぽつんと建てられていた。特徴といえば、その小屋とも家とも言えない建物の背後に、大きな杉の木がそびえている事だった。山道の脇に生えていた杉の太さと比べると五倍はあるのではないかと思えるほどの巨大な杉だ。

 対照的に、ケラズヤと呼ばれるその家は、正方形に近い粗末な小屋としか言いようがなかった。屋根すら、平らな板を張っただけのように見える。昨日の夜、恭也から遠野物語を借りて読んだ透子は、これのどこがマヨヒガなのかと目を疑った。話に出ていたような畜舎もなければ、器が数多く並べられているような大きさの建物でもない。唯一、花は咲いていないものの、庭らしき雪原が広がるのみである。

 透子はちらりと脇に立つ恭也を盗み見た。いつもの穏やかな笑みはかき消え、鋭い眼差しでケラズヤとその背後の大樹を見つめている。少し離れた位置に立つ祥子と章吾も、ケラズヤを指差しながら何かを話していた。その姿を見ながら、透子は昨日の恭也の台詞を思い出す。

 ――良い仲のようですね、か。

 結局なぜ二人がよい仲であると思ったかの答えを聞きだすことはできなかった。こうしてみると恋人のように見えなくもないし、お隣同士の仲のよさに見えなくもない。

「このマヨヒガはいつ頃からあるか、知ってらっしゃいますか?」

 丹念に小屋の外周を見ながら恭也が尋ねる。祥子はほとんど詳しくないようで、すでに回答役を章吾に任せていた。

「んにゃ、しらね。だども、俺が生まれた頃にはもうあったし、その時からもう古くなってがたがきてたよ。百年は軽くあるんじゃねぇか?」

「ここは何かに使われていたのでしょうか?」

「昔はしんねけど、今も使ってる。ほら」

 章吾は正面に取り付けられている小さな小さな引き戸を開けた。がたがきている、と言うとおり、スムーズとはとても言いがたい木と木がこすれる音が響いた。

「――――」

「どうかしたか?」

 先に小屋の中へと入った章吾とは対照的に、恭也はすぐに中には入らなかった。

 じっと引き戸の部分を凝視した後、「いえ、すみません」と言って中に入る。何を見ていたのだろうと透子は視線の先を追ったが、開いた引き戸があるだけで、特に変わった部分はないように思えた。

 小屋の内部は暗かった。広さは三畳ほどの小さな小屋で、窓が一つもついていなかった。入り口から一段高いところに板の間があるだけで、倉庫のような使われ方をしていたようにも見えなかった。中央奥の壁に白い紙のようなものが何個か置かれている以外、本当になにもない。

「あー、まだ持ち帰ってねぇやつがいるみてぇだな」

 章吾は何も気にせず土足で板の間に上がると、その紙のようなものを拾い上げた。

「それは?」

 透子が思わず声をあげる。章吾はその中の一つだけを取り上げ、明るいところまで持ち帰ってきた。細い竹の間に一本切れ目をいれ、その間に和紙で何かをかたどったようなものが挟み込んである。それを見て恭也が「御幣ですね」と呟いた。

「お、知ってるか。正月にここらの神様に捧げてまわるんさ。本当は、正月の十五日経ったら持ちかえって家に飾るんだども、最近は誰も面倒臭がってやらねな」

「それは珍しいですね。御幣を十五日で持ちかえる、というのは何か意味があるのでしょうか?」

 詳しく知ってるわけではないんだけどよ、と章吾が思い出そうとするように頭を掻きながら答える。

「正月に、樹にこれを捧げると、土地神さまが豊作を約束する念を吹き込んでくれるから、それを持ちかえって家に飾るといい、とかいう話だったな。うん」

 たった三畳の小屋の中を透子は眺めて回った。狭い小屋だから、注意深く内部を眺めている恭也の邪魔にならぬよう壁際を歩いていると、壁に触れていた左手にぬるっとした感触が襲い掛かった。思わず身震いをして手を避ける。暗い小屋の中で目を凝らすと、壁の四隅、入り口から見て左奥の部分だけが腐りかけていた。

