影のルーティング
第1章 折れたルーティング
夜の大阪はケーブルと看板の迷路だった。葵は小さなワークデスクに肘をつき、渡辺から送られてきた差分ログを眺めていた。ユニットオルカのアルファ版は、ARシーケンスに本来存在しない「ヒント」を特定のGPS座標へ書き込み、ユーザー端末にだけそれを表示していた。バイナリの痕跡は断片的だが規則性を持ち、プロセス名は「ルート0」とだけ記されている。簡潔な名前の裏に奇妙な挙動が潜んでいると葵は直感した。
彼女はコマンドラインでパケットフローを再生し、標準的なリクエストと応答の波形の隙間に、微妙に位相のずれたシグナルを見つけた。数秒間隔で現れては消え、データベースへの「注釈」を差し込む。注釈は暗号化され、復号すると古い地図の断片や和暦の表記が現れる。画面に浮かんだ文字列は「昭和五十四年」。彼女の胸に冷たい何かが落ちた。渡辺のスタジオで働くミナが口にしていた友人の失踪と、年号が一致したからだ。
葵は解析結果をまとめ、現地の座標を地図上に落とした。技術は道具だが、時に歴史の埋葬を掘り返すシャベルにもなり得る。彼女はコートを手に取り、夜の街へと出た。外は季節外れの湿気を含み、ネオンがアスファルトに散る。
橋の下は冷気を溜め込み、苔と湿った紙片が風に揺れた。石段を下りると、錆びたブリキ缶が半ば埋もれていた。指先で缶のふたを引くと中から黄ばんだ封筒と小さなROMカードが出てきた。ラベルには鉛筆で「ルート0α」と走り書きされている。封筒の端に差し込まれた紙には走り書きと「ここから次へ」という短い文言。差出人は不明だが、文字の癖は若者のそれに近い。
自宅に戻ると葵はROMの中身を抽出し、古いフロッピーディスク形式のイメージを復元した。中にはマップデータと手書きスクリプトが混在しており、地点に対応する断片的な指示が並ぶ。コードの断片からは古い地図を参照するキーが吐き出され、次に辿るべき地点の手がかりが浮かんだ。誰かが長年にわたり意図的に痕跡を残している。葵はその「誰か」がタクという名の若者と関係する可能性を考えた。
第2章 ルート記録
ユニットオルカのオフィスは雑然としていた。小さな机とモニタ、未完成のゲームアセットが山になり、代表の渡辺は疲れた顔でコーヒーをすすっていた。ミナは窓の外を見つめ、言葉少なにタクのことを話した。タクは地図と古い記録に執着し、街の忘却された痕跡を繋ぎ直すことを生涯の仕事にしようとした、と。
「彼、よく変なこと言ってたんです。地図に手を入れると記憶が戻るとか――子供みたいで笑えたんですけど」ミナは笑ったように見せて、瞳から涙を拭った。葵は技術的な説明を交えながら、ルート0のログの断片を提示した。サーバのリダイレクトは往復の経路に微妙な差分を作り、特定のリクエスト時だけ古いデータベースにパッチを当てるように見える。パッチは自壊的で、一定時間後には消える。
渡辺は眉間に線を寄せた。「うちのゲームがそんなことになるなんて。ユーザーに迷惑かけたくない。でも、もし本当に誰かが仕組んでいるなら……」彼の声は震えた。スタジオの存続と、タクの不在に引き裂かれたミナの思い、その狭間で葵は自分の立ち位置を確かめた。技術者としての中立ではなく、誰かの記憶を守るという小さな義務感が、彼女を動かしている。
解析を続けるうちに、葵は注釈のメタ情報に古い図書館の照会番号や役所の文書番号が混入していることに気づく。これが示すのは、痕跡が単なる個人のいたずらではなく、公的な記録と地続きだということだった。
第3章 図書館の地下
市立図書館は重厚な扉と低い天井が特徴の古い建物だった。地下書庫は紙の匂いが満ち、縮刷された新聞と廃刊雑誌が列をなしている。谷口は静かに整理台に座り、眼鏡の縁越しに葵を見た。彼の顔には長年の職務が刻んだ皺があり、落ち着いた語り口には重みがある。
「昭和の末、地方の情報流通は急速に再編された。デジタル化という名の下で、いくつかのデータは特定の業者に集められた。記録は整理されたが、同時に見えない断絶も生まれた」谷口はゆっくり語った。彼は当時の公文書を示し、ある会社が地域データベースの独占的管理で利益を得ようとした痕跡を見せた。行政側のやり取りの一部が、当時の会話録として残された磁気テープに存在する可能性がある。
葵は磁気テープの解析を依頼し、物理的な復元を試みる。古いフォーマットのヘッダ、ノイズ、そしてテープに刻まれた微かな一行の音声。そこに入っていたのは、若い公務員の声と企業側の代表の声、そしてかすかに聞こえる雑談の中でタクの名前が口にされる断片だった。会話は断片的で、全貌を語るには足りないが、行政と民間の間で情報が商品として扱われた痕跡は確実だった。
