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暫しの休息

 八月になり丈一郎は七月の事件で受けた肉体的・精神的な苦痛を忘れてしまったかのように、貸別荘の清掃のアルバイトを週に二、三度実施し、空いた日には近くの山歩きや釣りに勤しむ毎日であった。無論、彼らが危惧している状況が一掃されたとは丈一郎も思っていなかったが、丈一郎はなんと言ってもただの民間人で、警察やマスコミのような情報網は持っていないので、気に病んでいても何も解決しないのは分っていた。分ってはいたが気が滅入るので、気晴らしを積極的にしているようでもあった。彼は週三日での仕事を希望しているが、貸別荘への予約が殺到して週四で仕事をする週が増えてくると、涼しい北浅間村でも流石に暑い日が増えてきて疲労が蓄積するようだ。その間で仕事のない日には別荘の駐車場の整備と愛猫の受入れ準備を進めた。釣り場の開拓にも進展があり、少しずつ釣果も上がり、丈一郎の別荘暮らしの満足度は向上した。特に群馬元町の山深く入ったところにはチャツボミゴケ公園や四万温泉や野反湖などの人気ポットがあり、その中でも丈一郎はこの『野反湖』の景観には一目惚れして、良く通うようになっていた。ここの景色は以前妻と家族とで旅行に行ったニュージーランドの景色に似ていると一目見て思ったのだ。以前と言っても、妻とは三十年以上前に新婚旅行で行っており、家族では二十年以上前とのことだが、その素晴らしい景色に魅了された記憶が強く、初めて訪れた瞬間にとりことなったのだ。野反湖は標高千五百メートル以上ある人工の山上湖で、湖を取り囲む丘のように見える山の上すれすれに雲が行き過ぎ、静かで涼しい自然の中での釣りが出来る夢のような場所だった。丈一郎にとって今回の事件では直接の被害者となり、予測出来たにも関わらず、事件に巻き込まれるのを防げなかった事を後悔する心の傷を癒やすと共に、前向きな気持ちを取り戻すべく趣味や人とのコミュニケーションを心がけていたのも事実だ。そんな彼の心を癒やすのにこの野反湖は理想的であった。


 入漁券を駐車場の自動販売機で購入し、好みの場所へいくつかある駐車場から向かうのだが、多少混んでいても広大な釣り場で隣が気になるような事はなく、釣りに疲れるとゆったりとした気分で景色を堪能できる。下界で起こったことをすっかり忘れ去ることが出来る場所で、雄大な自然の懐の中で、魚の事ばかりを考えながら時間を過ごすことが出来るのだ。ただ、そう簡単には狙いの魚は釣れず、丈一郎が好んでするドライフライによるフライフィッシング一本槍では、広大な海で釣り糸を垂れるような感じで釣果はおぼつかない。ラインを沈めるシンキングラインで魚を誘ったり、ルアーフィッシングで広く釣り場を攻めるような工夫が必要だった。この野反湖には通い詰めている人が結構いるようで、その一人に話しを聞くと三十年間通っているそうだ。彼は、湖を回遊する魚を待つのが最善で、その時にはいつだって気持ちが沸き立つような、この機会を逃してなるものかとドキドキするそうだ。丈一郎は午後の数時間程度の釣行をして、たまたまそこに居たブラウントラウトの稚魚のような小さな魚を数匹釣り上げていたが、大きな魚達の回遊に出会えるような機会には巡り会えていなかった。もっと、朝から時間を掛けてチャレンジする必要がありそうだ。

 そして、彼はそのチャレンジを実行した。八月には野反湖でのトラウトフィッシング用に購入したルアーセットを試しつつ、フライフィッシングとの黄金連携を確立するべく釣行を三度も実施したのだ。そして、やっと思うような釣果が出たのだ。