 残る感触を振り払うようにハンカチで手を拭い、透子は外に出た。暗く狭いところが嫌ということもあったし、腐った木の壁を触れてしまったのも理由の一つだが、それ以上に重苦しい雰囲気を感じたのだ。湿っぽいわけではない。一部腐っている部分もあったが、全体的に丈夫な造りでもあるようだ。だが、そのような目に見えるものから受ける印象ではない何か、両肩にずっしりとした石を置かれたような重苦しい空気が不快だった。祥子たちもそれに倣ったが、恭也だけは「もう少しよろしいですか」と言っていまだ暗い小屋の中にいる。

 何をそんなに見ているのだろうか、と透子は考える。あんな暗くて板張りの寒そうな小屋に興味深いことなどあっただろうか。そう考えて、あ、と声をもらす。この小屋は正方形に近い形をしている。つまり、屋根の部分も平らである。この間話していたように、この地方はけして雪が少ないわけではない。ならば、この小屋は雪の重みで潰れてもおかしくないではないか。

 しかしすぐに自分の考えの浅さに気づいた。後ろにあるのは樹齢何百年とも知れない大樹である。その樹のおかげで、雪があまり積もらないのだ。よく見ると、確かに小屋も含めて樹の周りだけ積雪が少ないようだった。

「いや、すみません。ありがとうございます」

 やがて恭也も外に出てきた。

「ところで、この小屋はお米の貯蔵などに使われていましたか?」

「米? いや、こんなとこに米持ってくる物好きはいねぇよ」

「ですよね。ありがとうございました」

「おう。また見たくなったら話しかけてくれ。一応、うちがここの管理をしていることになってんだ」

 管理することもたいしてないけどな、と笑って章吾が戸を閉め下山となった。

 雪道に慣れているのだろう、祥子らはすたすたと下っていくが、雪道に慣れていない透子と恭也はかなり後方を歩くこととなった。

「やっぱり慣れてる人は違いますね」

 かなり離れた二人の後ろ姿を見ながら透子が呟く。そして再び、あの二人がどうしていい関係だと思ったのかが疑問として浮かんできた。

「ねぇ、先生」

「透子さん。あの小屋を見てどう思いましたか?」

 先に恭也に尋ねられ、慌てて考える。

「どう、ですか? えーっと、形が変だなぁ、と」

「変と言うと?」

「あれ、屋根が平らじゃないですか。まあ、雪が樹のおかげで積もらないからでしょうけど、家というより箱みたいな印象で……」

「箱……確かにそうかも知れません」

 恭也はなぜか声のトーンを落として話している。自然とひそひそ話のようになっていく。

「あの小屋、かなり頑丈な造りになってましたね」

「そうなんですか?」

「ええ。いつの時代の建物かまでは特定できていませんが、ずいぶん厚い造りになっています。おもいっきり蹴り飛ばしても壊れることはないでしょうね。扉もです。あの造りはちょっとおかしい」

「というと?」

 質問には答えず、恭也は黙ってしまった。真剣な顔つきが崩れていないから、何かを悩んでいるのだろう。しかし、何を?

 透子がじっと見つめていると、いきなり恭也が笑顔になって、こう言った。

「透子さん、ドライブに行きましょうか」

「は?」



 3



 昼食くらい食べてから、という祥子さんの提案を丁重に断わって、恭也と透子は借りたジープを街へと走らせた。

 暖房がまだ効かない車内で、恭也が話し始めた。

「透子さん、あの小屋、マヨヒガはなんだと思いますか?」

「え? マヨヒガは、マヨヒガではないんですか?」

「では、マヨヒガとは何を指すのでしょう?」

 借りて読んだ遠野物語を読んだ限り、はっきりとは書いていなかったけれども妖怪やその類の一つであるように思える。けれど、それが恭也の求めている答えではないから、こうして聞いているのだろう。

 いや、違う。透子は思う。恭也は質問をしているのではない。口に出すことで一つ一つ自分の頭の中で整理しているのだ。ということは、すでにこの問いに対するなんらかの答えを恭也は得ているのだろう。今から街に行くというのは、それを確かめる作業の一つではないのだろうか。

 それに答えるように、恭也が話し始める。運転している立場上視線は前を向いているが、透子にはこの小説家の意識が前に向いていないことがわかっていた。すべての意識は情報処理に向けられているのだ。

