月が教えてくれたこと
過去作シリーズに借景?し、前作のスピンオフのような形になってしまいました。ただ以前の作品を御存知なくてもお読み頂けるようになっていると思います。
なお、投稿後に「小説家になろう」掲載作品に同タイトル・似たタイトルの作品があるとわかりました。内容的には別ジャンルかと思いますので、先に書かれた作者様には申し訳ありませんが、このままの作品名を使わせて頂きます。私としてもこのタイトルが嵌ってしまいましたので、どうかお許し下さい。
恋愛問題を拗らせて友達を傷付けてしまった片岡和真は、以来鬱々とした日々を送りただ会社を往復するだけの毎日だった。すでに振られていたとはいえ、ずっと好きだった女性が結婚することを知り、和真はある店の前で酔いつぶれてしまう…
やけ酒
「なあユウさん、あいつ大丈夫なのかよ」
ここは都内某区にあるミックスバー” Fairy tales”。カウンター席に突っ伏して、寝ているのか起きているのかわからないサラリーマン風の男が一人。彼を不審な面持ちで見ながら、男性客の一人が「ユウさん」に向かって話しかけた。
「うーん、お店の前でへたり込んでたのよね。気になったから声掛けちゃったの。もうずいぶん飲んでいたみたいだから、炭酸水を出したんだけど…」
ユウさんはどうやら「オネエ」らしい。お店のスタッフではないが、常連でいつもこの店にいる。
「金を持ってなかったらどうすんだよ」
「別に、あれくらい私が奢ってあげるけれど…諒ちゃん、細かいわね」
「諒ちゃん」と呼ばれた男性客はニヤニヤしながら
「なに、ユウさんの好みのタイプなの?片想いの彼は諦めたんだ?」
「イジワルねえ、そんなんじゃないけどなんだかほっとけなくて…」
ミックスバーは様々なセクシャリティの人々が集う場所だ。ユウさんはゲイだが、諒はノンケで女好き。にも拘らず、同じ会社で働く男性に片想い中という救われない男である。
「まあ、ゲイには見えないよね、あの人」
そこへもう一人の男性客が会話に入ってきた。
「史ちゃんもそう思う?まあこの店に来た感じではなさそうだったわね。アタシと史ちゃんはゲイだから、同類はなんとなくわかるものね」
3人がそんな話をしながらカウンター席を見遣っていると、突っ伏した男に一人の若者が近づいて声を掛けた。
「お兄さん、泣いてるの?失恋でもしちゃった?」
店に入ってずっとカウンター席にいた男は、少し肩を動かしたが依然顔を上げなかった。そのままの姿勢で
「うるさい、ほっといてくれ」
と、若者を追い払う。
「あちゃー、図星だったか。ごめんね」
話しかけた若者はまだ二十歳くらいだろうか。やや長めの明るい栗色の髪をしていて、少年のような愛らしい顔立ちだった。
「ねえ、僕慰めてあげようか?」
そう言って彼は、カウンターの男の腕にそっと手を触れた。
その言葉にさすがに驚いたのか、男はやっと顔を上げた。初めて二人の顔が合った。
「うわ、お酒臭い~、ここに来る前にだいぶ飲んでるでしょう、失恋のやけ酒かあ」
顔を上げた男はさすがにムッとした様子で声を荒げた。
「さっきからうるさいぞ、お前。俺は男に興味はない、あっちへ行け」
「ここがミックスバーだってわかってる?『そういう人』もたくさんいるよ?まあノンケが来てもいいんだけどね」
若者はサラリーマン?に睨まれても、一向に動じなかった。そこへユウさんがやって来て
「こらこらミーちゃん、絡まないの。ごめんね、お兄さん。酔いが醒めたら帰ってもいいわよ。お代はアタシが払っとくから」
そう言うと「ミーちゃん」と呼んだ若者の腕を掴んで、自分がいたソファ席へと引っ張って行った。
「ダメでしょ、ミーちゃん。ああいう人は一人しておいてあげなさい」
「ちぇー、せっかく慰めてあげようと思ったのに」
そう言うと「ミーちゃん」と呼ばれた若者は、史ちゃんの隣にすとんと座って寄りかかった。
「ねえ、振られちゃったから今夜付き合ってよ。知らない仲じゃないしさ」
史ちゃんは苦笑いした。
「まあ…いいけど」
「えっ、二人はそういう関係なんだ?それなのにあっちの男にも声を掛けていたわけ?」
諒が呆れた顔でミーちゃんの顔をまじまじと見る。
「そういう仲って…別に僕たち恋人同士じゃないし、気が向いた時寝るだけ。そっちのお兄さんはハジメマシテだね」
「ああ、諒ちゃんとミーちゃんは初めて会うのね。ミーちゃんは最近この店に来るようになった子なのよ」
ユウさんが簡単にミーちゃんを紹介する。
「『満月』と書いてみづきです。よろしくね。諒さん?はゲイじゃなさそうだね。でもすごいイケメンだあ」
満月は人懐こい笑顔で話しかける。
「諒ちゃんはね、すっごーい女たらし。でもなぜか同性の親友に絶賛片想い中」
またユウさんが紹介?する。
「そうなんだー、史さんとは恋人じゃないけれど、史さんの好きな人と僕がちょっと似てるんだって。だから時々僕が相手をしてあげてるんだ」
満月は悪びれずに言い、史ちゃんの腕を引っ張りながら立ち上がった。
「ね、早くホテルに行こうよ史さん、僕明日も学校だからあまり遅くない方がいいんだ」
「やれやれ、相変わらずマイペースだね。それじゃあお先、ユウさん、諒さん」
史ちゃんは二人に軽く会釈すると、満月が絡ませた腕を振りほどく事もなく支払いを済ませて店を出て行った。
「なんか…面白い子だなあ、学生さんなの?」
諒がユウさんに尋ねた。
「ええ、専門学校に通ってるとか言ってたわね」
「ビッチってやつ?」
「うーん、まあ特定の相手は作らないみたいだけど、でも誰でもいいってわけでもなさそうよ」
「それにしても『似てる』…か…。史君の好きな人は知らないけれど、あの子、実央君にも似ているな」
「ああ、暁ちゃんの彼氏?そういえば似てるわねえ、印象は全然違うけど」
「暁ちゃん」というのは諒の片想いの相手で、「実央君」はその彼氏だ。二人はノンケだが、「暁ちゃん」は以前同性同士の付き合い方を相談するため、この店に何度か足を運んでいたのである。
「たまには暁ちゃんを連れてきなさいよ。最近めっきりご無沙汰じゃないの」
「まああいつは今のところ順風満帆、彼氏ともイチャイチャラブラブの毎日で希望部署への異動の内示も出たし、毎日お肌ツヤツヤだよ。ここに来る必要もないだろ」
「イチャイチャラブラブツヤツヤねえ~、実央君も大変だわね」
ユウさんは意味ありげにクスクス笑う。
「諒ちゃんは?異動はしないの?」
「俺?俺はまだ異動希望を出していないんだよね。今の部署が性に合ってるみたいだから、もう少しやってみたいなと思って」
「秘書課だっけ?似合ってるわよ、諒ちゃんに。さっきのお兄さんもサラリーマンだと思うけど、失恋だったのか仕事の悩みだったのか…諒ちゃんや暁ちゃんみたいに充実できれば、元気も出るでしょうけれど…」
ユウさんはそう言ったが、当のサラリーマンの姿はいつの間にかカウンター席から消えていた。
再来
次の日の夜、” Fairy tales”にはまたユウさんの姿があったが、諒と史ちゃんはいなかった。
「今日はちょっと人が少ないわねえ、健ちゃん」
ユウさんは少しつまらないといった様子だ。
「こんな日もあるさ。今夜は雨が降りそうだからな。5月半ばとはいえ、夜はちょっと冷えるし」
健ちゃんと呼ばれた男が苦笑して答えた。その時、店の木製の扉がゆっくりと開いた。
「アラ…」
入って来たのは昨夜ユウさんに拾われた?サラリーマン風の男だった。
「こんばんは…」
男は決まり悪そうに頭を下げて、ゆっくりとユウさんに近付くと
「昨夜は…ご迷惑をお掛けしました。この店に入った前後の記憶が抜け落ちていたんですけど、少しずつ思い出してきて…。俺、飲み物代とか払っていませんでしたよね、それをお返しに…」
下を向きながらぼそぼそ話し始めた。
「まあまあ律儀な人ねえ。飲み物って言っても炭酸水一杯よ。それくらいいいのに」
ユウさんは陽気に笑う。
「いえ、払います。俺、こういう者です」
男は代金と一緒に名刺を1枚、ユウさんに差し出した。
「分かったわ、お金は頂くけれど…ダメよ、こういう所で名刺なんか出したら。ここがどういうお店か覚えてる?」
「ミックスバー…でしたよね…」
「そう。別に怪しいお店じゃないけれど、身分なんて明かさなくていいのよ」
ユウさんはそう言って名刺を男に返そうとした。その時、
「お兄さん『片岡和真』っていうんだ。『美香森製紙(株)経営企画部』か。へえ、いい会社に勤めてるじゃん」
二人の横から、昨夜和真を誘った満月がすっと名刺を取り上げた。
「コラッ、ミーちゃん、あなたはまた…」
「ユウさん、その『ミーちゃん』て呼ぶのやめてよ。猫みたいな気分になる…って、僕ネコ専門だからいいのかー」
満月はケラケラと声を上げて笑った。
「お前…昨夜の…」
神妙な面持ちでユウさんと話していた和真だったが、満月の顔を見るとサッと表情を変えた。不愉快さが満面に現れている。
「えー、せっかく慰めてあげようとしたのに『お前』呼ばわりはヒドクない?」
満月はニヤニヤしている。
「何が『せっかく』だ。結局あの後イケメンにくっついて出て行ったじゃないか。要はヤれれば誰でもいいんだろ」
ユウさんに対するのとは打って変わって、辛辣な和真の言葉だった。第一印象がよほど悪かったのだろう。
「誰でもってわけじゃないけれどー…、でもまあ面食いかな」
「うそつけ、それなら俺になんか声掛けないだろう」
「確かに史さんや諒さん程ではないけれど…お兄さんも悪くないよ。あ、和真さんか」
名前を呼ばれて、なぜか和真はドキッとした。
「ハイハイ、そこまで。せっかく再会できたんだから、仲良くしましょうよ。お兄さん…じゃない、ここでは和ちゃんね。夕飯は済ませたの?」
ユウさんが二人に割って入った。
「いや、まだ…」
「それじゃあ今夜こそアタシが奢るわ。カレーでいいかしら。ここのカレー美味しいのよ、食べていって。ミーちゃんも食べる?」
「食べる食べる、やったー、ゴチになります」
満月はおどけてユウさんの腕にまとわりついた。
(こいつ…ホントに調子のいいビッチだな)
和真は苦々し気に満月を横目で見て、ユウさんに案内されたソファ席に腰かけた。
つまらない話
和真は支払いを済ませてすぐ帰るつもりだったが、半ば強引にユウさんに誘われて夕食を共にすることになった。
「あ、ウマイ」
運ばれてきたカレーを一口食べて、和真は思わず声に出た。
「でしょう?評判いいのよ。よかったらたまには食べに来てあげて。売り切れゴメンだけれどね」
ユウさんは嬉しそうに話す。
「なんか…すみません。お詫びに来たつもりがご馳走になっちゃって…」
「いいのよ、気にしないで。『袖すり合うも多生の縁』とか言うじゃない?あ、別に和ちゃんが目当てとかじゃないから安心していいわよ」
ユウさんは手をひらひらさせてそう言った。
「ユウさんは結構大きなデザイン会社だかデザイン事務所だかに勤めていて稼いでるらしいから、気にしなくて大丈夫だよ」
美味しそうにカレーを食べながら、満月が横から口を出した。
「お前が言うなよ、奢ってもらってるのに」
和真は相変わらず満月には冷たい。
「『お前』はやめてよ。『みづき』だよ。まんげつって書いて『満月』だから」
「『まんげつ』ねえ…とんだ男好きのお月様だな」
「それだけ食欲あって憎まれ口が飛び出すなら、もう失恋の痛手も平気そうだね」
満月が仕返しとばかり和真に言った。途端に和真の表情が一変する。
「ミーちゃん」
ユウさんがため息を吐きながら、満月を睨んだ。
「ごめんね和ちゃん、でも…ここはあなたの知り合いも家族もいないフラットな場所よ。アタシたちがあなたの悩みを解決できるわけじゃあないけれど、話して少しでも気がラクになるなら、愚痴でもなんでも零していいのよ?」
ユウさんが慰めるように優しく和真に話しかけた。和真は少し黙っていたが、
「つまらない話です」
ポツリと呟くようにそう言った。
「いや…『つまらない』では済まないくらい人を傷付けました」
和真が今の会社に新卒で入ったのは4年前。はじめは慣れない事ばかりで緊張の連続だったが、仲のいい同僚もできて充実した日々を送っていた。中でも同期入社で同部署に配属された宮沢とは気が合い、よく二人で飲みにも行った。