 八月下旬の雨が続いた日の翌日、からりと晴れた日に朝四時に起きて、準備を整え野反湖に向かった。野反湖は、彼の別荘から三十分ほど国道を高崎方面に向かい、そこから北側の山へ向かい、幾つかの鄙びた温泉地を横目に見ながら川沿いの道を走り、山道をさらに二十キロほど走った先にある。知る人ぞ知る"天空の湖"で、一見自然湖に見えるがダムでせき止められた標高千五百メートルを超える高山にある人造湖である。1956年(昭和三十一年)に完成した、日本の発電用ダムとしては初めてのロックフィルダムで、材料となる岩石を高所から落下させ、その衝撃で締め固めつつ高く築き上げるという投石工法で建設された。完成後69年の時を経て、周りの山並みに溶け込み自然そのものだが、夏は高原の冷涼な空気に包まれ、湖周にはノゾリキスゲ(ニッコウキスゲの当地名)やレンゲツツジなど高山植物が咲く。湖にはニジマスやイワナや最近では通称『ハコスチ』と呼ばれる、群馬県だけが保有する飼育しやすい「箱」島系メスと、野性味が強い特徴を持つ「スチ」ールヘッドオスを掛けあわせて誕生した、ご当地ニジマスなどが放流され、入漁券を購入すれば釣りをすることができる。水温は夏季でも低く、遊泳には適さないが釣り好きにとっては、日光の中禅寺湖や湯の湖や富士五湖以上に幻想的な雰囲気のある素敵な湖である。ただし、釣果には全く満足できていない、攻略途中の湖である。


 この日も、駐車場から急な勾配の湖に続く”天国への階段”のような小道を下り、購入したばかりのルアーフィッシング用具を使いこなすべく、釣りを始めた。無論、フライフィッシングの用具も持って行ったが、まずは久しぶりに再開したルアー釣りから始めた。なぜ、フライではなくルアーなのかというと、湖は余りに広大で、深さや流れや、魚の回遊コースもあり、フライでのピンポイントの釣りでは確率が低いと判断したからだ。ルアーでは広範囲に釣り場を探る事が出来て、もし当たりがあれば、ほぼ30センチ以上の大物である確率が高いからだ。そして、回遊のタイミングで当たりがあれば、すぐにドライフライでのフライフィッシングに変更するつもりでいた。水面に浮かしたドライフライに魚が飛びつくスリルはルアーでは味わえない快感で、丈一郎は四十年以上この釣りをメインに行なってきたが、近年、関東近辺で管理釣り場以外での実績が芳しくなく、今回もドライフライに固執することなく、状況・場所に合わせた釣り方を模索しているのだった。丈一郎は湖まで降りて、景色を見ながら深呼吸をした。ルアーフィッシングの準備は簡単で、軽くて摩擦の少ないラインの先につないだ頑丈なリーダーの先に、スプーンと呼ばれるルアーをつなげば完了で、彼はすぐにキャスティングを始めた。二、三十分おきに場所を移動しながら、ウエイダーを履いたももの当たりまで少し冷たい水に入り、キャスティングとリール操作とロッドアクションを続けた。湖を回遊するニジマスの動きを想像しながらキャスティングと移動を繰り返し、二時間ほどしたときにいきなりそれは訪れた。

 竿に強烈な当たりがあり、丈一郎は慌てずに良くフッキングするようにゆっくりロッドを合わせた。手応え十分で、ラインの先にずっしりと重みを感じ、すぐにフッキングした魚は猛烈に走った。ロッドがしなり、リールが逆走した。丈一郎は久しぶりの大物との駆け引きの開始に心臓が高鳴るのを感じた。

「これは、大物だ!大きなランディングネットを買っておいて良かった。じっくり時間を掛けて取り込むぞ!」と意外と冷静にやり取りを始めた。魚が沖の方向に走った。リールのドラムが鳴った。緩めすぎず、キツすぎず、調度度良いと感じて、少し走りが弱まるまで待った。弱まったのを感じてリールをゆっくり、そして、強気で巻いた。少し、魚がこちらに引きづられたのを感じたので、巻きを続けた。すると、数メートルは引き寄せたと感じたが、今度は魚は岸伝いに遠ざかろうと試みているようだった。丈一郎は足場を確認しながら、リールを巻きながらもテンションを張りすぎないように岸伝いに魚に近づいて行った。岸よりに逃げられると、水中の岩にラインが擦れて切れる可能性があるからだ。しかし魚は今度は丈一郎に近づいてきた。慌ててリールを猛スピードで巻き取ったが、少しテンションが緩んだ気がしたので、丈一郎は逆に岸伝いに魚から逃げるようにした。これが効を奏して、また、程よいテンションに戻った。少し、気を強くしてリールを巻くと十メートルほど先で、魚が何と湖面からジャンプした。魚体が太陽に照らされて光り、音を立てて着水して、水飛沫が上がった。惚れ惚れするような野生だ。