「あの小屋は、マヨヒガではありません。いや、逆に言えばマヨヒガはあの小屋みたいなものなのかもしれません」

 透子は無言で先を促す。

「確かなことはまだいえません。しかし、あの小屋は不自然なことが多すぎます。あれだけの杉の樹木ですから、大樹信仰の対象になってもおかしくはありませんが……」

「あの、大樹信仰って、なんですか?」

「ああ、一種のシャーマニズムです。いや、アニミズムと言ったほうが的確かもしれません。アニミズムいう理念は縄文時代など、まだ宗教と呼べるものがなかった時代に盛んだった原始的信仰のことなのですが、樹齢何百年ともいえる樹木や人の何倍もある石、とても高い所から水が落ちる滝など、人の力が及ばないと思えるものには神が宿っているという思想があります。特に東北地方などは京都などの中央政権から地理的にも離れた場所にあり、農村部ではこれらの信仰が根強く残っていたことでしょう。いまだ元旦にあの樹を参るのがあの地区の風習であることから、かなり強い信仰だったことは間違いないと思います。しかし、社を作るならもっと立派に作れたはず。逆に労力をかけないのなら、もっと小さい石のものでもよかったはず。なぜあれだけ中途半端なものを社代わりに使っているのか。そこが気になるのです」

 赤信号で車が止まる。恭也も一息いれて、透子に視線を移した。

「それで、お願いがあるのですが……」

 笑顔を出されると断われないことを知ってやっているのではないか、と透子はひとりごちた。


 リズミカルな包丁の音が響き渡る。

 菊池家は外見も内装も昭和を思いおこさせるものだったが、台所だけはフローリングされ、多少古いがシステムキッチンも入れたらしく、周囲から浮いて見えた。

 夕食の手伝いをすると意気込んだものの、祥子の鮮やかな手つきをみせつけられ透子は隅で味噌汁の味付けをする役となってしまった。

 脇から感嘆のため息をつくと、祥子は笑って刻んだネギを味噌汁の鍋に放り込んだ。

「そりゃ、もう一人暮らし何年もしてるしね。あ、十何年か」

「そういえば、祥子さん東京で働いてましたよね」

 歳にして干支ひとまわり以上離れている従姉とはあまり話したことがなかったが、話しやすかった印象だけは透子の記憶に残っていた。実際、頼りになる姉という気分である。

「うん、大学も宮城だし、それから東京に出て。母さんが倒れちゃったから仕方なく戻ってきたんだけどね」

「そういえば、伯父さんは大丈夫なんですか?」

「ああ。酒ばっか飲んで肝臓壊してりゃ世話ないよね」

 その言葉には、どこか優しい響きが混ざっていて、透子は少しだけ微笑んだ。

「そういえば、祥子さん。あの章吾さんって方とお付き合いなされてるんですか?」

「え?」と小さく漏らして祥子の手が止まる。

「あの人から聞いたの?」

 あの人がどの人を指しているのかはすぐに分かり、透子は笑みを漏らす。自分の発言の迂闊さに気づき、祥子は顔を赤くして再び包丁を動かし始めた。

「いや、気づいたのは私じゃなくて……」

 木に吊るされた鈴を見て恭也が気づいたことを話すと、祥子は「さすが小説家ね」と呟いた。

「それってどういう意味?」

「それこそ、自分で聞けばいいじゃないの」

「聞いても教えてくれないんですよ」

「じゃあ夜に布団の中ででもおねだりしてみりゃあいいじゃない」

 思わず透子は味見をしていた味噌汁を口から吹き出した。

「うわっ、汚い。何してるの」

「あ、す、すいません。でも、祥子さんが変なこと言うから……」

 その反応で納得がいったのか、祥子はコンロの周囲を拭きながら笑い飛ばした。

「なんだ、そうだったの。いや、大学の先生と旅行だなんて、そういう仲じゃないとありえないと思ってたからさ。ごめんごめん。気を利かせて部屋を隣にしたのもまずかったかな」