宮沢には大学時代から付き合っている江口沙和という恋人がいて、部署は違ったが彼女も同じ会社で勤めていた。(かわいい人だな。お似合いの二人だ。俺も早いとこ彼女が欲しい)そんなふうに和真は思っていたのだが…
入社して1年ほど過ぎた頃だろうか。和真は沙和からよく話しかけられるようになった。はじめは宮沢の話が多かった。「男の人の考えはよくわからなくて」—そんな感じの相談だった。そこに段々愚痴めいた事が混じり始めた。沙和と二人だけで話す機会も増えていった。
(なんだよ宮沢のやつ…こんなに可愛い人を不安にさせて…)
最初は友人への軽い非難だった。それがそのうち
(江口さんにこんな思いをさせる宮沢より、俺の方がよほど…)
和真はそんなふうに思うようになってしまった。和真は相談に乗るうちに、沙和を好きになってしまったのである。
沙和に相談されている時、(ひょっとして彼女は俺に気があるのでは)と思う事が度々あった。恋愛の相談をしているうちにそちらと関係ができてしまう…というのは、「あるある」である。沙和への気持ちが抑えられなくなった和真は、思い切って彼女に告白した。
「宮沢より俺の方が君を愛している。君を幸せにできる」
沙和だってきっと自分を選んでくれる―この時の和真には妙にそんな自信があった。
だが―答えは「NO」だった。沙和は真っ青になって和真に謝った。なんていう事はない、和真は「当て馬」にされたのだ。宮沢の押しの弱さに不満を抱いた沙和が、和真を使って妬かせようとしただけの話だった。そう気づいても和真の気持ちは収まらなかった。当然と言えば当然なのだが、何故か怒りの矛先が沙和ではなく宮沢に向いてしまったのだ。嫉妬以外の何ものでもなかった。
「俺の方が彼女を愛している。お前じゃ彼女を幸せになんかできない。彼女の気持ちを理解しないで、寂しい思いをさせているお前は恋人失格だ。お前は彼女に相応しくない」
和真は思いつく限りの言葉で、宮沢を責め立てた。もっと酷い罵詈雑言を浴びせたような気もする。自分の惨めさを自覚しながら、宮沢への攻撃が止められなかった。
そのうちこの状況に堪えられなくなったのか、宮沢はいきなり会社を辞めて実家のある長野に帰郷してしまった。和真は振り上げたこぶしを下ろす前に、責める相手を失ったのだ。罪悪感がなかったと言えば噓になる。でもひょっとしたら宮沢がいなくなった事で、沙和の気持ちが自分に向くのではという身勝手な期待も芽生えたのだ。
だがその期待は脆くも崩れた。沙和の口から和真が望むような言葉が発せられることはなかったのだ。それからの約3年、和真はただ淡々と仕事をするだけの日々を送っていたのだった。
二度目の失恋
和真の話を聞き終えたユウさんは、どう言葉を掛けていいものか迷っているようだった。
「そうだったの…和ちゃんも辛かったわね…」
そう言ってユウさんは和真の肩にそっと手を添える。だが
「いやいや、それ女がサイテーじゃん」
カレーを平らげた満月が身も蓋もない言い方であっさり断罪した。
「和真さんの気持ちを弄んで、恋人に妬かせようとしたんでしょ?熱烈に愛されたいのなら、自分でどうにかしろよって話。人を…それも恋人の友達を使うとか、クズじゃん」
満月の言い方は容赦がなかった。さすがに和真は顔色を変えて、
「いや…彼女は俺が自分を好きになるとは思っていなくて…」
そう言葉を付け足した。
「へー、この期に及んでもまだその女を庇うんだ?お人好しだね、和真さんは」
「ミーちゃん、恋心っていうのはそんなに簡単なものじゃないのよ。ミーちゃんはまだ本当の恋愛を経験していないのね。でも確かに3年も経ってるのにやけ酒なの?」
ユウさんが和真の顔を覗き込んだ。
「それが…先日彼女に話があると呼び出されて…」
「えー、何、その女今更和真さんにすり寄ったの?」
満月は呆れて声を張り上げた。
「いや…そうじゃなくて…」
和真の話にはもう少し続きがあった。
宮沢が会社を辞めた翌年、沙和は彼に謝るため長野に足を運んだという。
「でも冷たく追い返されたわ。当然だけど」
沙和は自嘲気味に言った。
「もしかして私への気持ちが少しでも残っていたら、やり直せるかもって淡い期待もあったの。本当に私って狡いわよね」
和真は答えようがない。自分も今回沙和に呼び出された時、「淡い期待」があったからだ。
「去年の秋に彼からメールが来たわ。前の年にわざわざ長野まで来てくれたのに、冷たい対応で悪かったって。そして今自分には好きな人がいて幸せだから、私にもそうなってほしいって…優しいんだか、つれないんだか、わからないわね」
沙和は苦笑いした。
「私も少しずつ気持ちを切り替えていくことにしたの。それで…先日上司にお見合いを勧められて…先方はうちの会社に来た時に私を見掛けたらしいんだけど」
話の続きが想像できて、和真は愕然とした。
「今前向きな形でお付き合いしています。こんな事片岡さんに報告するのは筋違いだとわかっています。でも、あなたにも幸せになってほしくて。どの口が言うんだって思われるでしょうけれど、あなたと彼を傷付けた事私は一生忘れません。二度と同じ過ちを繰り返さないために」
沙和は和真に向かって深く頭を下げた。宮沢と別れて時が経過しても、沙和の気持ちが自分に向けられる事はなかった。和真は沙和に「二度目の失恋」をしたような気持ちになったのだった。
「それでやけ酒かあ。その女もちゃっかりしてんね。男二人を手玉にとって、自分は上司の紹介でお見合い結婚て」
カクテルグラスをゆらゆらさせながら満月はため息を吐く。
「ちゃっかりとか言うな。男をとっかえひっかえしているお前に言われたくない」
「『お前』じゃなくて満月だってば。別にとっかえひっかえしてるワケじゃないんだけどなぁ」
そこに健ちゃんが近づいてきて
「満月、あそこの客がお前と話したいって言ってるけど、どうする?嫌なら俺がうまい事言って断っておくけれど」
「あそこって…メガネのリーマン?んー、まあいいか、行くよ。じゃあね、ユウさん・和真さん」
満月は手を振ると、呼ばれた客の方へと行ってしまった。メガネの客の隣に満月が座ると、その男はすかさず満月の腰に手を回した。
「なんだよ、やっぱりとっかえひっかえじゃないか。自分の方がよほどちゃっかりしてるだろう」
和真は苦々し気に吐き捨てた。
「ミーちゃんのことはアタシもまだよく知らないんだけれど…まあ、あの子も色々事情があるみたいよ」
ユウさんは困ったような顔でそう言った。
「親の金で飲み歩いて男と遊んで…お気楽な学生さんで羨ましいですよ」
和真のその言葉に、ユウさんはもう何も返さなかった。
癒しの空間
” Fairy tales”を訪れて半月ほど経った頃、和真は社内の女性社員の立ち話を偶然耳にした。
<総務の江口さん、秋に寿退社ですって>
<あら、会社辞めちゃうの?あの人入社当時は誰かと付き合ってたわよね>
<その彼とは別れたんじゃなかった?上司からの縁談ならきっといい話よねえ>
もう沙和に未練はないはずなのに、それでも和真の胸はぎゅっと締め付けられた。その日の退社後、和真はなんとなく” Fairy tales”を訪れてしまった。最初にカッコ悪い所をさらけ出してしまったせいか、気負わずにいられそうな気がしたのだ。ただ…
(満月とかいう…アイツがいないといいんだけどな)
和真が店の扉を開けると、金曜日の夜という事もあって店内は賑わっていた。バーというにはわりと広い間取りで、カウンター席の他にソファ席が5つと立食用の小さなテーブルが5つ設けられている。
「あら和ちゃん、また来てくれたのね、ウレシイわ」
すぐにユウさんが出迎えくれて、和真はほっとした。
「今日は賑わってますね」
「そうなの、金曜日だからかしらね。カウンター席でもいいかしら」
「はい」
「ヤダ。敬語なんてやめてよ、和ちゃん」
ユウさんはカウンターの一席に和真を座らせた。彼はこの店の「主」のような存在になっているがオーナーでもなんでもない、ただの常連である。それでも和真にとってユウさんは、なんとなく心が休まる話し相手だったのだ。
(アイツは…いないな、よかった、今日は静かに過ごせる)
和真は満月がいないのを確かめてそう思ったが、安心した反面どことなく物足りなさも感じていた。
「どうする?ビール?」
健ちゃんが声を掛けてくる。健ちゃんは本業はサラリーマンだがオーナーの知り合いで、時間がある時はバーのスタッフとして手伝っているのだ。
「ああ、はい。それとまたカレーを。美味しくて癖になります」
和真は笑顔で頼んだ。
「間に合ってよかったね、今夜は盛況でもうすぐなくなるところだったよ」
健ちゃんは手早くビールとカレーを用意して、和真の前に並べてくれた。その時店の扉が開いて、男性の二人連れが入って来た。満月とこの前満月を誘っていたメガネのリーマンだった。
「ユウさん・健ちゃん、こんばんは。あれ、席が空いてないね」
和真に気付いていないのかスルーなのか、彼には声を掛けずに満月は店内を見回す。
「ああ、あそこの席が空くみたいだ。行こう、満月」
メガネの男は満月の腰をしっかりと抱き、顔を近付けてそう言った。
(なんだアレ、体をベタベタ触って、気色悪い)
和真は横目で満月たちを見て、顔をしかめた。せっかくのいい雰囲気が台無しにされたような気がしたのだ。
「ノンケの人には気になっちゃうかしら、ああいうの」
ユウさんが笑って和真に言ってきた。
「いや、そういうんじゃないけど…他のお客さんに比べてなんかイチャつきすぎっていうか」
「ミーちゃんにもちょっと気を付けなさいって言ってるんだけどね。なんかあのメガネの人…」
ユウさんは何かを言いかけてやめた。その時和真の脇から
「健さん、ジンフィズもう一杯お願い」
空のグラスを差し出して、オーダーする男がいた。
(この人…最初の晩に満月と店を出て行った…)
和真の視線に気が付いたのか、
「あれ、こちらの方は…もしかしてあの時の?」
ユウさんに向かってそう尋ねた。
「そうよ、史ちゃん。カウンターで寝ていたお客さん。和ちゃんていうの。ノンケだけどまた来てくれたのよ」
「まあここは誰が来てもいい店だからね。あの時満月が『失恋で泣いてる』とか言っていたけれど…」
恥ずかしい話をされて和真は思わず横を向いた。
「俺の話より…いいんですか、あれ」
和真は満月の方へ顔を向けた。相変わらず二人が…というより、メガネの男が満月の体にまとわりついている。
「あれって…満月の事?」
「お二人はそういう仲なんでしょう?」
「仲って…まあ気が向けばね。でも恋人じゃないし、別に満月が誰といたって気にならないよ」
史ちゃんはあっさりと答えた。
「史ちゃんも、ミーちゃんは片想いの彼氏の代わりだものね」
ユウさんがちょっと意地悪な顔つきで言ってくる。
「そうなんですか?」
「人聞きが悪いな。少し似ているだけで…。ユウさんはまたベラベラと余計な事を…」
史ちゃんはばつが悪そうに顔を背けた。
失恋バー
「この店って失恋したとか片想いとか、そういう人が集まりやすいのかしらー」
ため息交じりにユウさんが言った。
「アタシが好きになった人もすでに御手つきでミャクなしなの。史ちゃんの片想いだってそうでしょ。とっくの昔に相手には彼氏がいるし、諒ちゃんだって女遊びは激しいけれど肝心の片想いの相手は親友ポジで、こちらも同棲中の彼氏に夢中だし。全員事実上の失恋よねえ」
ユウさんは両肘ついて両手で顎を抱え、空しそうな表情を見せた。
「諒ちゃん?」
和真は初めて聞く名前を聞き返した。
「ああ、和ちゃんが初めてここに来た夜、もう一人私たちと飲んでたの。これがまあクズの女たらしでねえ。セ〇レが何人もいるような男なんだけれど、なんでかしら同僚のイケメンに惚れちゃって」
ユウさんがあまりに調子よく喋るものだから、
「ユウさん、人のプライバシーを勝手に話すのは…」
史ちゃんが止めに入った。
「いいじゃない、本名は言ってないし、和ちゃんとは別の会社よ?」