谷口は表情を固めた。「ならば我々は、どの程度まで掘り起こすかを考えねばならない。公開は正義に見えるが、同時に誰かの人生を崩す可能性がある」彼の言葉には、守るべきものとしての記録と、暴くことで生じる倫理的責任が混ざっている。
第4章 小さな導き
解析で浮かんだ次の座標は、市内の古い公園にある朽ちかけた電話ボックスの位置だった。ARの「ヒント」は、現地の小さな地形変化を参照し、プレイヤーに細い石段を下りさせる。現地に向かった葵とミナは、苔に覆われた段差の隙間に小さな錆びたプレートを見つける。そこには「T.」の刻印と、古い郵便番号の一部が残っていた。
プレートの下に埋められた小箱を掘ると、そこには小さな紙片と写真、さらに複数の手書きメモがあった。写真は若い男性が地図を広げて微笑む姿。メモには断片的な座標と「戻す」とだけ書かれている。ミナは写真を指で撫で、声を震わせた。「これ、タクの笑顔だ」彼女の顔には安堵と痛みが混じる。
葵はその場で写真をスキャンし、メタデータの痕跡を分析した。写真は古いフィルムからのスキャンで、解像度の粒子が独特だ。だが紙片の裏に押された印章と、手書きのインクの年代判定から、写真が1980年代初頭のものである可能性が高いと推定された。時系列はタクの行動と符合する。
現場から持ち帰ったメモと写真を照合すると、ルート0の暗号が古い公的記録と一致する箇所が次々に見つかった。痕跡は断片的だが確実に繋がっていた。誰かが地図を「直す」ために、意図的にゲームと現実を連結している。葵の胸に、仕事以上の責任が膨らんだ。
第5章 接続の痕
ROMと紙片、テープの断片を繋ぎ合わせるうち、葵は別の兆候に気づく。ルート0の挙動は自律的なパターンを含んでおり、特定の条件下でのみ新しい注釈を挿入するように設計されている。注釈は短時間で自己消滅する。これにより痕跡を辿る者は常に“追われる”感覚を味わう。誰かが証拠を残したいのか、あるいは誰かに証拠を辿らせたいのか。動機は読み取りづらい。
同時に、葵はネットワークのログに奇妙な中継経路を見つける。いくつかは旧式の業者ネットワークを経由し、別のいくつかは私設のVPNと匿名プロキシを重ねていた。だが経路の末端にある一つのノードだけは、ローカルな倉庫地帯へと接続している兆候を示していた。物理的な発信源が存在する可能性が高い。
葵は、ここから先はコードだけでなく足で稼ぐ調査が必要だと悟る。記録を守るという仕事は、時に泥と埃と人の記憶の中へ踏み込むことを意味する。彼女は深呼吸し、分析結果のプリントをまとめて渡辺の元へ戻った。問いは一つだけ――誰がルート0を走らせ、何を守ろうとしているのか。
第6章 古物商の影
廃れた商店街の一角に古びた看板を出す店がある。看板には「資料商 末広」とだけある。ガラス戸の内側には時間の埃が層を作り、棚には古い帳簿や紙片、年代物の地図が乱雑に積まれていた。葵とミナは午前中の薄い光のなかで店のベルを鳴らす。出てきたのは細身の老人で、笑顔は事務的だった。
「探し物かね」老人は声をすっと落とし、ゆっくりと頷いた。ミナがタクの写真と走り書きを見せると、老人の手が一瞬震えた。「タクね……若い頃、そういうことをする子がいた。地図を集め、古い記録を繋げて歩いていた」老人は言葉を選びつつ、古い棚の奥から一冊の手帳を取り出した。外側のカバーは擦り切れ、中には貼り付けられた切り抜きと走り書きが並ぶ。
葵は手帳のスキャンを行い、その紙質・インクの年代を即座に見積もる。手帳の一ページに、見覚えのある符号がある。ルート0の注釈に含まれていた図書館の参照番号が手帳の余白に書き込まれていた。老人は暗い目で言った。「この街では、何かを残す者がいる。だが残されたものを金に変える者もいる」言葉の端に含みがある。
葵は古物商の供述を突き合わせ、これまでの解析で見つかった経路と照合した。古物商は行政文書の断片を扱い、時には求めに応じてその複製を流通させていた。だが彼の扱うものは海賊版や違法コピーではなく、忘れられた記録を保存する「余白」だという面もあった。葵は疑問を抱く。誰が情報を売り、誰がそれを買うのか。買う側の目的は何か。
店を出ると、ミナが小さく呟く。「タクは、ここに来てたのかな」ミナの声には問いかけと慰めが混じる。葵は瞬間的に、自分が解くべきパズルが単なるコード上の問題ではなく、人の欲望と記憶の交差点であることを再確認した。
彼女は古物商の屋台骨を掘り下げる。過去の取引記録、移動履歴、古い領収書。老人の記憶は断片的だが、ある一社の名が何度も現れる。地方のデータ化を請け負った元請け企業。葵はその企業の古いネットワーク図を調べ、当時のアクセス権限が不均衡に配分されていたこと、さらに記録の「余白」が第三者の手で改竄され得る仕組みが残されていたことを見つける。