 寝室が恭也の部屋とふすま一枚しか隔てていない理由がわかり透子は苦笑する。もっとも、昨日の夜は透子が恐れつつも期待した出来事など欠片も起こらなかったのだが。

「ま、一応そうなのさ。章吾さんとは付き合ってるんだけどね」

「じゃあ結婚もそろそろですね」

「それが……」

 急に声のトーンを落とし祥子はため息をつく。

「章吾さんとこの婆ちゃんがさ、菊池の家の娘を嫁にもらうわけにはいかん、って」

「そんな! それはなんで?」

「それがわかってたら風鈴なんか使ってないよ」

 答えになっていないようにも感じたが、祥子の陰鬱な雰囲気にそれ以上質問されることがためらわれ、透子は不自然に話を変えようとした。が、

「そ、そういえば、結婚したらやっぱり向こうの苗字になるんですよね。守屋さんになるのかな。あ、あはは」

 機転が利かない自分に腹を立てたが、祥子がそれほど気にしていないようだったので胸をなでおろす。

「そうねー。姉が生きていたら、この家は全部任せられたんだけど。そうなるのかなぁ」

「お姉さん、ですか?」

 透子には初耳だった。祥子の姉ということは、透子にとっても従姉となる。しかし、今まで一度もその名前を聞いたことがなかった。

「ああ、透子はしらないか。私もよく知らないんだけどね。私が産まれた頃にはもういなかったらしいから」

「病気、ですか」

「らしいね。十歳近く離れてたらしいけど、生きてたらどんな姉妹になってたのかな、とかってたまに考えたりもするよ」

 話している間に祥子は洗い物を終えていた。手際よく料理の品物を運び、夕食が始まる。

 父が入院して一人暮らしだったこともあってか、祥子はよく喋った。同年代の人がほとんどいない山奥の村で一人暮らしている祥子の姿を思い、姉妹がいたらどうなっていたかな、という先ほどの言葉が透子の脳裏でリフレインしていた。


 襖を開けると、小さなテーブルの上でノートパソコンを開き、あぐらを組んで考え事をしている恭也の姿があった。

「寒くないんですか?」

 氷点下とは言わないが、室内の気温は一桁である。ストーブもつけず布団にも入らず黙って座っている姿は見ているほうも寒くなってくる。

「透子くん」

 しかし恭也はその言葉に答えず、いつもより低い声でいった。それも、さんづけではなく。これは考えているモードの恭也である。反射的に「はい」と答えた。

「昼の結果、どうだったかな」

「ああ、今もってきます。コピーとってきましたから」

 昼間、恭也に連れて行かれた場所は村に唯一ある図書館だった。そして何を考えているのかおもむろに「米の凶作についての情報を集めてくれないか。そうだね、ここ百年くらいだけでいい。お願いできるかな」といった。

 講義でも、一人で真剣に話し始めると止まらないことを知っていたから、あえて質問はしなかった。だが、マヨヒガと米の凶作がどうつながるのか、疑問ではあった。

 コピーした用紙を手渡すと、恭也はそれを見ながらパソコンに何かを打ち込んでいく。画面には数字の列などが几帳面に整理されて並んでいた。

「先生は昼間、どこにいってらしたのですか?」

「ああ、僕は役場に行って色々昔のことを知っている人が居ないか聞いていたんだ。それで老人から興味深いことが聞けた」

「というと?」

「透子くん、やはりあれはマヨヒガじゃあないよ。多くの人が遠野物語を読んで解釈した、いわゆる山中異界論ではない。いや、これはある意味一つの答えなのかもしれない」

 透子にはまったく話していることがわからなかったが、なぜか、恭也の声がうかれていないことが気にかかった。

「そういえば、先生」

「うん?」

「さっき、祥子さんと話していたんですけど」

 透子は、さきほど祥子と話したことを一部始終話した。恭也ならば、なぜ相手側の母親が結婚を認めないのか、その理由を見つけてくれるのではないかと期待して。しかし、恭也は違うところに反応した。

「そのお姉さんは幼くしてなくなったのですか?」

「ええ、そう言ってましたけど、そこじゃなくて、先生」

「お姉さんは、なぜ亡くなったのですか?」

「病気だって言ってました……」

 恭也は黙ってそれっきり俯いてしまった。

 することもなく、透子はキッチンに戻ってコーヒーを入れてくる。インスタントものしかなかったが、構わないだろう。そう思い部屋に戻ると、恭也はノートパソコンをしまい始めていた。

「あ、ありがとうございます、透子さん」

 口調も変わっている。どうやら考え事は終わったらしい。その予想を正解とでもいうように、恭也はいった。

「明日の午後に帰りましょう。調査は終わりました」



  4



 二泊させてもらった礼を述べ、「結婚式には呼んで下さいね」とこっそり耳打ちすると、祥子は「できたらね」と笑いながらジープを走らせて去っていった。

 昨夜に新しく積もった雪のために駅に着くのが遅れ、乗る予定だった列車はほんの数瞬前に車窓から確認できた。時計を見るとまだ次の列車が到着するまで一時間もあるようだった。東京では考えられないな、と思いながら透子は待合室の色あせたベンチに腰をかける。恭也もそれに倣った。