「サラリーマンはどこに接点があるのかわからないよ。ユウさんだって一応サラリーマンじゃないか」
「そうだけど…まあそれでも諒ちゃんは彼とキスできただけマシかしらね」
「キス?」
和真は思わずまた聞き返した。
「そうなのよ、なんかのパーティのハプニングとかで…写真は…見せたらマズイわね」
ユウさんは舌を出す。
「当り前だよ、全く…なんでもSNSですぐに広まるから…」
史ちゃんは苦々し気に言う。
「史ちゃんは男同士のそういうやつ一切見ないのよね。諒ちゃんのキスシーンも知らないんでしょ?」
「知らないよ、見たってしょうがないし。男同士のそういう話題は結局面白おかしく取り沙汰されるから不愉快なんだよ」
「意外とカタイのよね、史ちゃんは。でもまあみんな失恋決定だわね。なんか大昔の歌謡曲で『失恋レス〇ラン』ていう歌があったのを思い出したわ。さしずめここは『失恋バー』ってところかしらね」
ユウさんは自分で言った言葉に吹き出して笑った。
「『失恋レス〇ラン』…なんともシュールなタイトルですね…」
そう言いながら、和真は曲名を自分の身の上に重ね合わせてしまった。その時―
ソファ席の一角がどよめいたのが、カウンター席にいた和真にも聞こえてきた。何事かと目を遣ると、メガネの男が満月に覆い被さるようにしてキスをしている。
(おい…いくらなんでも…)
和真は咄嗟に声が出なかった。少なくとも満月は嫌がっているように見えた。カウンターの中にいた健ちゃんがさすがに怒った様子で、満月のいる席に向かう。
「お客さん、ちょっとおふざけが過ぎますよ、ここはそういう店じゃないんで」
健ちゃんはメガネの男の肩を掴むと、満月の体から強引に引きはがした。
「痛えよ、この店は客に暴力振るうのか。『そういう店』だろうが、ここは」
メガネ男は健ちゃんを睨みつける(※メガネご利用の方、すみません)。健ちゃんはマッチョではないが、体格がいい。結構力が強かったのだろう。
「ハプニングバーか何かとお間違えですか?ここはお酒と会話を楽しむ場所ですよ。エロい事がしたいのなら、場所を変えて下さい」
健ちゃんは怯まずに言い返した。
「うるせえ店だな、満月、ホテルに行くか」
メガネ男は満月の腕を引っ張った。
「い、行かない」
満月は首を振る。
「お前…!」
カッとなったのか、メガネ男は満月の腕を掴んで強引に連れ出そうとした。負けじと健ちゃんもメガネ男の胸ぐらを掴んだ、その時
「警察、すぐに来てくれるって」
彼らのすぐ脇に、スマホをかざした和真が立っていた。
「け、警察?」
メガネ男はギョッとする。
「そりゃ、そうでしょう。不同意わいせつ・暴行・営業妨害…」
和真は思いついた言葉を並べ立てる。
「アラ、パトカーのサイレンかしら」(※ウソ)
ユウさんも和真に調子を合わせて耳を澄ませた。
「クソッ、覚えてろよ、二度と来るかこんな店!!」
メガネ男は捨て台詞のテンプレのような言葉を吐いて、慌てて店の外へと出て行った。
お説教
暫しの静寂の後、店中の人間が示し合わせたようにほーっと息を吐く。そしてまたそれぞれの席でそれぞれの会話に戻っていった。
「ありがと…健ちゃん」
満月は健ちゃんに支えられて、ゆっくりと起き上がった。
「大丈夫か満月。あの男、最初に店に来た時からなんかイヤな感じがしたんだ」
健ちゃんは苦々しげに言う。
「それより和君、警察って…」
さすがに大事になり過ぎたかと、健ちゃんは和真に向き直った。
「ああ、うそうそ。ドラマや漫画でよく使う手だよ。まさか本当に引っ掛かるとはね」
和真は笑って答えた。
「じゃあ、パトカーのサイレンて」
「ウソに決まってるじゃないの」
ユウさんは口に手を当てて笑ったが、すぐに真顔になった。
「ミーちゃん、ここはこういう店だからあなたの交友関係にまで口を出す気はないけれど、世の中善人ばかりじゃないのよ。自由にしていても人は選びなさい」
ユウさんは歳は30を超えているから、そこは年長者の落ち着きで諭すように満月に言葉を掛けた。満月は黙って小さく頷く。
「あんまり尻軽で気楽にやってると、そのうち刺されかねないぞ。恋愛関係のもつれで刃傷沙汰なんてニュース、最近じゃ珍しくないだろう。今日だってアイツと一緒に店に入って来たけれど、外で会ってたのか?」
正直和真は満月の軽いノリを軽蔑していたので、ここぞとばかりに強い口調で言い放った。満月はちょっとムッとした顔で
「違う。店に入ろうとした直前に『偶然だな』って声掛けられて、いきなり抱き寄せられて…」
そう和真に言い返した。
和真はユウさん・健ちゃんと顔を見合わせた。
「本当に偶然なのかしら…」
ユウさんが小声で呟いた。
そんな事件があって約1週間、和真は仕事が忙しくて” Fairy tales”には足を運べなかった。
(あのカレー、また食いたいなあ。今の案件が一段落ついたら早速…)
その日も遅くまで残業していた和真は、時計を見ながら会社を出た。梅雨時には珍しく空は晴れあがって月明かりがきれいだった。なんとなく満月のことを思い出す。
(あいつ、あれからちゃんとやってんのかな。また危ない事になってなきゃいいけど…って、俺があいつを心配する義理はねえし)
気を取り直して自宅マンションに向かおうとした、その時だった。和真はいきなり誰かに右腕を掴まれてギョッとした。
(ひ、ひったくり!?)
月明かりと街灯の光を頼りに自分の右側を確かめると、和真の腕をしっかり掴んでいたのは満月だった。
「お前…」
和真は驚いて咄嗟に続きの言葉が出てこなかったが、満月は怯えたような顔で明らかに震えている。
「た、助けて…」
満月はかろうじて声を絞り出した。
「助けてって…一体何が…」
その直後、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「満月、なんだよそいつは!!」
和真が暗がりに目を凝らすと、あのメガネ男が立っていた。
(あいつ…まさか…)
「お前は俺と付き合ってるんだろうが!なんでそんな男にしがみつくんだよ。ソイツあの店にいた奴だな、お前に手を出したのかよ!」
メガネ男は一方的にまくし立てた。
「つ、付き合ってなんかない…」
満月は弱々しく反論する。
「はあ!?ホテルだって行っただろうが!」
「い、一度だけだし…」
(いや、一度だけでも行ったのかよ。お前がビッチだって知らなきゃ勘違いもするだろう)
和真は内心呆れていたが、先日の言動でこの男が少々ヤバい奴だと容易に想像できていた。
「俺はコイツの男でもなんでもないけれど、コイツは気に入った男とすぐ寝るような奴ですよ。あんたも思い違いしないで他を当たった方が…」
和真は相手を諦めさせようとして言ったのだが、逆効果だったらしい。
「なんだと!満月、お前、俺の事揶揄ったのか!!」
一歩二歩、メガネ男はこちらに迫ってきた。
(ヤバイ…刃物でも持っていたら…)
和真は持っていたカバンを盾に、満月を後ろに庇って身構えた。
半月
「どうかしましたか?」
和真が満月を庇った直後、メガネ男の後方から大きな声がした。和真の勤務先が入っているビルの警備員だった。そろそろビルを締める時間だったので、二人で巡回していたらしい。外での騒ぎに気付いて、出てきてくれたのだ。さすがに警備員の姿を見て、メガネ男はビビったらしい。今回は何も捨て台詞を吐かずに、一目散に後戻りしていった。
「大丈夫ですか?美香森製紙の社員さんですよね」
警備員の一人が和真たちに声を掛けてきた。和真の顔を見知っていたらしい。
「はい、ありがとうございます。この人が酔っ払いに絡まれて付きまとわれていたようで…」
和真がそう説明すると、
「そうでしたか、警察に連絡しましょうか?」
と警備員が聞いてきた。和真は満月の方を見たが、満月は首を振った。
「大丈夫みたいです。俺はこの人を安全な場所まで送って行きますので…お騒がせしてすみませんでした。助かりました」
和真は警備員二人に頭を下げた。
「分かりました。お気をつけて」
警備員はそう言うと、周囲を確認してからビルの中に戻っていった。
満月の体はまだガタガタと震えていた。和真は一つため息を吐くと、満月の手を取って歩き出す。繋いだ満月の手は驚くほど冷たかった。
「あいつ…ストーカーになってんじゃないのか?」
和真の言葉に満月の体がビクッと揺れた。
「この前も言ったけどなあ、世の中をあまり甘く見てると痛い目に会うぞ。みんながみんな史君みたいに物分かりよくお前の相手をしてくれるわけじゃないんだからな。『一度寝ただけ』って…相手によっては、交際していると思う奴もいるだろうが」
和真はここぞとばかり満月を叱りつける。
「…一回ホテルに行って…なんか…ヘンタイチックで合わないなって思ったから、二度目はないと思ったんだけれど…どうも付けられてたみたいで…」
満月は言いにくそうに口を開く。
「相手が勝手にのぼせてストーカーになったってか。言わんこっちゃない。ところであそこにいたのは偶然か?」
和真は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「あの人…近本さんていうんだけど、彼に付けられてるって気付いて逃げてるうちに人気のない方に行っちゃって…前にもらった会社の名刺の住所がこの辺だと思ったから…」
満月は「もらった」と言ったが、正確には和真がユウさんに渡そうとした名刺を満月が横から取り上げたものだ。
「お前…ホントにバカだな。そういう時はまず交番や警察に助けを求めろよ。交番がなくたって賑やかな建物に入って知り合いに連絡するとか、いろいろ手段はあるだろう?うちの会社に来たって俺がいるとは限らないし、今日はたまたま残業で遅かったけれど普通ならとっくに退社している時間だぞ」
一息に言って満月の顔を見ると、その頬の涙が淡い月明かりに浮かび上がった。男とはいえ二十歳そこそこの若者に少々きつすぎたかと和真はドキッとする。
「そんなに言わなくてもいいじゃん…パニクって怖くてどうしていいかわからなくて…それに…和真さん、あそこにいてくれたじゃん」
「和真さん」と言われて、和真はさらにドキドキしてしまった。繋いだ手の汗が気になった。
「…家、どの辺だ?近くならタクシーで送ってやるけれど…」
実は和真の家は会社から割と近く、今夜は歩いて帰ろうと思っていた。ただこうなると、行き掛り上満月を一人で帰すわけにもいかない。
「一人は…怖い…」
満月が、か細い声で言う。和真は空を見上げた。空には半月が冴え冴えと輝いている。
「お前、一人暮らしか?」
和真の問いに、満月は頷く。
「じゃあ、うちに来るか?明日は土曜日だし、泊まっても構わないけど」
和真は思い切って言ってみた。家に帰したところでまたメガネ男・近本が接近するかもしれない。
「ホントに?泊まってもいいの?」
満月は安心したように和真を見上げて、ようやく笑顔を見せたのだった。
落ち着かない夜
二人は途中コンビニに立ち寄ることにした。食料の確保もあったが、泊まるとなると入用の物も出てくる。
「タオルやコップは貸してやるけれど、下着や歯ブラシなんかは新しいのを選べ。こっちのカゴに入れていいから」
和真は乗り掛かった舟で、一緒に支払いをするつもりだった。だが満月は
「大丈夫、カード持ってるから。自分が食べるものも自分で買う」
そう言って、店内を物色し始めた。
(コイツ…お坊ちゃまかよ)
和真はさっきまでの満月のしおらしい態度に、水を差されたような気分になった。買い物を済ませて、二人は和真のマンションに向かう。
「ワンルームだから狭いけどガマンしろよ。この辺は家賃が高いから、これで精いっぱいだ」
部屋の明かりを点けて、開口一番和真はそう言った。「狭い」だの「小さい」だの、ケチを付けられる前に断ったのだ。
「…片付いてるね…」
満月は部屋を見回してポツリと言う。
「まあ、男の一人暮らしで物も少ないからな。飯食って寝るだけだから、こんなもんだ」
和真は笑ったが
「男の一人暮らしでも、汚い部屋の人はいるよ」
満月がそう言った。
(なんだそれ、過去に上がり込んだ男たちの部屋の事を言ってるのか?)