「これは、きっとハコスチだ。見事に抵抗すると聞いていたが、凄い!」と丈一郎は興奮はしていたが、全神経を集中させ、慌てずにテンションを保ちながら、リールとドラッグを調整しながら、魚が弱るのを待った。5メートル、3メートルと魚は近づき、丈一郎はネットを水につけ、少しずつ魚をネットに寄せてきた。2メートル、そして、目の前にその勇姿が目に入った。

「最後だ!慎重に!」と自分に声を掛けながら、ロッドとネットの呼吸を合わせて、遂に魚をネットに取り込んだ。

「やったー!ハコスチ君、よく頑張ったね。有り難う。写真を撮ったら、すぐに戻してあげるから、少しだけ、大人しくしていてね」と釣り上げたハコスチに語りながら、浅い岸辺にネットを移動させ、フィッシングベストの胸元に入れててあるスマホを取り出した。しかし、上手にスマホを構えることが出来ない。手が震えているのだ。ロッドを岸に置き、ネットだけを少し水につけて、やっとの事でスマホを構えた。魚との格闘のせいか、興奮しているせいか分からないが手が震え、上手く写真が撮れそうにないと判断し、ビデオの方が良く撮れると思い、ビデオ撮影を開始した。案の定ハコスチはバタバタと暴れたが、一分ほど動画が撮れたので、最後に二枚ほど写真を撮り、手で大体のサイズを確認し、50センチ近くある事を確認すると、魚に傷をつけないようにフックを潰してあるルアーを魚から外してあげて、ゆっくり水の中で前後に揺すってあげた。大きな魚なら数十秒で息を吹き返すと思っていたが、正にその通りで魚は尾びれを揺すりながら沖へとゆっくりと帰って行った。

「有り難うハコスチ君。有り難う野反湖」と初の大物キャッチに成功した喜びを素直に口に出した。彼に至福の時をプレゼントしてくれた野反湖は、相変わらず静かに横たわり、岸辺にはさざ波を繰り返し、雲が低く移動して、正に"天空の湖"に相応しい佇まいを見せ続けてくれていた。丈一郎は、

「よし、次はドライフライだ。急げ!」と自分に指示し、フライフィッシングの準備に取りかかった。しかし、その後フライフィッシングを続けたが、釣果は大きなハコスチ一匹だった。気づくと目標の四時を回っており、帰り仕度をすることとした。でも、彼は気持ちが久しぶりに晴れ晴れとしている事を実感し、野反湖を後にした。帰りのドライブ中も、ハコスチとのやり取りがよみがえり、必ずまた来て今度はイワナとニジマスを釣ろうと満たされてはいたが、さらなる釣果を目指す気持ちだった。こういう時に事故を起こすと何もかもが台無しなので、いつも以上に慎重に山道を下っていった。


 ところで、この一帯の人口は1万4千人以上で郡内では最も多いが、山林が広い面積を占め、市街地が吾妻川北側にあるだけでやはり全域が過疎地域に指定されている。昭和三十年には2万3千人いた人口が、昭和六十年には2万人余りに減少し、その後も減少が続いているが、ここ数年移住者を積極的に県が募集誘致していることが功を奏し、県全体としてはかなり成果が出てきているようだ。群馬元町駅の南側には歴史を感じさせる昭和の雰囲気がする市街地が残っており、吾妻郡の中心である雰囲気がある。北側は新しいチェーン店が住民の利便性を高めていて、山に少し向かったところに丈一郎の友人の太子の家がある。事件後に太子の家を訪れる機会があり、事件後の起訴や裁判の状況に関する情報共有をしたが、主犯のリー・シュンユが捕まらない限り安心できない状況には変わりはなかった。