 表にある自動販売機でコーヒーを二本買い、片方を恭也に手渡す。ぬるいですね、と少し眉をしかめながらも恭也はゆっくりと飲み始めた。

「講義してもらう分、それでいいですよね」

 そういうと恭也は苦笑した。昨夜、結局マヨヒガはなんだったのかという透子の問いに「明日、帰るときに話します」と頑なに拒み続けたのだった。午前中、透子を置いてどこかにでかけたのが最終確認のようなものだったのだろう。

「何から聞きたいですか?」

「まず、なぜ二人がいい仲かわかったのか」

「ああ、あれですか」

 笑って恭也が答える。

「あれは、本の中にある話ですよ。吉川英治の『新・平家物語』が炬燵の上に置いてあったので確信しました」

 そう言って恭也は手帳を取り出し、何かをすらすらと書き始めた。


  庭の山椒の木鳴る鈴懸けて

  鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ

  鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ

  駒に水くりょというて出ましょ


「これは?」

「これは九州の椎葉という地にての恋物語です。平家の残党を討つために隠れ里へとやってきた源氏の大八郎という武士が、平清盛の末裔である鶴富姫と恋に落ちてしまいます。その際、庭の山椒の木に鈴をかけ、それを鳴らして逢瀬の合図とした、という話なんですね。あの時も、透子さんが鈴の音を聞いた気がした、と言ってからほとんど時間が経たず章吾さんがやってきました。ということは、二人の共通の合図となっているのではないかと考えたのです」

「それだけですか?」

「ええ。だから、あまり自信はありませんでしたよ。でも、後から話を聞くに、祥子さんは結婚を反対されています。つまり、堂々と会えない。おそらくこの仮説は正しいでしょうね」

 言われてみれば、とは思うが、その話を知らない人には絶対に分からない合図というのはたしかに有効だろう。げんに、透子にはさっぱり分からなかったのだから。

「じゃあ、マヨヒガは結局なんだったんですか?」

 そういうと、恭也は笑みを消し、困ったように頭を掻いた。

「うーん、ちょっと説明しづらいのですけどね」

 鞄の中から何かを取り出す。それは透子が渡した凶作のデータのコピーと、もう一枚、何か別の資料だった。受け取って読むと、そこには手書きで『行方不明者』と書かれていた。

「これは?」

「透子さんに図書館での調べ物を頼んでいる間に、東京の新聞社に努めている知り合いに連絡をして、この村で行方不明者などがここ百年ほど出ていないかを調べてもらったんです。役場の人にも聞いてみたのですが、なかなかプライベートなことは教えてもらえませんでしたので」

 手書きの紙には、明治から昭和にかけていくつかの西暦が挙げられていた。隣には西暦に合わせて昭和何年か、などと書かれている。

「それらの共通点が分かりますか?」

 言われて目をこらして見比べる。

「んー、凶作の年に行方不明者が出ているわけではないですよね」

「ええ。同じ年というのはほとんどありません。けれど、特徴はあるでしょう?」

 透子はおもわず「あっ」と声をもらした。

 全部とは言わないが、行方不明者が出た年は、凶作の次の年に集中しているのだ。

「そうです。凶作の次の年に行方不明者が出ることが多い。この符号はなんなのか。これが、私のたてた仮説を真とすると解決できるのです」

 飲み干したコーヒーの缶を脇に置き、恭也はため息をつく。

「あの杉の大樹は、ほぼ間違いなく信仰の対象だったと思います。では、大樹を崇めることで人々は何を祈ったか。これは私の想像ですが、豊作でしょう。現存する大樹の祭事では、これに家内安全や縁結びなども付加されているものが多いですが、古来農村で祈願されてきたものは『豊作』、ついで『雨乞い』です。大樹の生命力を植物全ての繁栄とする見方はおかしいとは思いません」

 透子の声があがらないことを確認して、続ける。

「そしてもう一つ、大樹は依り代であるという考えがあります」

「依り代、ですか?」

「はい。神霊が地上に降りる際、大樹を通じるという考えです。いわばアンテナのような役割を果たすわけですね」

 木の絵の次に、頭の上に輪を乗せた人のような絵が手帳に描かれるのを眺め透子はくすりと笑う。だが、恭也は少し悲しそうに苦笑するだけだった。

「では、凶作のとき、人々はどう思ったか。神様が怒っているのだ。ではどうするか。次の年の豊作を祈るでしょう。怒りを静めるための捧げ物を箱にいれて」

「まさか」

「はい。あの小屋は、遠野物語に出てくるアヤカシのマヨヒガとは別物です。大樹に生贄を捧げるための箱、いわば祭壇のようなものだったと私は考えます」

 あの小屋が、生贄を捧げる祭壇だった?