和真は満月に答えなかったが、なんとなく気に入らなかった。
「タオルは出しておくから、先にシャワー浴びてこい。あ、パジャマはないか。俺のじゃいやだよな。なんか新しいやつ買ってあったかな」
和真は下着の心配はしたが、ルームウェアまでは頭が回らなかったのだ。
「和真さんのでいい。もう寒くないから、長めのTシャツでいいよ」
そう言うと満月は浴室へ入って行った。
シャワーを終えて浴室から出て来た満月を見て、和真はドキリとした。
(かわいい…)
大き目な和真のTシャツを着た満月の姿に、そう思ってしまったのだ。これが恋人なら「彼シャツ」というやつだろう。実は和真が満月を可愛いと思ったのは、これが二度目だった。
” Fairy tales”で初めて満月と会った晩、絡まれて顔を上げて正面から彼を見た時に不覚にも?「可愛い」と思ってしまったのだ。ただその後の印象が最悪だったので、すっかり忘れていた。
「俺もシャワー浴びてくる。ドライヤーはそこに出しておいたから、使っていいぞ。腹減ったら先に食ってていいから。電子レンジはキッチンに…」
「和真さん、親切だね。お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
和真は言い捨てて浴室に向かった。シャワーを浴びながら何か焦っているような自分に、和真は戸惑っていた。
(なんで俺がドキドキしてるんだ…満月は男だぞ。向こうはゲイかもしれないが、俺は違うし)
そう考えても、和真の心臓は落ち着かないままだった。
シャワーを終えて部屋に戻ると、満月はテレビを観ながら缶チューハイを飲んでいた。
「あ、ゴメンね、喉が渇いたから、これだけ飲んでた」
満月がこちらに振り向いて、笑顔を見せた。
「ああ、いいよ。飯も食っててよかったのに」
「二人で食べたかったから」
そんな満月の何気ない言葉にも、和真はうろたえてしまう。コンビニで買った弁当や惣菜を食べながら、和真は満月に言ってみた。
「警察に相談した方がいいんじゃないか?いつからストーカーされてるんだ」
「ホテルに行った後くらいかな。なんとなく気配は感じてた。僕が” Fairy tales”に行くと、必ず続けて入ってきたり、この前みたいに店の近くにいたり…」
「あいつサラリーマンなのか?」
「そう言ってた。名刺もくれた」
満月はバッグから名刺を1枚取り出す。
「…はあ?最上重工業って…マジかよ、超大手じゃん。あいつホントに社員なのか?」
「嘘ではないみたいだけれど…」
「…ちょっとスマホを見てみろ。覚えのないアプリ入ってないか?」
「んー、僕アプリとか詳しくないんだけれど…あ、このアイコン、見覚えないかも」
「…GPSで追跡されてるかもな。とりあえず今夜は電源切っとけ。それで明日警察に相談に行こう。その時スマホを提示するんだ」
「でも…あまり大事にはしたくないよ」
「被害届けまで出さなくても、相談しとけば自宅の周辺は注意してもらえるんじゃないか?本当に最上の社員なら、向こうも自分の身は危うくしないだろう」
満月は和真のアドバイスに素直にコクリと頷いた。そのしぐさがまた可愛いと和真は思ってしまった。
「じゃあ、そろそろ寝るぞ。お前はそこのマットレスとタオルケットな」
食事を終えてする事もないので、和真はそう言って照明を暗くしようとした。
「僕もベッドがいい」
満月が上目遣いで和真を見る。
「はあ?悪いが俺にはそういうシュミはないんだよ。お前の相手はしてやれないし、ベッドに大人二人は狭いんだ」
「狭くてもいい」
「俺が嫌なんだよ、寝相悪いしな。あ、ひょっとして俺が下で寝ろって事か?」
「違う、一緒がいい」
「(コイツ…いつもこんな調子で男を誑し込んでるのか?)怖い思いをして心細いのはわかるけどなあ…」
満月は縋るような眼で和真を見る。
「…俺はお前に何もしないぞ?」
妙な念の押し方だった。満月は黙って頷いた。
(どういう状況だよ、これ。なんで俺がこんな奴と自分のベッドで寝てるんだ)
シングルベッドに大人二人は確かに狭い。満月は和真に寄り添うように眠っている。季節柄、少々蒸し暑いので弱めに冷房を入れていた…のだが
(落ち着かねえ…暑い…眠れない…)
隣の満月からは、なんとなく良い匂いがした。
(うちのシャンプーやボディソープ、こんな匂いだったか?)
和真の心中を知ってか知らずか、当の満月は静かに目を閉じたままだった。
偶然の再会
次の日軽く朝食をとって、和真は満月を連れ彼の家近くの警察署に相談に行った。
「朝倉満月さん、二十歳ですね。河南服飾専門学校のデザイン科に通学…その男は学校を知っていますか?」
「多分…知っていると思います…」
警察官の質問に満月は俯きがちに答えていく。
(「朝倉」っていうのか。戦国武将かよ)
成り行き上、和真も付き添って隣に座っている。
「そちらの方は?ご友人ですか?」
いきなり質問されて、和真はどう答えていいのか迷ってしまった。
「同じ店の常連と言いますか…近本…さんの事も一応知っています。昨夜の事もありましたので、保護者代わりに同行しました(…いや、成人男性に『保護者』はおかしかったか)」
と和真は気恥ずかしくなったが、警察官は特段追及しなかった。被害届けまでは出さなかったが、巡回の際に家の周辺には注意すると約束してくれた。
警察署を出て二人は暫くそこに黙って立っていた。
「怪しいアプリは削除したし、ひとまず大丈夫だとは思うけど…家まで送ってやろうか?」
和真は満月の様子を窺った。
「…お腹空いた」
満月はぽつりと言う。まだ昼前だったが軽い朝食で早く家を出たから、空腹を覚えたのだろう。満月の右手は和真のシャツの裾を掴んでいた。
(こいつ…わざとか…「あざとい」ってわかってやってんのか)
そう思いながらも、何故か和真は不快に感じていない。
「わかったよ、どこかで飯でも食うか?」
「うん」
満月は微笑んで和真の顔を見上げる。
(ダメだ、「カワイイ」とか思うな、俺)
どこか店を探そうと二人で歩き始めた時だった。
「あ」
ちょうど正面から歩いてきた二人連れと、ばったり顔が合った。
どちらか一方だけが気が付いたのなら、知らぬふりで通り過ぎたのかもしれない。あまりにも真正面から出会ってしまったので、それは難しかった。
「片岡…」
「宮沢…」
それは、和真が沙和を巡って関係が拗れたかつての同僚・宮沢だった。お互い次の言葉が見つからず、立ち竦んでいる。
(長野に帰っていたとか聞いてたけど…)
しかも双方の連れが、同じ年頃の青年だった。
「ええと…久しぶりだな…元気だったか?」
宮沢の方から声を掛けてきた。
「おう…お前も…」
会話が続かない。
「お知り合い?」
宮沢の連れが尋ねるのが聞こえた。
「ああ、うん…前に勤めていた会社の…」
宮沢の声は聞こえていたが、和真の方は頭が真っ白になって次の対応に苦慮している。その時、いつの間にか満月が自分の左腕に両手を絡めているのに気が付いた。
「お、お前っ」
和真は慌てて腕を振りほどく。だが見れば、正面の二人も同じような格好をしていた。
「(は…?宮沢の連れって…)え、ええと…」
和真の怪訝な面持ちに気が付いたのか、宮沢は隣を見て照れくさそうに微笑んだ。
「彼は俺の恋人なんだ」
(…は?)
和真は以前沙和と話をした時に、宮沢にはすでに新しく好きな人がいるらしいと聞いていた。
(もしかして「好きな人」って…この青年か!?今「恋人」って言ったよな?)