 彼らが潜んでいた家はいつの間にか他の買い手がついたようで、全く見知らぬ人が何も知らされずに購入した様子だった。親子二世帯の住宅のようで、老夫婦と子供のいる家族が賑やかに暮らしているそうで、驚くほどの変わりようだった。たった、二ヶ月しかたっていないのに売りに出て購入する人がいようとは、この数年移住者が少しずつ増加しているようで、太子も驚いた様子であるが喜ばしいことであった。しかし、誰が販売者で誰が仲介者なのか、非常に興味があったが、あまり大っぴらに調べると良くないので密かに調べたようだ。地元の知り合いの不動産経由で調べたところ、販売会社も仲介業者も別の中満国系の人達で、二人とも犯罪歴はなさそうで、日本での生活も長い模範的な移住者だった。この業者は前の持ち主のリー・シュンユとは別件の不動産取引をした事があり、金払いも良く信用できると思いこの物件を紹介したそうだ。しかし、わずか二年ほどで仕事の関係で他県に引っ越すことになったとのことで、結局は買い戻すことになったそうだ。その売買契約は五月には完了しており、七月中旬には不要な家具を引き取る手筈になっていたので、すぐに次の購入者への現地内覧が出来て、売買が決まったそうだ。つまり、リー・シュンユは事件の前からこのアジトは売却し移転する予定だったのだ。事件直後に鑑識班が調査に入ったが、逮捕した十数人の実行犯達の指紋は残っていたが、リー・シュンユの痕跡は何故か何も残っていなかった。このような太子からの連絡を受けて、取引のあった仲介業者へは、牧野警部の部下が参考聴取を行った。以前の不動産取引の実態はあったが、リー・シュンユの住所や連絡先である携帯はすでに他の一般人への移籍や異動が完了しており、そこから追いかけることは不可能だった。太子はスパイ映画のスパイさながらの早業で自らの痕跡を消していくプロの手法に呆れざるを得ないと感じた。その報告を牧野警部はわざわざ太子を尋ねて報告に来た。それを受けた太子は

「こんな犯罪者が日本の一般人の中に紛れているかと思うとぞっとする。またどこかで次の犯罪を計画してるのだろうな」と牧野警部につぶやいた。

「ところで剛君、今回の事件で大活躍だった麻山君は、私の知り合いの花津温泉の麻山さんの息子さんだそうだね」

「ええ、そうなんです。麻山のお父さんが太子さんとは古くからのお友達だと聞いてますし、今回の件で太子さんにはご迷惑をおかけしたし、麻山のお父さんも一度ゆっくり花津温泉の宿に来て欲しいとおっしゃっているですよ」

「いいね。牧野や丈さんと、もちろん剛君も一緒に花津温泉に行こうか?」

「はい、早速にお二人にも連絡して日取りを調整しましょう」

「ところで、麻山君は結婚しているのかい?」

「いえ、彼は独身です。見栄えも良いし、腕っ節も強いし、度胸も良いし、モテそうなんですけど、彼女がいないんですよね」

「彼は麻山さんの三男坊なんだよな」と太子が何かを企むような表情をするので、牧野警部が

「誰か良い娘がいませんかね?」と誘うように言うと

「うん、当てがない事はない。ただし、条件がある」

「えっ、条件ですか?」と牧野は少し驚いて尋ねると、

「ああ、でもここでは言えない」と言ってにやりと太子は笑った。


 二週間後に、麻山刑事の実家である花津温泉のある温泉宿に、丈一郎、牧野兄弟、太子が訪れ、広間で彼らに麻山と麻山の父母と長兄と嫁が加わって賑やかな宴会が始まった。麻山の父が乾杯の音頭を取り、生ビールでの乾杯が行われ、料理が運ばれてきた。どの料理も美味しそうに盛り付けられ、珍しいジビエも混じり、綺麗に食されていった。このメンツでは話しがつきないようで、七時に始まった宴会は十時になっても終わりにはほど遠い様子だった。話しが二転三転、二巡三巡するうちに、太子は麻山と楽しそうに話しを始めた。麻山は地元の名士である太子に最初は遠慮していたが、太子の懐の深い、そしてユーモアのある話しに深い興味を抱いたようだった。太子は麻山の男気のある、素直な性格を快く感じ、二人がまるで親子のような雰囲気で酒を組み合う姿を、麻山の父も、牧野も丈一郎も微笑ましく思っていた。夜も更け、流石に日をまたぐ時間になって、そろそろ眠る時間かなとの話しになり、部屋に向かうこととなった。広間の大方の食器や瓶やグラスはすでに片付けられていたので、麻山一家も同様に部屋に引きあげた。皆がぐっすり眠った頃に、丈一郎はトイレに立った。小用を致すときに、ふと太子と麻山が二人で飲んでいる姿が頭に浮かんだ。そして、ふっと微笑んだ。「あれは、親子のようだったな」と何故かそう思った。