 恭也の言葉を理解できず、透子は記憶を掘り起こす。

 古くなり一部が腐りかけた小屋。窓がない。屋根が平ら。気になる部分もあるが、それが農具をしまっていた小屋だと言われたら納得してしまいそうな雰囲気がある。

 けれど、人があがることを想定されて作られたと思われる板張りの床。なぜか分厚い壁。そして、何よりも気になるあの空気の重さ。

「豊作のために生贄を捧げる風習は各地に残されています。有名なものは、田植え直前、水口に贄を捧げて豊作を祈るという北陸地方の儀式です。このほかにも、世界各地に生贄を神に捧げるという風習は残っています。日本でこの生贄儀礼が少なくなっていった理由は仏教の殺生戒などにもよると思いますが、けしてなかったわけではない」

「けど」

「はい。これだけでは証拠として弱い。けれど、あれがマヨヒガと呼ばれていたことが興味深いのです」

「え? あれはマヨヒガではない、と言ったじゃないですか」

「はい。あれはいわゆるマヨヒガではないでしょう。しかし、遠野物語の記述を私の仮説と組み合わせると何点かの符号が一致します。まず、人里離れた山中に存在すること。そこに行き、帰ってくると金持ちになること」

「ま、待ってください」

 恭也が二つ目の指を折り、さらに中指を折ろうとするところで透子は押し止めた。

「なぜ、帰ってくると金持ちになるという部分が、あの小屋が生贄のための祭壇だったという仮説につながるのですか?」

「いいですか、透子さん。あの小屋に生贄が捧げられたとします。おそらく、その期間は正月の十五日間。御幣は人形、つまり人の代わりとして用いられていると推測できますから、これは間違いないでしょう。つまり、生贄となった人はあの小屋に十五日間放置されたわけです」

 二週間以上、人と合わず、物も食べず、水も飲まず。自分の想像力では予想もできないだろうな、と透子は感じる。

「普通、極寒の季節に十五日間も飲まず食わずでは人は死ぬでしょう。しかし、人はそれで安心したと思います。神様が生贄、つまりは人の魂をもらったのだから、その恩恵が今年こそはあるはずだ、と。しかし、そこでもし生き延びた人がいたとしたらどうでしょう?」

「どうでしょう、と言われても」

「もし生き延びた人がいたら、こう思うのではないでしょうか。神様は生贄を必要としていない。今年は生贄がなくとも良いのだ、と。そうするとどういうことが起きるか。これは昨日、この辺りのことに詳しいご老人に聞いた話ですが、凶作の次の年なのに、いきなり金持ちになった家が一件だけあったそうです。捧げなくてもよい年であるのに、生贄としてあの狭い小屋に閉じ込められ、十五日間も飲まず食わずでいた人への手当てとして、お金を渡す――もちろんこれには口止め料も含まれている、そう考えることはできないでしょうか」

 考えられるだろうか。透子は心の中で問いかけてみたが、生贄の風習が残っていることを知識でしか知らないものにとって、その話は現実味のない朝靄のようにしか映らない。

「うーん、でも、さっき先生自身が言ったように、十五日も閉じ込められて生きていられる人なんているんですか?」

 恭也はそれに答えるように大きく頷く。

「はい。条件さえ整えば、可能性はあったんです。あの小屋の左奥隅が腐っているのはご存知ですか?」

 一瞬あのナメクジを触ってしまったような感触を思い出し、顔を歪めて透子が頷く。

「あの腐り方は水で濡れたためのものです。どうやら、雪があの平らな屋根に積もって溶けると、あの左奥の隅からだけ水が流れ落ちてくるようになっているようなのです。つまり、そのような天候であれば、水は得られた。水さえあれば、人は意外と死なないものです」