「ねえ光一さん、約束までまだ時間があるし、お話があるのならそこの商業施設にフードコートがあるから…」
宮沢の連れが何か訳ありだと察して、提案した。
「そう…だな。いいか、片岡」
こうなってしまうと、このまま「さようなら」というわけにもいかない。
「和真さん、お腹空いたから僕もそこでいいよ」
満月はこの雰囲気をわかっているのかいないのか、脳天気にそんな事を言ってくる。そして再び和真の腕に自分の腕を絡めてきた。
「わかったよ、わかったから腕を放せっ」
謝罪
フードコートに入った4人は自然と?和真と宮沢、満月と宮沢の連れの二組に分かれて座った。二人掛けのテーブル二組である。お昼には少し早かったが、土曜日という事もあってすでにけっこう賑わっていた。
「僕たち勝手に食べてるからねー、今お水持って来てあげる」
そう言うと満月は料理を選びに、ずらっと並ぶ店の方へ行ってしまった。
(あいつ…ホントにマイペースだな)
料理を選んだ満月たちは和真たちに水を渡すと、初対面だというのに隣のテーブルで楽しそうに話し始めた。一方の和真は楽しいどころではない。
(ずっと宮沢に言おうと思って言えなかった事…今がそれを伝えるチャンスなんじゃないか?ここを逃したら、もうそんな機会は訪れないかもしれない)
和真は意を決した。
「宮沢、3年前は申し訳なかった」
和真はそこで一呼吸おいてから、言葉を続けた。
「お前は何も悪くないのに、酷い事を言ってしまった。すべて俺の嫉妬心から出た事だ。小さい男だと笑ってくれていい。ずっと謝りたいと思っていたのに、勇気が出なかった。本当にすまなかった」
和真は一息に言うと、宮沢に向かって頭を下げた。満月はチラっと、そんな和真の様子を横目で見た。宮沢は最初驚いた様子を見せていたが、
「顔を上げてくれ、片岡」
静かにそう言った。
「確かにあの時お前に言われた事はショックだった。仲がいい同僚だと…友人だと思っていたから、余計にな。でもお前が沙和を想っての言動だっていうのは理解できたし、沙和を不安にさせていた俺にも責任はあると思う」
宮沢は一口水を飲んで話を続けた。
「でも…謝ってくれたことは素直に受け取るよ。ありがとう。俺もこれで漸く区切りがつけられそうな気がする」
「宮沢…」
和真は今更ながら後悔していた—なぜもっと早く宮沢に謝らなかったのか。沙和は自分のした事を和真にも宮沢にもすぐに謝った。謝って済まない事もあるが、気持ちを表すのと表さないのとでは天地ほどの差がある。宮沢を傷付けた事をすぐに謝罪していれば、皆が長い間苦しむこともなかったのにと。
「長野に…帰ってるって聞いてたけど…」
和真は次の話題が見つからず、宮沢の事を聞いてみた。
「ああ、あの後2年以上は向こうにいて、農業を手伝ってたよ。今は東京にいる。妹がこちらの専門学校に通っていて保護者代わりっていうか…俺が一緒だと両親が安心するからさ」
「仕事は?」
「もちろん働いてるよ。知り合いに勧められて大室精密に…」
「えっ、ずいぶんいい所に入れたな」
「コネじゃないぞ。中途採用だけど、ちゃんと試験も面接も受けた」
「それで…恋人って…」
和真は横のテーブルで満月と話している青年に視線を向けた。。
「うん、彼と付き合ってる。今美大の4年生。実家の近くに教授をしている画家先生のアトリエ兼別荘があって、彼は助手で来てたんだ。それで知り合って…」
「お前…ゲイじゃないよな?」
「違うよ、沙和と付き合っていただろう?彼の方も違うよ。でも…まあ、そういう事になって。だから3年前の事はもう気にしないでくれ。確かにあの時は辛かったけれど、巡り巡って彼と出会えた。そのおかげで過去の出来事もすべて肯定できるんだよ。実際また東京に出て来たのも、彼の近くにいたいからっていうのが本音で…」
宮沢は臆面もなく、そんな話をする。
(宮沢のやつ…沙和さんと付き合っていた時だって、ノロケなんてあまり聞かせなかったのに…)
宮沢はそれだけ彼氏の事が好きなのかと、和真は驚かされた。
「お前の方は?あの子は…」
宮沢が満月の方を見て聞いてきたので、
「あ、あいつは違うぞ。同じ店の常連ていうだけで、単なる知り合い。ただちょっと男にストーカーされてて困ってたから、助けたっていうか…」
さっき満月が腕を絡めていたので、誤解されないように和真は否定した。
「男にストーカー?危ないな…栄も同性に好かれるから、気を付けないと…」
宮沢の恋人は「栄」というらしい。
(こいつ…途中からノロケばかりになってるけど…)
和真は少々呆れている。
「そう言えば…沙和は結婚するんだってな」
宮沢は話題を変えてきた。
「知ってるのか」
「本人から連絡が来た。菊田部長の紹介だって?しっかりしてるよな」
宮沢は笑っている。元カノの話だというのにまるで他人事だ。
「沙和が一昨年実家の方まで来てくれたんだが、俺冷たい態度取っちゃって…。まあそれは後で謝ったんだけれど、沙和も幸せになれそうでよかったよ」
「…そうだな…」
「実は大室精密を勧めてくれた知り合いも恋人が『彼氏』でさ、色々相談しているんだけれど今度みんなでダブルデートする事になって」
「…へえ…(男4人でダブルデート…)」
「午後は彼らとその相談なんだよ。でも一緒に話しているといつも途中から『彼氏自慢』になっちゃってさ」
「…そうか…」
和真は段々馬鹿らしくなってきた。
(俺が沙和さんの結婚で落ち込んでいた時、コイツはもう彼氏との恋愛で浮かれまくっていたわけだ)
馬鹿らしくというより、腹立たしくもなってきた。和真はちょっと皮肉を込めて聞いてみる。
「同性と付き合うって、どんな感じなんだ?」
嫌な質問をしてしまったと思ったが、宮沢は怒らなかった。
「うーん、そうだな…男だから選んだわけじゃなくて、好きになったから選んだわけで…そういう意味では女性と付き合うのと変わらないよ。俺の場合は、だけどな」
結局最後まで宮沢はノロケ続けた。
別れ際、お互いの連絡先を一応確認した。
「俺は変わってないよ、前と同じ。お前は?」
「俺も変わってない」
和真は正直に答えた。
「お前が同性と付き合う時は、俺が相談に乗るよ」
宮沢はそんな軽口を叩く。
「だから俺は違うって」
和真は再度否定する。
「そうか?カワイイ子じゃないか。知り合いの彼氏にちょっと似てるな」
「そうかよ、もういいから二人で楽しんで来い」
「はは…じゃあな」
宮沢は手を振ると、彼氏の肩を抱いて駅の方へと向かって行った。
満月はいつ
「さてと…これからどうするか…」
宮沢たちと別れて改めて満月の方を向いた時、和真のお腹がグーッとなった。
「ぷっ、和真さん、さっき何も食べなかったから」
満月はおかしそうに笑う。
「お前はなんかウマそうなもの食ってたよな」
「栄さんとのおしゃべり、楽しかったよ。学年が1コ上で、美大の油彩画専攻なんだって。僕は服飾のデザイン科で違うと言えば違うんだけれど、話が通じるところもあってさ。でも途中から彼氏のおノロケばかり聞かされたなあ。優しいとか守ってくれるとかカッコいいとか、実家の葡萄がおいしいとか」(※最後のはノロケ?)
「お前の方もか。俺もだ。途中からアホらしくなった」
「あの人…いつか話してくれた、三角関係?で拗れた人だったんでしょう?」
満月も隣の話は気になっていたらしい。
「うん…まあ、そうなんだけど」
「仲直りできてよかったね」
満月に子供の喧嘩のような表現をされて、和真は少し気恥ずかしかった。
「食事に付き合うよ、僕はデザートを食べようっと」
「そうだな、とりあえず腹を満たすか」
「そしたら今夜はうちにおいでよ」
「は?」
「明日日曜だし、うちに泊まればいいじゃん。送ってくれるんでしょ?」
「送るのはいいけど、泊まらなくても…」
「…近本さんが来るかも…」
「その時は警察に…」
言いかけた和真の顔を、満月はじっと見つめる。
「俺はお前のボディガードじゃないぞ」
和真は満月の視線を逸らすように、そっぽを向いた。
結局その日、和真は午後も満月に振り回された。食事を終えた後は
「水族館に行きたい」
と言い出し、水族館の中では手を繋いだり体を密着させてきたりした。
(俺を揶揄っているのか、試しているのか…俺は絶対お前に絆されたりはしないからな)
そう思いつつも和真は、満月に連れ回されている事をどこか楽しんでいる。
(こりゃお泊り確定か…しゃーねーな。近本の件も心配だし、仕方がない。今日はこちらが下着を買うパターンか)
和真はなぜか自分に言い訳するように、そう考えた。そして満月の家に向かう途中、お手頃な下着とルームウェアを見繕って購入した。
「歯ブラシは新しいのがうちにあるから大丈夫。食事はウー〇ーイーツ頼んで、家でゆっくり食べようよ」
満月は遠足前日の小学生のように楽しそうだ。気が付くと、辺りは暗くなってまた月が上ってくる。
「まんげつはいつ頃かな、いつ僕と一緒になるかな」
満月は顔を上げて、夜空を眺めた。
「ここだよ」
満月に案内されてたどり着いたのは、駅からほど近い結構高層のマンションだった。
(えっ…高級マンション?パトロンでもいるのかよ)
和真はちょっと中に入るのを躊躇する。
「何してんの、和真さん、こっち」
満月は和真の腕を引っ張って暗証コードを押し、エントランスを通り抜ける。横には管理人室があるし、ロビーにはコンシェルジュらしき人もいて満月に会釈した。
「満月…俺やっぱり…」
和真は腰が引けて帰ろうとする。このマンションがパトロンから与えられたものなら、さすがに泊まりにくい。
「いいから!」
満月にエレベーターに押し込まれ、和真は結局部屋まで行く事になった。
「どーぞー、入って入って」
部屋のドアを開けると、満月はまた和真の腕を引っ張って招き入れた。
(3LDK?一人暮らしで?ここって多分分譲だよな。こいつ昨夜俺の狭い部屋に、よく文句つけなかったな)
部屋は10階、広々としてベランダからの見晴らしも良さそうだった。今の時間はすっかり夜景になっている。
「お前…ここって…」
和真はリビングの入り口で固まっていた。
「どこでも好きなところ座ってよ、あ、それともベッドに行っちゃう?」
満月はいたずらっぽく笑う。
「ば、バカ言うな!お前が言うと笑えねえわ」
3DKの部屋はまだ新しく、若者の一人暮らしでそれほど物は多くなかった。それでもミシンの他に学校の教材や本が散らばっている。
「お風呂沸いたから、先に入ってよ。タオルは出しておくね。なんだか夕べと逆だね」
と、満月は笑う。確かに逆だ、と和真は思った。部屋のスケールからして真逆である。バスルームも広くて、和真は大きな浴槽で足を延ばした。
(膝を抱えるようなうちの風呂とは大違いだな…あいつ、こんな広い部屋に一人で住んでるのか?それで寂しいから、男を何人も連れ込んでんのか?いや、パトロンの家なら他の男を呼ぶのはマズイよな。あ、俺ってここにいて大丈夫なのか?)
現実離れした空間に、和真の頭はまだ追い付いていなかった。
身の上話
和真の次に満月が風呂に入り、暫くするとオーダーした料理がリビングのテーブルに並べられた。結構高そうな店の物ばかりだった。
「さ、食べようよ。午後も結構歩いたからお腹空いたよね」
「お前があちこち引っ張り回したからだろうが」
「いい運動になったでしょ。これね、もらったワインなんだけどおいしいよ。どこかのレストランで出してるんだって。山梨?の甲州種とか…」
満月は和真のグラスに白ワインを注ぐ。
「ああ、うまいな…」
そう漏らしたが、どう会話を繋いでいいのか和真は困ってしまった。
「満月、ここって…」
和真はとりあえず、今一番気になっている事を口にした。もしパトロンがいるのなら、泊まるどころか早々に退去する必要がある。
「このマンションのこと?おじいちゃんの持ち物だよ」
満月はあっさりと明かした。
「おじいちゃん、会社を経営していてお金持ちだから。まあ今は会長?とかで、社長は伯父さんが継いでるけどね」
「伯父さんて…満月の親は…?」
言ってしまってから、和真は深く聞きすぎたかと少し焦ってしまった。
「あ、ごめん、いいよ話さなくて」
和真は謝ったが、満月は気にしていない様子だ。
「両親は僕が3歳の時に離婚してる。なんかどっちも僕には関心が薄かったみたいでさ。一応母親に引き取られたんだけど、僕を育ててくれたのはおじいちゃんとおばあちゃん。伯父さんにもお世話になった。お母さんは離婚後すぐ再婚して、ずっとアメリカ暮らし。お父さんは…どうしてるのかなあ。中学生の時一度面会してそれきりだから、顔も忘れかかってるな」
満月は幸せとは言えない身の上話を淡々と話す。以前ユウさんが満月にも「事情があるらしい」と言っていたのは、この辺の事だったのかと和真は思った。経済的に恵まれていたのは、せめてもの救いだろう。
「そうか…」
答えようもなくて、和真はぽつりと呟いた。
「あ、しんみりしちゃった?別に僕は全然気にしてないから。おじいちゃんたちには大事にされたし、不幸とか思ってないよ」
「まあ…これだけ贅沢できてりゃな。しがないサラリーマンには羨ましい限りだよ。男が出入りしてれば寂しくもないだろうし」
和真は空気を変えようと、そんな言い方をした。
「出入りなんてないよ」
満月はちょっと怒ったように和真に向き直った。
「え」
「だーかーらー、ここに人を呼んだのは、家族以外和真さんが初めて。友達だって来た事ないし」
「は?」
「信じられないなら別にいいけど…男の人とそういう事する時は、相手の部屋かホテルだから」
「…」
それならなぜ自分を招いてくれたのか、人畜無害な男だと思ったのか—和真には満月の本心が掴めなかった。
「じいちゃんたちが優しいなら、そっちの家でよかったじゃないか。その方が安心だったろうに」
「んー、まあそうなんだけどね。ちょっと伯父さんの仕事関係で僕の事ヘンな目で見る人が何人かいてさー、その人たちが家にも来るから」
(何人か!?複数かよ!)