 翌日の朝七時過ぎに、丈一郎が朝風呂を頂いていると、太子が風呂に入ってきた。二人でその少し緑色の混じった白濁し、硫黄の匂いのする素晴らしい温泉につかっていると、やはり早起きの牧野が入ってきた。

「はあ、花津の湯は本当に良いなあ」と丈一郎が気持ちよさそうにため息をつくと、太子は

「ここもお客が多いようだし、良い跡取りもいるし、安心だな」と思わせぶりな発言をするので、丈一郎は早朝にトイレで浮かんだシーンを思い出し、

「太子は昨晩は麻山君とずいぶん楽しそうに話していたな。まるで親子のようだったよ」

「そうか、でも彼は良い男だな。剛君が可愛がる理由も分かるよ」と太子が嬉しそうに話し、

「うん、家でも良く麻山君の事が話題に出るよ」牧野がそれに続いた。

「今度、麻山さんに正式に相談するつもりだよ」と太子が小声で呟いた。それで、三人の間では話しが通じたようだった。つまり、跡取りの居ない太子の家を、麻山に継がせるような事を相談するつもりなのだろうと。牧野は刑事という仕事が危険な仕事だと言うことが少し気になっていたが、弟もその世界で頑張っているのだし、弟の指導を受けながら活躍する麻山を見ると、それも仕方がないかなと思う。丈一郎は以前から太子が良い後継者を探していることを知っていたので、資質的にも人間的にも、そしてじつは家柄的にも麻山一族の血を引く麻山は良い縁組みのように思えた。牧野には年の離れた養子がいて、この子も麻山一族の血を受け継ぐ子で、彼らには不思議な縁があるように思えた。そんな事を考えていると、かなり良いあんばいに暖まったので、湯船を出て、さっと湯を洗い流したが、簡単に匂いの消える温泉ではなく、その匂いをさせながら部屋に戻った。部屋に戻り浴衣から普段着に着替え広間に行くと、ほどなく牧野警部と麻山も現れた。誰もがすっかり昨晩の宴会の酔いもさめ、すっきりとした顔つきで、挨拶をし合ったが特に太子と麻山の関係が深まったような印象だった。


 このように丈一郎達が花津温泉で楽しい息抜きをしている頃に、一人の小柄な男が新潟の夜の酒場で独り言を呟いていた。

「ちきしょう。これじゃあ、昼間は外を歩けないじゃないか」といかにも悔しそうな声で。彼はほっそりとして少し窪んで見える頬と細く冷酷そうな目が特徴的で、町中には彼に似た手配写真が数多く張られていた。そう、あのリ・シュンユだった。手配写真の男は少し長めの髪型で、眼鏡を掛けていなかったが、今の彼は坊主刈りが伸びた程度の短髪で、黒縁の眼鏡を掛け、白いスポーティなシャツを着ていた。これでは注意してみないと手配写真の男だとは分らなかった。以前、高崎のナイトクラブで気味が悪いほど落ち着いて悪巧みをしていた頃とは違い、少しせわしない動きをする小柄な男に見えた。彼は焦っていた。前回の事件で仲間やメンバーが大量に逮捕される前から、この数ヶ月間は本部に上納金を納められずにいて、本部の幹部から催促を受けていたのだ。これ以上この状態が続けば、今度は彼が狙われる番だ。彼は、ウイスキーのお替わりをカウンターの中の中年の女性にオーダーした。その女性はリー・シュンユに、