 ここまではいいですか、と恭也が問いかける。

「遠野物語との共通点は先ほどの部分にあります。遠野物語の中で、マヨヒガから帰ってきた女は米の減らない器を手に入れます。これは、生贄を決めた人が生きてかえってきた人に手当てとして金ではなく米を与えたと仮定すると、先ほどの話とつながります。そしてもう一つ、遠野物語の中でマヨヒガが語られる話があります。マヨヒガの存在を知って、そこにいけば金持ちになれると男が山中へ入っていく。しかし、彼は帰ってこない。このことから、マヨヒガは行こうとして行けるものであると同時に、誰しもが帰ってこれるものではない、という仮説がたてられます。どうですか、ついてこれますか」

 眉をしかめる生徒をみて、小説家は話を止める。

 生徒は納得がいかないように首を傾げた。

「うーん、話はなんとなく分かるんです。もしかしたら、その仮説があっているのかもしれない、って。けれど、どうして先生はそう思うようになったのか、それがどうしても分からないんです。与えられた情報が少なすぎるように思えて……」

「ふむ。私が最初におかしいと思ったのは、あの小屋の入り口です」

「入り口、扉ですか?」

 あの時、恭也が扉をみてじっと立ち止まっていることを思い出す。

「はい。あの入り口は、引き戸が外側に付いていました。しかし、中を見る限り、人があがることを想定してある。それではおかしいのです」

「えっと、すみません、もう少し詳しく」

「そうですね。透子さんはしんがり棒というものをご存知ですか? 戸に立てかけるつっかい棒のことなのですが、昔は扉に鍵などはなく、それで戸締りをしていたわけです。つまり、扉が家の内部に引っ込んでいる状態でなければ、これはできません。しかし、あの小屋は扉が外側にある……つまり、外側からしんがり棒で扉を開かなくすることができるような構造なのです」

 言われて、思い出す。確かにあの小屋はそんな構造をしていた。

「よくみると、ある一部だけがへこんでいました。何度も同じしんがり棒を使ったせいでしょう。それで私は、あの小屋が何かを閉じ込めるためにつくられたのではないかと考えたのです。それに拍車をかけたのは小屋の内部の状況です。窓がなく、どの壁も分厚く隙間がない……つまり扉以外からは逃げられない構造。その上、どの壁にも」

 恭也が透子をみる。言っていいのかどうか、答えを出しあぐねるかのように何度か口を動かしたが、すぐに覚悟を決めた。

「あの壁には、ひっかいたような古い傷跡が無数に残されていました。明かりが差し込まないせいで普通に見ては見逃すほどの細かい傷ですが」

 ひっかき傷とは、と問いかけようとして、透子はその疑問の愚かさに苦笑した。そしてすぐに、その答えの意味を悟り、背筋を震わせた。

 恭也の仮説を信じると、その傷は閉じ込められた人々がなんとかそとに逃げ出そうともがいた時にできた傷なのだろう。それも、何人もの人が、幾年もかけて。出してくれとわめき、もがき、苦しみ、壁をひっかく――その光景を想像し、さらに体が震える。同時に、理解する。あの小屋の重い空気の正体を。

「――もう一つは、ケラズヤという名前でした。マヨヒガとケラズヤ、どう考えても変化していった形とは思えませんでした。そして一つだけ、ケラズヤに当てはまる言葉を思いついたのです」

 透子の震えが収まったことを確認して、恭也は言葉を続け、もっていた手帳に『不帰家』と書いた。

「宮城県には、不帰かえらずの滝というものが存在します。その名前については、その滝のある山にいって帰ってくるものがいないということからつけられた、または鬼婆が住み、山を登ってくる男の生き血を啜っては滝へ死体を投げ捨てたという伝説からつけられたなど、色々な説がありますが、共通するのは『あの滝に近寄ってはいけない』という教訓めいた話であることです。前にも話しましたが、アニミズムの対象には滝も存在します。水神が住むと言われる滝はそれこそ数多くある。つまり、この滝でも生贄儀礼が行われていた可能性は否めません。そして、岩手のこの地方では、『かえらず』を『けえらず』と発音します」

「ということは」

「はい。ケラズヤ、とはかえらずの家、という意味であると考えられます」

 以上、調査結果です。恭也はそう呟き、手帳をしまった。

 あのちっぽけな小屋に、どれだけの意味が隠されていたのか。最後に恭也は「これは仮説ですし、証明してはいませんから」と付け加えたが、その言葉を鵜呑みにするほど透子は馬鹿ではないと自負している。