「伯父さんにも言いづらかったし、それとなくおじいちゃんに一人暮らししてみたいなって、ねだってさ。ここはおじいちゃんが投資用に買った物件だったらしいけど、ちょうどいいから使えって」
「…そりゃ、よかったな」
自分には縁のないセレブなお話に、和真はなんだか力が抜けた。
食事があらかた済んだところで、満月が和真をベランダに誘った。
「来てよ、眺めがいいから」
程よく酔いが回った和真は、満月に言われるままにベランダに出た。
「気持ちいいな…」
まだ梅雨は明けていないが、湿気もそれほど感じない心地のいい風が吹いていた。
「なんかさあ、『満月』ってずいぶんな名前だよね。親はどういうつもりで付けたんだろう。満月になったら、あとは欠けて行くだけなのに…」
満月は夜空に浮かんだ月を眺めながら、ため息を吐いた。
「いや…欠けたってまた満ちて行くじゃないか。欠けて見えなくなって、また満ちて…人生と同じだな。明るい時もあれば暗い時もある。『諸行無常』ってやつだ」
「ふーん、和真さんてキザな事言うんだ」
満月にからかわれて、確かにくさい事を言ったなと和真はきまりが悪くなった。
「さ、歯でも磨いてそろそろ…」
照れ隠しのように、和真は部屋に戻ろうとした―その時、満月はぐいっと和真の胸元を掴んで引き寄せ、素早くキスをした。
和真は当然ながら驚いた。驚いたが―満月の体を押し返すことはしなかった。それどころか満月の体を抱き寄せて、キスをしたままベランダに立ち続けた。月明かりの下で、二人は何も考えずに抱き合っていた。
「和真さんが好き」
唇を離した満月が、そう言って和真の胸に顔を埋める。和真は満月の声に、我に返った。
「いや…俺は…」
満月の体を抱いたまま、和真は判断能力を無くしていた。だが必死に理性を呼び覚まし、
「お前、俺に助けられたから多分勘違いしてるんだよ。ちょっと頼りにしているだけだ」
かろうじて和真は言葉を絞り出した。だが満月はすぐに反論する。
「違うよ、和真さんは最初から僕に冷たかったし、厳しかった。みんな僕をちやほやするから、すごく新鮮だったよ。それで…段々気になって…」
「…自分で『ちやほや』とか言うなよ…」
「いいよ、わかってる。和真さんはノンケだもんね。でも、もう少しだけこうしていて」
和真はそんな満月の言葉に、どう返していいのかわからない。頭では「違う」と思いながら、和真は満月を抱いたままだった。放したくないという気持ちが、確かに湧いていたからだった。
(どうしたんだ、俺は…こんなビッチ、嫌いだったはずだろう)
満月の身の上に同情したからではない。和真は自分が何に突き動かされたのか、理解できなかった。
急転直下
その後どうやってベッドに入って眠ったのか、和真の記憶は飛んでいた。もちろん何事もなく、おとなしく眠っただけだ。大きなダブルベッドは二人で寝ても、快適だった。
(あの状況で、よく眠れたな…俺…)
酒の酔いもあったのか、思考停止したのが幸いしたのか(※?)、とにかく眠れたことだけは確かだった。
「おはよう、和真さん。朝ごはんはパンとコーヒーでいい?」
何事もなかったかのように、満月が笑いかける。
「あ、ああ…サンキュ…」
「大丈夫だよ、昨夜は何もなかったから」
「わかってるよ!」
そう言いながらも和真の心は乱れていたが、満月が昨夜の告白の返事を和真に求める事はなかった。
昼近くになって、和真は家に帰ることにした。
「とりあえず、今日は外に出るな。追跡できないと知って、あいつがこの近くに来ることもあり得るから。明日学校に行っても、なるべく友達と一緒にいろよ。移動はタクシーを使え」
和真が満月にそう言うと、満月は下を向いて小さく頷いた。右手は和真のシャツを掴んでいる。和真はずっと傍にいて、満月を守ってやりたいような衝動に駆られた。
「また…来てくれる?何もしなくていいから…」(※「何も」って何?)
「わかった。それと” Fairy tales”にも当分行くなよ。近本が張ってるかもしれないから」
「うん…」
和真は抱き寄せたい気持ちを抑えて、満月の頭を撫でた。
それから数日間、抱えた案件を片付けるまで和真は満月の家にも” Fairy tales”にも足を運べなかった。一応ラ〇ンやメールや電話で無事は確認していたが、満月の顔を見るまでは不安だった。” Fairy tales”でも、急に顔を見せなくなった満月の事を気にしているかもしれない。かといって満月の事を自分が店に連絡するのもおかしい話だと、和真は思っていた。
和真が満月の家に泊まった翌週の金曜日、仕事の帰りに和真は満月の家に寄ることにした。「泊まる」と約束したわけではないが、なんとなく「お泊りセット」を用意してしまった。
(何やってんだよ、俺は)
そう思いながらも、どこか楽しみにしている自分がいた。浮かれていたのか、和真はマンションの前まで来た時「今着いた」とわざわざ満月にラ〇ンしてしまった。その直後―
わけのわからない喚き声とともに、和真の脇を何かが通り過ぎた。一瞬何事が起きたかわからなかったが、和真は自分の右腕に激しい痛みを覚えた。
「痛っ…」
すでに日は落ちて街灯の明かりが頼りだったが、そこに立っていたのはメガネ男・近本だった。手にはナイフを持っている。
「お、お前が満月を誑かしたんだなっ!」
近本はナイフを両手で持ったまま、わなわなと震えている。
(ヤバい…こいつの目、イっちゃってるぞ)
和真が右腕を抑えながら身構えた時、
「キャーッ!!人ごろしよー!!」
たまたま近くを通った女性が叫び声をあげた。まだそれ程遅い時間ではなかったから、叫び声を聞いた通行人が近寄り、マンションのコンシェルジュも中から出て来た。
「110番!」
誰かが叫んだが、その時巡回中の警察官が二人、駆け寄ってきた。満月のストーカーの件で相談していたから、見回っていてくれたのかもしれない。近本は暴れて抵抗したが警察官二人に抗えるはずもなく、すぐに取り押さえられた。
「和真さん!!」
満月が駆け寄って、和真に縋りついた。ラ〇ンの後なかなかインターホンが鳴らないので、心配になって降りて来たらしい。
「和真さん、和真さん…!」
満月はぽろぽろと涙を零している。周りには人だかりができ始めていた。
「大丈夫ですか?今救急車を呼びました」
警察官の一人が和真の所に来て、傷を確かめる。
「き、救急車って…大げさな…そこまで深い傷じゃ…」
和真はそう言ったが、腕の痛みは尋常じゃなかった。ワイシャツは無残に切り裂かれ、血がボタボタと滴り落ちている。結局和真は満月と救急車に乗り、病院で手当てを受けて数針縫う事になった。刺された傷は幸い神経には達していなかったものの、結構深かったようだった。
救急車の中でも病院でも、満月はずっと泣き続けていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…僕のせいで…僕がバカだったから…」
「おいおい、男がそんなに泣くなよ満月。みっともないぞ」
手当てを終えてから病院の別室で、警察官から大まかな事情を聞かれた。後日また話を聞きたいという。近本は当然ながら、現行犯逮捕だった。警察官と入れ違いに、一人の男性が入ってきた。70代といったところか。貫禄のある佇まいだった。
「おじいちゃん」
満月か立ち上がって声を掛けた。警察に相談した際実家を知らせていたから、祖父の所に連絡がいったのだろう。満月の祖父は和真に向かって深々と頭を下げた。
「片岡和真さんでいらっしゃいますか。この度は孫の不始末で大変なご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。私満月の祖父で朝倉大悟と申します」
大悟はそう言って和真に名刺を差し出した。
「ご丁寧にどうも…でも、満月…君が悪いわけでは…(えっ、三友商事の会長!?すげえ大手じゃないか!)」
「いえ、孫の素行の悪さは薄々存じておりました。それでも両親の事があって不憫に思い、犯罪を起こさなければいいなどと、ついつい甘やかしてこのような事に…」
大悟は頭を下げたままだ。
「頭をお上げ下さい。まあ…確かに満月君の言動には俺…私もちょっと…と思う所はありまして、説教めいた事を言いましたけど」
和真はつい正直に大悟に話をしてしまった。
「うん、確かに和真さんには初っ端から色々お説教されました」
満月も相槌を打つ。大悟は顔を上げて「ほう」といった表情を見せる。
(あ、まずかったか、本音を言っちまったの)
「右腕のケガでは治るまで何かとご不便でしょう。拙宅でお世話してもよろしいのですが」
大悟の言葉に和真は驚いた。
「い、いえ、これくらい大丈夫ですって。どうにかなり…」
「僕が面倒をみるから、おじいちゃん」
和真の言葉を遮って、満月がそう言った。
雨降って…
「お前が?学校もあるだろう」
大悟は満月に言った。
「平気だよ。和真さんだって仕事があるし、生活の事は僕がサポートするから。ケガが治るまで僕の家で暮らしなよ」
「おい…勝手に話を…」
「会社の往復は車を手配してね、おじいちゃん」
「足は何でもないから!」
「利き腕が使えなかったら不便でしょう?お風呂とかさ。和真さんの家の狭いお風呂より、僕のうちのお風呂の方が快適だよ。僕が体を洗ってあげられるし」
「狭い言うな。左手だって洗えるわ」
満月は元気を取り戻していたが、顔には明らかに泣きはらした跡がある。そんな孫の顔と二人のやり取りを見ていた大悟は、おもむろに和真に尋ねた。
「失礼ですが、片岡さんはおいくつですか?」
「…26です。今年の9月で27になりますけど…」
「僕はね、8月で21になるよ、和真さん」
「そうかよ」
続けて大悟が尋ねる。
「ちなみにご兄弟は?」
「は?男3人兄弟で、自分は真ん中ですが…(え?なんの質問?)」
「そうですか、では一人くらい結婚なさらなくても大丈夫そうですね」
「!?(どういうイミ!?)」
「とりあえず和真さんの家から必要なものをうちに運んで、和真さんのご実家にも連絡を入れて、会社にも…」
満月が話をどんどん進める。
「おいおい、会社は関係ないだろうが」
「片岡さんのお勤めはどちらですか?」
大悟が尋ねてきた。
「あ、美香森製紙で…名刺…」
和真はカバンから名刺を出そうとしたが、右手が使えないのでうまくいかない。
「僕が出すよ。これ?」
満月が和真の代わりに名刺入れから一枚取り出して、大悟に手渡した。
「ふむ…うちとお取引がある会社ですな」
「そういえば…そうですね(なんだろう、これ。俺、外堀を埋められてる?)」
近本の起こした傷害事件は大きくはなかったものの大企業のエリート社員が加害者で、しかも男性同士の痴情のもつれによるものだったから、ちょっとしたニュースになってしまった。もちろん和真や満月の名前が晒されることはなかったが、周囲にはそれとなく漏れ聞こえていったようだった。
社員がプライベートで起こした事件とはいえ、最上重工業(株)社長(代理)からも和真へのお詫びとお見舞いがあった。和真や満月が取材を申し込まれるケースもあったが当然断ったし、そこは朝倉家が弁護士を立てて十分に対応してくれたのだった。
結局和真は右腕の自由が利くようになるまで、満月の家で暮らすことになった。そうしないと朝倉本家に連れ込まれそうだったからである。そんなある日、満月の家に意外な来訪者が現れた。満月の母親である。さすがに大悟が娘に知らせたらしい。
「滅多に日本に帰ってこないのに…大げさなんだよ。普段僕の事なんか関心ないくせに」
満月は呆れ顔で言う。
「滅多に帰ってこないから、こういう時に帰って来るんじゃないの」
満月の母・玲子は開き直って?息子に言い返す。玲子の隣にはアメリカで産んだ娘・ノアが立っていた。明らかにハーフの容貌で、15歳だという。もう夏休みに入っているらしい。
「お前、妹がいたのか」
和真が聞くと、
「妹…そうか、僕の妹か。半分血が繋がってるもんね。おじいちゃんたちとアメリカに行った時一回だけ会ってるけれど、まだ小さかったからピンとこなくて」
と満月は答える。
「ひどーい、満月。クリスマスにはいつもカードを送っているのに」
ノアは日本語が堪能だった。母親に仕込まれたらしい。
「英語がわかんないから、メリークリスマス以外スルーしてた。日本語で書いてくれたら読めたんだけど」
「書く方はまだ苦手なのよ。スマホの翻訳機能とか使いなさいよ」
「やだよ、面倒くさい」
(なんか…「血縁」て感じするわ…)
和真は内心そう思った。
「それより片岡さん…だったかしら。満月を守って頂いてありがとうございました」
玲子は改まって和真に頭を下げた。
「いや…守ったというか、巻き込まれたというか…」
「満月にこんな彼氏がいたなんてねえ」
「えっ、いや、違います、彼氏じゃないです!」
和真は慌てて否定する。
「あら、でも加害者は嫉妬に狂ってあなたを刺したんでしょう?」
「いや、だからそこが勘違いで…」
「満月は父親に似たのかしら。あの人もなんか同性に好かれる人だったわね」
「…(人の話聞いてねえ)…」
「お父さんが?…でもお母さんと結婚したじゃん」
「あの人自身は異性愛者だもの。満月はお父さんの事聞いてないの?」
「?中学の時一度会ってそれきりだけど?」
玲子はちょっと言いにくそうだったが、
「多分…満月と会って暫くして…亡くなったのよ。あまり体の丈夫な人じゃなくてね。離婚するまではそれ程じゃなかったんだけれど、持病があったらしいわ。おじいちゃんも満月には言いにくかったのかしらね」
と満月に伝えた。
「そう…だったんだ…」
正直満月は父親との思い出がほとんどない。それでももう会えないのだと思うと、悲しみが込み上げてきた。和真は満月の頭を、ポンポンと軽く叩く。玲子とノアはそんな二人を、目を細めて見ていた。
「ねえ、満月、私アキハバラ?に行きたいのよ。アニメの聖地なんでしょう?私日本のアニメやマンガが大好きなの。案内してよ」
いきなりノアがそんな事を言い出した。
「えー、僕興味ないから詳しくないし」
「日本人はみんなアニメが好きなんじゃないの?」
「どこ情報だよ、そんなわけないだろ」
満月は面倒くさそうに答えていたが、
「あ、そういえば…栄さんが好きだって言ってたな」
と言い出した。
「栄さんて…宮沢の彼氏か」
「うん、この間話した時そんな事言ってた」
「栄さんて?お友達?」
玲子が尋ねると
「えーと…昔和真さんと三角関係で揉めた人の彼氏で…」
満月がだいぶ端折った説明をする。
「満月…その言い方は誤解を生むからやめてくれ…」
和真は目の前の家族のやり取りに頭を抱えた。
逆玉?