「お客さん、今日は前金でお願いできますか?」と言うと、彼は嫌な顔をしながらもカウンターに千円札を二枚置いた。それを見てカウンターの女性は、ウイスキーの水割りを作り、彼の前に少し乱暴な手つきで置いた。

「どうぞ」と短い言葉を掛け、すぐにカウンターの他のお客のところに近づいていった。リー・シュンユは頭の中で、自問自答と後悔とを繰り返していた。

「なぜ、警察は俺の動きを察知出来たんだ?あの爺三人は一体何者だったんだ。太子の爺さんと他の二人は元々知り合いだったのか?なぜ、警察の動きはあんなに早かったんだ?俺が油断したのか?」と彼は疑問を持っていた。そして、

「あの殺し屋二人は、何故簡単に捕まったんだ?あいつらは殺しには向いているが、馬鹿だからすぐに自分の罪や俺のことをしゃべるだろう。それにしても、何故、ソンまで捕まったんだ?あれほど、現場で同じ動きはせず、すぐに逃げろと言っておいたのに。奴がいないと俺が直接現場に出ることになるじゃないか!」「早く次のヤマで稼いで、上納しとかないとやばいな。その後は、海外に逃亡だ」と後悔ばかりが頭に浮かんできては、それを取り消すために苦い酒を飲んでいた。

 リー・シュンユは本部組織に支援者を追加して欲しいと要請したが、なんだかんだと断られていた。もう見切りをつけられたようだった。しかし、以前からの知り合いでもある、情報屋から耳寄りの情報を得ていた。一つは北浅間村に高価な美術品を扱う店がオープンしたとの情報で、セキュリティは甘く、品物がインターネットで販売されており、情報が掲載されているとの事だった。もう一つは長野市内にある宝石展で、すぐ近くに警察署があり、ターゲットとしては危険すぎた。そこで彼は北浅間村の方をターゲットとする事として、早速ネットで検索し、場所と定休日や美術工芸品の品定めをした。実は彼は以前商社に勤務していた時に美術品も扱っており、かなりの目利きが出来た。盗む価値のある美術品を割れにくい陶器と持ち運びが出来る絵画に絞り、ある程度当てをつけた。売価で数千万円相当になる。彼は彼の言いなりになるメンバー一人と契約し、前払いで半分のお金を渡す約束だった。以前の彼ならそんな割りの悪い契約は結ばないが、今の彼にはある程度信頼できる仲間が欲しかったのだ。そして、後のメンバーはいつも通りSNSで集めた。集めたメンバーに簡単なテストをさせて見極めてみたが、誰もが大差なく、頼りないメンバーしか集まらなかった。しかし、これで大丈夫だと思えるメンバーではなかったが、我慢するしかなかった。集めたメンバーの訓練と現場近くの土地勘を得るために、温泉地ですぐに出来そうな窃盗をした。大きな温泉宿の食堂脇に廊下にある壺がターゲットだった。事前に確認していたとおり、本館の傍にある露天風呂への出入りのために、出入り口のセキュリティは甘く、深夜にこっそり二人で忍び込み壺を盗み、待機していたメンバー二人と逃走した。上手くいった。集めたメンバーと次の日の帰りに、ドライブインに寄ると、まあまあの味のコーヒーを飲んだ。土産物を置いてあったが、数百円の物ばかりなので、盗むのは美味しいコーヒーに免じて勘弁してあげた。そこは、なんと米川が運営する例のドライブインだった。そこで米川に指名手配班だと見抜かれて、警察に通報されていたとは気が付かなかったようだ。

 そして、数件の窃盗により、メンバーの教育を終えた頃には季節は既に冬になっていた。上納金を納めるほどの稼ぎではなかったので、高崎のナイトクラブのママに、連絡して店の売り上げを口座に入金するように依頼した。彼女は賢い女で、警察が尋ねてきたことを教えてくれたが、この口座のことはばらさなかった。集めた若いメンバーに二十万円ずつ渡して、次の仕事が決まったら、こちらから連絡すると伝え一旦分かれた。そして、サブリーダー役の男と栃木県の安い温泉宿に暫く滞在した。

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