 そこで、はたと気づく。なぜ恭也は仮説を仮説で留めているのだろう。この仮説を立証しようとしないのは、恭也の性格ではない。一度興味を持ったものにはとことん喰らいつけと、講義の初めに生徒に向けて言ったのはほかならぬ恭也である。

 ならば、そこに意味があるはずだ。今まで喋ったことに嘘はないだろう。だから、何かがあるとしたら言わなかった部分に存在するはずだ。

「先生」

 恭也が言わずに、しかしまだ語るべきであるはずの部分。

「先生。もしあの小屋が先生の言うとおりのものだったとしたら、その管理者である守屋章吾さんは人を生贄として閉じ込めていた張本人と言うことですか?」

 あの小屋の管理は自分が行っていると、章吾は言った。だとしたら、この考えに行き着く。真剣な透子に、恭也は苦笑いを返した。

「ええ。今日の午前中、私は章吾さんと話してきました。でも一つだけ違うことがあります。章吾さんは、そのことを知ってはいましたが、彼自身が誰かを閉じ込め、生贄の儀式を行ったことは一回もないそうです。当たり前ですね、今の時代に生贄云々は時代錯誤です」

 一気に全身の力が抜けるという現象を、透子ははじめて味わった。もしさっきまで話していた人が、昔からの儀式とはいえ人殺しを行っていたとしたら、と考えると、どうしても体がこわばってしまったのだ。

「ですが、守屋家がその儀式の中核を担っていたのも事実のようです。苗字も、あのケラズヤを守るための家であるという意味なのでしょう。実際、この儀式は章吾さんの一代上までは続けられていたようですしね」

 一代前とは誰かと思いめぐらせ、一人だけ行き当たる。祥子が話していた、二人の結婚を反対しているという守屋の婆ちゃん。

「……先生、もしかして」

 透子の言いたいことが分かったのだろう。言葉にならない声を、恭也が続けた。

「はい。確実な証拠は何一つありません。章吾さんも知らないと言っています。しかし、章吾さんのお母さんが二人の結婚を反対する理由はここにあるのかもしれません」

 恭也は核心に迫る言葉を口には出さなかった。けれど、透子にははっきりと伝わった。病気で亡くなったという祥子の姉は、生贄となったのではないだろうか。おそらくは、この儀式の最後の犠牲者として。だからこそ、章吾の母は祥子を家に迎えるのを拒否しているのではないだろうか。自分たちが殺した女の妹が復讐に来るのではないかと。人は悪事を働くと、ありもしないところまで想像して勝手に恐怖に陥るところがある。

「章吾さんは言いました。そのような儀式を行っていた家の跡継ぎとして、二度とこんなことを繰り返してはいけないと。また、祥子さんに好意を抱いたのは、けして今は亡き祥子さんのお姉さんへの負い目ではない、とも」

 コーヒーの空き缶を手に恭也が立ち上がり、くずかごへと捨てた。電光掲示板は目的の列車があと数分で着くことを示していた。

 透子も立ち上がり、荷物を持って恭也の後を追う。

 改札をくぐる時、恭也が前を向いたまま話しかけた。

「ねぇ、透子さん。私はこのことを小説に書くのはやめようと思っています。歴史や民俗学を追及すると、時に残忍で、残酷な事実と出会うことがあります。それを世に示すことが必要な場合もあるでしょう。でもね、それは学者がやればいいことだと思うんです。私は人を楽しませ、喜ばせるために小説を書いているのですから」

 外はまた雪が降り出していた。また積もるかもしれないな、と透子は思う。

「あの二人が結婚するときは、私も呼んでもらえるでしょうか?」

「さぁ。普通は呼んでもらえないと思いますけど?」

「それは残念です。ぜひまたお会いしたいものです」

 静寂を破るように、遠くから列車が近づいてくる。恭也は大きく背伸びをして、透子を振り返った。

「東京も雪、積もってますかね?」

「積もったら電車は止まるでしょうね」

「ああ、それは困ります」

 列車が止まり、ドアが開く。たった三日間ではあったが、もっと長い間滞在していたように透子には感じた。


 かなり前に書いた推理物です。

 人物部分が非常に弱いと自覚しつつも、書き上げることを目的としていたあの頃。

 お読みいただきありがとうございます。

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