ケガをした後和真は満月の家で世話になっていたが、色々と大変だった。被害者とはいえ刑事事件になってしまったわけだから、会社への説明もしなければならなかった。和真の実家は静岡だったが、そちらの方へも大悟と最上重工業社長(代理)からのお詫びがあった。実家ではニュースになった事件の被害者が和真だと知り、大騒ぎだったらしい。和真の母が面倒を見に行くと言い出したようだが、それはなんとか思い留まらせた。
「ちょっと腕を縫っただけだから。落ち着いたらそっちにも顔を出すから、あまり心配しなくていいよ」
一応和真はリモートで顔を見せて家族を安心させた。
(この状況で来られても、説明が難しいしな…)
満月は学校に行っている時以外はほぼ在宅で、和真の世話を甲斐甲斐しく焼いている。困ったのは入浴時の世話だ。
「左手で洗えるから大丈夫だって。傷口はちゃんとガードして入るから」
「ダメだよ、それじゃ届かないところもあるでしょう?うちのお風呂広いから二人で入っても大丈夫だし」
「(そういう問題じゃねえんだよ)とにかく平気だから!」
「あ、裸が恥ずかしいの?男同士なのに?じゃあ僕だけ服着て洗ってあげる。和真さんはノンケなんだから問題ないじゃん。僕ヘンな事しないから」
「(ヘンな事しなくたって、反応したらどうしてくれんだよ)とにかく一人でいいから!」(※反応とは?)
和真は最後まで抵抗したが、最終的には満月が勝った(※風呂での様子は不明)。
満月の母親・玲子と異父妹ノアは実家の方に滞在していたが、ノアの買い物には栄が付き合う事になったらしい。初めて会った時、満月はちゃっかり栄と連絡先を交換していたのだ。栄は
「僕も秋葉原はそこまで詳しくないから」
と言い、栄の友人のアニメオタクが一人サポート?に付いてくれたという話だった。ノアは山ほどグッズや同人誌を買ったという(※読めるのか?)。
仕方ないので和真は一応宮沢にも電話で礼を伝えておいた。さすがに宮沢も、和真が最上の社員が起こした事件の当事者だったと知り驚いていた。
<大丈夫だったのかよ。この間話していたストーカーの事だったのか?>
「ああ、まあ…」
<「男同士の痴情のもつれ」って話になってるけれど、やっぱり片岡はあの子と付き合ってるのか?>
「違う。痴情でもつれたのは近本と満月だけだ。俺はとばっちりだ」
<そうなのか?お似合いだと思ったんだがな…まあ、いつでも相談にのるぞ>
「必要ないし。自分に彼氏がいるからって、俺まで一緒にするな」
<はは…それはそうとお見舞いに行くよ。お前の家、会社の近くだったよな。昔一度泊めてもらった事があったけど…>
「あー、いや、今は満月のマンションで世話になってて…」
<…同棲してるのか?>
「違うって!!今だけだから、そのうち戻るから!」
和真は電話の向こうで宮沢がニヤニヤしている気がして、仕方がなかった。
実は同じような誤解は会社でもあった。
「片岡…お前男の子と付き合ってたのか?」
和真は同僚や他の社員たちに、散々同じような事を聞かれた。
「違う!!『痴情のもつれ』は二人だけ!!俺はたまたまストーカーされていた方を助けて、巻き込まれただけなんだよ!」
「そうなのか?なんかネットのニュースだと三角関係みたいな言い方してたけど…」
「ああいうのは面白おかしく興味を引くように作るんだよ!カンベンしてくれよ」
「でも噂だと男の子の方は大手商社の会長の孫だって言うじゃないか。今世話になってるんだろ?うまくいったら、『逆玉』ってやつじゃないか?」
「…なんでそうなる…」
さらには一部の女性社員が「話を詳しく」と詰め寄って来て、和真を辟易させた。正直和真にとってはケガでの不自由さからくる疲れより、その他の要因でのストレスの方が大きかった。
その上満月が和真への愛情を隠さずにグイグイ来るようになって、和真を困惑させた。
「そろそろ家に戻ろうかと思うんだけど…右腕もまあまあ使えるし、幸い神経はやられていなかったから…」
ある日和真がそう言いだした時、満月は必死に止めにかかってきた。
「もうここに越して来ればいいじゃん。会社にも遠くないし、家賃だって浮くよ?」
満月は体を密着させて、和真に抱きついてくる。
「いや、そういうわけにもいかないだろう?まあ、何かと都合もあるし…」
和真は両手を挙げて、ホールドアップのような恰好になっている。
「都合って何?女の人とお付き合いができないって事?」
「別にそういうわけじゃ…今相手はいないし…」
「失恋したばかりだもんね。僕じゃダメ?僕上手だよ、和真さんだって満足させられるから…」
満月のその言い方に、何故か和真はカッとなってしまった。
「ああ、そうだよな。さぞかし『色々』上手なんだろう。一回寝ただけの相手がお前に夢中になって、ストーカーになるくらいだもんな」
言ってしまってから和真は少し言葉が過ぎたかと、満月の顔を見た。
「…」
満月は俯いて泣きそうな顔をしている。
「あ…悪い…ちょっとキツかったな」
慌てて和真が謝ったが、
「そうだよ、どうせ僕は『男好き』で『尻軽』だもんね。『男をとっかえひっかえ』してるんだもんね」
満月は以前和真に言われたことをそのまま口にして、そっぽを向いた。
「悪かったって…」
「もう…誰ともしてないし…和真さんだけにするから…」
(いや…「だけにするから」って言われてもなあ…)
満月は和真の顔を覗き込んで目を瞑り、キス待ち顔になる。和真はその唇に自分の唇を重ねてしまっていた。
(どうしちゃったんだ、俺は…)
暫くして玲子とノアが帰国する前に、もう一度満月の家を訪れた。
「いつでもアメリカに遊びにいらっしゃい、片岡さんと一緒にね」
玲子はそう言って、満月にハグをする。
(え…俺も一緒なの?)
「落ち着いたら、お父さんのお墓参りに行ってもいいかな…和真さんと一緒に」
満月はおずおずと母に聞いてみた。
(え…それも俺が一緒に行くの?)
「もちろん、場所はおじいちゃんが知っているから聞いてごらんなさい」
「満月、和真さんとお幸せにね♡」
ノアも満月にハグをした。
(お幸せにって…)
「片岡さん、満月の事くれぐれもよろしくお願いしますね」
最後に和真に向き直った玲子の笑顔には、何とも言えない圧が感じられた。
「は…はい…?」
事後報告
玲子たちがアメリカに帰国して数日後、和真と満月は久しぶりに” Fairy tales”を訪れた。満月は専門学校がすでに夏休みに入っている。満月はユウさんと時々連絡を取り合っていたようで、近本の事件やその他の大まかな状況は伝えていたらしい。
「ふーん、それで和ちゃんはまだミーちゃんのマンションにいるわけなのね」
ユウさんはまじまじと二人の顔を見比べる。
「…そうですね…」
和真はユウさんから視線を逸らして、ぼそっと答えた。満月は当然のように和真の隣に座って、大事そうに和真の右腕を抱えている。和真はもう、満月の手を振り払う事はしなかった(※まだ痛いしね)。今日和真たちのソファ席には二人の他に、ユウさん・健ちゃん・史ちゃんと久々に諒も座っていた。椅子が足りないので追加している。
「こちらの方は…」
和真が諒の方を見てユウさんに尋ねた。
「諒ちゃんよ。海外出張だったとかで、彼もご無沙汰だったの。和ちゃんが最初に来た晩…というか、アタシが和ちゃんを拾った晩に一緒に飲んでたのよ。ほら、前に話したでしょ?女たらしなのに親友にって…」
「ああ」
和真は思い出した。
「ユウさん、俺の事どういう説明してるんだよ」
諒は不満顔だ。
「諒ちゃんだって和ちゃんの事『金持ってなかったらどうすんだ』とか言ってたじゃないの。後でちゃんと返しに来てくれたわよ。それにしても…災難だったわねえ、和ちゃん。まさかあの事件の犯人が例のメガネ男で、被害者が和ちゃんだったなんて。もうビックリよ」
「はあ…なんといいますか…」
和真はコメントが返しにくい。
「それにしても…アナタたちがそういう事になるなんて…『縁は異なもの味なもの』ねえ~。最初はあんなに相性が悪そうだったのに」
「いや、ユウさん、俺たちは…」
和真が言いかけた時、満月が腕に力を込めた。
「痛っ、痛いよ満月、抜糸したばかりだぞ」
満月はそれには答えず、ペロッと舌を出す。
「俺が来なかった間に、面白い事になってんなー」
諒はしげしげと一同を見回した。
「それじゃあ、和ちゃんの快気祝い?ってことでカンパイ~」
ユウさんが勝手に音頭を取ったので、みんなそれぞれグラスを掲げた。史ちゃん・健ちゃんはどことなく複雑な表情をしている。
「ありがとうございます…」
和真も複雑な表情だ。
「偉いわ、和ちゃん。身を挺してミーちゃんを守ったのね」
「違います。あいつが勝手に勘違いして俺を襲ったわけでして」
「勘違いなの?その後どういう経緯で二人はくっついたの?」
ユウさんはすっかり二人を恋人認定している。そこで満月がやっと口を開いた。
「くっついてないよ、僕が告白しただけ。お返事待ってますっていう状態」
「アラ、そうなの?だってもう同棲してるのに」
「違います」
和真が否定すると
「まあ、和真さんとはまだしてないしね」
けろっとした顔で満月が言った。
「満月…お前なあ…」
「あ、でも体は『隅々』まで洗ってあげたよ。なかなかイイ体でさあ、僕ドキドキしちゃった」
「満月!もう黙れ!」
「…そうなのね…何を聞かされているのかしら、アタシたち…」
和真と満月は二人で先に店を出ていった。残った一同には微妙な空気が流れている。
「あれはもう、逃げられないな」
諒がにやついた顔でそう言った。
「アタシもそう思うわ。完全に捕まってるわよね。緊急逮捕ってやつかしら」
「史君も健さんも、さっきから静かだね」
「あー、それは…ミーちゃんを獲られちゃったから…」
ユウさんの言葉に
「「違う!!」」
史ちゃんと健ちゃんが同時に叫んだ。
「違わないでしょ?隠してもムダよ。健ちゃんてミーちゃんがここに来始めた時から、結構気に入ってたわよね。健ちゃんこう見えて、結構一途だから」
「……」
「ミーちゃんが史ちゃんとそういう事になった時、凄いカオしてたもの。あのメガネ男にだって強気だったじゃない?」
「確かに…最近健さん僕に冷たかったですね…」
「そんなことは…」
「史ちゃんだって、失恋相手にちょっと似てるからって関係持ったけれど、ミーちゃんの事憎からず思ってたんじゃないの?クールぶって、『別に』ってカオしてたけどー」
「いや…やっぱり片想いしていた相手に似ている人とは…」
「とかなんとか言って、やる事やってたじゃない。二人とも、ミーちゃんは甘やかさないで厳しくした方が良かったわね」
ユウさんは容赦ない。史ちゃんと健ちゃんはお互い反対の方を向いていた。
「じゃあ、この二人が付き合うってのは?」
諒がとんでもない事を言い出したが、
「それはムリよ。二人ともバリタチですもの」
ユウさんはあっさり否定した。仕方ないので諒は話題を変える。
「それにしても加害者が最上の社員とはねえ。あそこの社長代理もさぞかし複雑だろうなあ」
「そうなの?そう言えば諒ちゃんが暁ちゃんとキスしたのは、最上重工業のパーティじゃなかった?」
「う…昔の古傷を…」
「古傷じゃないでしょ、嬉しかったクセにー。でもやっぱりここは失恋レスト…じゃない、失恋バーなのかしら。ヘンな噂が出るとお客さんが減っちゃうわー」(※オーナーでもスタッフでもないくせに…)
「その曲俺聴いたよ、いい歌だった。切ない歌詞だけどね…でもまあ和真君と満月がうまくいけば、失恋バーは返上できるだろ」
健ちゃんが寂しげな顔で、ポツリとそう言った。
「まあねえ、結局ああいう『あざとカワイイ』子がモテて、美味しいとこ持ってくのよねえ」
ユウさんは苦笑いしてそう言うと、手にしたグラスを傾けた。
新月
店を出た和真と満月は、酔い醒ましに夜道を歩いていた。
「今夜は月が出ていないな」
和真が夜空を見上げて呟く。満月はふざけて歩道脇の花壇の縁石に乗り、バランスを取りながらふらふら歩いている。
「おい、危ないぞ。暗いし、酔ってるんだから気を付けろ」
和真が満月に注意した。
「今夜は新月だからね。お月様は見えないよ。街灯の明かりだけ」
そう言って満月は片手を差し出した。和真は素直にその手を取った。
「『満月』って名前ね、お父さんが付けてくれたんだって。暗い夜道でも人の足元を照らすお月様のような人になりなさいって意味で」
「お父さん、ロマンチストだな」
「僕、両親は僕に関心がないってずっと思ってたんだけど、そうじゃなかったみたい。お父さんは亡くなるまで僕の養育費を払ってくれてたって。自分の体の事を考えて、お母さんや僕の負担にならないように離婚を選んだんじゃないかって…おじいちゃんが初めて教えてくれた」
「そうか」
「おじいちゃんもおばあちゃんも、あまりにも僕が小さい時に両親が離婚しちゃったから、気を遣ってあまり親の話をしてこなかったらしいよ。でもちゃんと伝えるべきだったって、この間謝ってくれた。まあ、お母さんの方はマイペースでさっさと再婚してアメリカに行っちゃって、今もバリバリ現役らしいけど」
「お前のマイペースは母親譲りか」
和真は笑った。
「和真さんは…ずっと東京にいる?」
満月がちょっと不安そうな顔で聞いてきた。先日和真の実家が静岡と聞いて、気になったらしい。
「んー、美香森製紙の拠点工場が静岡にあって、いずれはそこで働ければいいなと思って選んだ会社だったんだけれど…」
「静岡に帰っちゃうの?」
「いや…はっきりと決めてるわけじゃなくて…まあ東京からは近いしな。無理に帰らなくても…」
「帰らないでよ、いや、帰ったら僕が付いて行く」
満月は縁石に乗ったまま、和真に抱きついた。和真もそのまま満月の体を抱いた。
(どうしてこういう事になったかな…)
満月を抱きながら和真は苦笑いする。沙和の事でぐずぐず悩んでいた数年が嘘のように、満月と出会ってからの約2か月は目まぐるしく濃厚だった。
初めて” Fairy tales”に行ったあの夜(※正確にはユウさんに連れ込まれた夜)、満月に声を掛けられて正面から顔が合った瞬間にすべてが決まっていたのか。「かわいい」と思ってしまったあの時に、満月に捕まっていたのかもしれない。残業で遅くなった夜に偶然満月を助けたのも、今思えば「運命」というやつだったのか―和真はそんなふうに考えてしまった。
(真っ暗だった俺の足元を、満月が照らしてくれたのかもな…)
「僕、和真さんとずっと一緒にいたい。毎日お説教でもいいから、一緒にいて」
満月は縋るような声で言ってきた。
「お前は…ずっと俺の足元を照らしてくれるんだろう?」
和真はクサいセリフだと思いつつ、そう言った。
「え…それって…」
満月は顔を上げて和真を見た。和真は照れくさそうに笑っている。
「…!和真さん、大好き!」
満月はまたぎゅっと和真にしがみついた。
「今夜が満月だったらよかったのにな…よりにもよって新月だもの…」
暫くして、満月は恨めしそうに夜空を見上げた。
「どんな月でも、月は月だ。俺たちからの見え方が違うだけで、月そのものは何も変わっていない。同じように地球の隣に浮かんでる」
和真がそう言うと
「和真さんもロマンチストだね」
満月が微笑んだ。
「月齢0の新月だ。スタートにはちょうどいい。それに俺には満月っていうお月様がいつもついてるだろう?」
和真はそっと満月の脇を抱えて、縁石から歩道におろす。
「和真さん…うん、僕ずっと和真さんのお月様でいるよ」
和真は愛おしくなって満月の体を強く抱き、キスをした。満月もしっかりと和真の体を抱いた。
辺りに人影はない。二人を見守っているのは、姿を隠したお月様だけだった。
終わり
*ちょっとだけおまけ ”le Soleil”にて
「光一、誰かからメール?」
「ああ…片岡から…」
「片岡さんて…いつか駅近くでバッタリ会って、仲直りできた人?」
「うん、そう」
「なんだって?あ。聞いたら悪いか」
「いいよ、栄なら何聞かれたって。みんなで食事でもしようってさ」
「そうなんだ」
テーブルで向かい合う青年が二人、お互いニッコリ笑顔になる。
ここは都内某区にあるレストラン”le Soleil”、二人は今日お食事デートに来ているのだ。
「広瀬さんの紹介で来たけれど、満月君もこのレストラン知ってたみたい」
「そうか」
満月は光一と片岡が偶然会った時に、片岡と一緒にいた若者だ。
「満月君が言っていた通り、山梨のワインがすごく美味しい。もちろん、お料理もね」
栄はご満悦の様子で、グラスを傾ける。
「ワインは長野も美味しいからな」
光一は長野県出身だ。しかも実家は葡萄を栽培している。
「なにそれ、負けず嫌い?」
栄は笑った。
次の皿が運ばれてきた時、一人の男性スタッフが二人に挨拶をしてきた。
「宮沢様・友永様、今日は当店にお越し頂きありがとうございます。広瀬様のご紹介でしたね。外出していてご挨拶が遅れましたが、オーナーの大野と申します」
光一と栄は思わず居ずまいを正す。
「ご丁寧にどうも」
「今日はゆっくりお食事をお楽しみ下さい。こちらは当店からのサービスで、鴨のローストです。皆様にご好評頂いております」
「ありがとうございます。お気遣い頂いてすみません」
「どうぞお気楽に。では、失礼いたします」
大野はそう言って下がっていった。
「オーナーさん、素敵な人だね」
栄の素直な感想に、光一はムッとした。
「うわ、この鴨、本当に美味しい。ワインが進んじゃうよ」
「そうだな、うまい」
「そういえば僕もね、この前ノアちゃんからメールをもらったよ」
「ノアちゃん?」
「うん、アメリカにいる満月君の妹さん。前にアキバの買い物に付き合った話、したでしょう?新しく出るグッズや同人誌を送ってほしいって」
「栄にか?」
「満月君はアニメやマンガに詳しくないから、僕経由で満月君に送ってほしいみたい。前回ノアちゃんとの買い物に付き合ってくれた友達に、また頼もうかな。ノアちゃんともすごく意気投合してたから」
「友達って…女性か?」
「うん、ノアちゃんも同性の方がいいかなと思って来てもらったんだ。二人の趣味が合ったみたいで良かったよ(心なしかBL関連が多かった気がするけど…)」
「そうか(女性なら安心だな。栄は同性に好かれるから…)」
「ごめん、ちょっと洗面所に行ってくるね」
「ああ」
栄が席を立った後で、光一はもう一度片岡からのメールを読み返した。
<宮沢、悪い、今度ゆっくり男同士のあれこれについて教えてくれ。俺が奢るから>
光一は口元に握った手を当てて、軽く吹き出した。
(やっぱりそういう事になったか。それにしても…沙和に振り回された男が二人とも同性の相手を選ぶなんてな。沙和が知ったら、どんな顔をするだろう)
「なに笑ってるの?」
戻ってきた栄が不思議そうな顔をする。
「いや何も…それより今日栄の家に泊まってもいいか?妹は夏休みで帰省してるし…あ、うちに泊まってくれてもいいけれど…栄が朝来先生の助手で長野に行くのは、来週だろう?」
光一はテーブルの上の栄の手に自分の手を重ねた。
「それで笑ってたの?仕方ないなあ」
「それじゃあ、そろそろ…」
光一は急にそわそわし始める。
「何言ってるの、まだワインも食事も楽しむよ。デザートだって残ってるんだからね」
「…そうだったな」
「このワイン、きれいな色だなあ。オレンジワインていうんだよ。柑橘類を使っているわけじゃなくて、白ワイン用の葡萄を赤ワインの作り方で醸造してるんだって。ロゼの逆」
「ああ、きれいなオレンジだな」
「普通とは違う作り方をしても美味しくなるんだね」
栄はグラスを揺らめかせて、色と香りを楽しんでいる。
「追加でもう一杯頼んでもいい?」
「いいけど…あまり飲み過ぎると…」
光一がちょっと渋い顔をした。
「飲み過ぎると…なに?」
栄が意味ありげに微笑んで聞き返す。
「…いや…なんでもない…」
光一は決まり悪そうに視線を逸らした。
(片岡…年下彼氏との恋愛は、なかなか大変だぞ)
光一は心の中でそう呟きながらも、上機嫌でお店のスタッフにワインの追加をオーダーした。
おしまい
お読み下さり、ありがとうございます。前書きにも記しましたようにこの作品単体でもお読み頂けますが、過去作を御存知の方にはクスリと笑って頂ける部分もあったかと思います。ユウさん、思いのほか大活躍?でしたね。こんなキーパーソンになるとは思ってもみませんでした。
時期は5月の中旬から7月の中旬までの約2か月間。新月頃にスタートして、新月で終わっています。和真は2か月で人生決まっちゃったんですね。沙和は腐女子的には「女神様」でしょうか?
なお作中に出た諺「袖すり合うも多生の縁」の「多生」は「他生」と表記される事もあります。意味の違いはあるようですが、諺としての解釈に大きな差はないかと思います。
以下は過去作を御存知の方への説明ですが、ミックスバーで暁ちゃんこと広瀬暁人と史ちゃんこと加賀史彦は絶妙にすれ違っております。二人が顔を合わせるとややこしい事になるので、その方がいいですね。諒(岩城)やユウさんが実央の名前を史ちゃんの前では出していない事もポイントになります。
ここまでお読み下さった皆様に心より御礼申し上げます。お楽しみ頂けたら幸いです。
滝野 卯月