夜、葵は古物商の店の前をもう一度通り、店の窓越しに棚を眺める。棚の奥に、今日見た手帳とは異なる小さな箱が隠されているのが目に入った。誰かが残した痕跡は、いつも目に付かないところにある。葵は明日、その箱を探す計画を立てる。情報は路地の影でひっそりと取引される。そこにこそ、ルート0を操る何者かの影があるのかもしれない。
第7章 ノードの遺構
倉庫地帯へ降りると、空気が変わる。コンクリートと錆の匂いが広がり、夜間にしか動かないような小さな作業者たちの声が聞こえた。葵は解析で特定したノードの座標をたどり、古い配電路や使い古されたサーバラックが並ぶ空き地へと足を踏み入れる。そこには一目で用途が分からぬ簡易のシェルターがあり、小型のネットワーク機器が積まれていた。
機器は一見するとアマチュアが組んだような即席の集合体だが、構成は巧妙だった。異なるプロバイダの回線を物理的に混ぜ、回線の遅延やジッタを利用して追跡を困難にする工夫が施されている。葵は機器のログを取り、ハードウェアの識別子を探す。デバイスの一つに刻まれた製造番号は、かつて地方のデータセンターに納入されたリース機器のリストと一致した。
ミナが呆然とした声で言う。「誰かがここを使ってたんだ。ここから、ルート0の流れが出てたのかな」葵は頷きながら、機器のメモリから消えかけたログの断片を救出する。そこには短時間に生成・消去された注釈のタイムスタンプ、そしてある種のポリシーが組み込まれている形跡があった。注釈は自己消滅的に配置され、特定のアクセスパターンを感知すると痕跡を消す。
復元されたログには、かつてこの地でデータ化を請け負った企業の社名が暗号化された形で隠されていた。さらに、その暗号のキーには図書館の照会番号、古物商の手帳の番号、そしてタクの走り書きの一部が結びついていることが分かった。痕跡の生成者は、地域に散らばる「記憶の断片」を鍵として組み合わせ、ネットワーク上で自律的な振る舞いを生み出していた。
葵は深い息をつく。ルート0は単にパケットを飛ばすだけのプロセスではなく、街の記憶を参照して動く「情報の蜘蛛」だった。誰かが人の記憶を索引に使い、ネットワークのルーティングに意味を宿らせている。彼女はそれを倫理的にどう扱うか、具体的な選択を迫られることを知っている。
倉庫を離れるとき、空に薄い雲が流れていた。葵は残された機器の一つに細い番号をメモし、帰路でそれを解析することにした。機器の納入先リストをさらに辿れば、当時の契約者の名簿が顔を出すかもしれない。ノードの遺構は、過去の取り決めと現在の隠蔽を繋ぐ橋脚になっていた。
第8章 声の断片
解析で浮かんだ物理的なノードと古物商の関与を突き合わせた夜、葵のスマートフォンが知らぬ番号から再び震えた。前回の通話はまだ彼女の思考に影を残している。出るか出まいか、一瞬の躊躇の後で彼女は受話器を取る。向こうは低い声で始めた。
「お帰り。君はよくここまで来た」声は冷たく、だが端的で無駄がない。「君の解析は正しい。ノードの一つは倉庫だ。だが我々は選択肢を与える。君は次の三つを選べる。全証拠をここで公開するか、保存して第三者に預けるか、あるいは局所的に取引して一部の名を守るか」
葵は前回の通話の記憶を反芻する。前回の相手は直接的な消去を行った。今度の提示は微妙に異なる。相手は倫理的ジレンマを提示し、彼女の価値観を試すことで、行動を誘導しようとしているように見える。声はさらに続ける。「我々は均衡を守る。情報は適切に扱われなければ武器になる。君はどうする?」
葵は冷静を装いながらも、内心は動揺していた。第三者に預けるという選択は、専門的で中立的な保存を意味する。だが第三者は必ずしも完全に中立ではなく、公開の速度や範囲に影響を受ける。局所的取引は誰かを守ることができるが、歴史の一部を隠蔽する可能性がある。全公開は真実を晒すが、多くの個人と組織に損害を与えるかもしれない。
「あなたは誰なんですか」葵は問い返す。声は微かに笑い、答えを与えない代わりに、相手の立場を少しだけ明かした。「君の知る人物の線の一部だ。昔の仕事に関わった者たちの残党といっていい。だが我々もまた選択を迫られる。全てを晒せば混乱が不可避だ。保存すれば均衡を作れるかもしれない」
通話は断続的に切れ、つながり、また切れる。葵は通話中にデバッグセッションを開始し、相手が使うプロトコルの微かな特徴を抽出する。相手の通信は古い暗号化ライブラリを使い、さらに一部の中継点で自動的に痕跡を削除するルーチンが走っている。あらかじめ作られた政策のように、情報の出現と消失を制御する仕組みだ。
葵は答えを出さず、会話を長引かせることで情報を引き出す戦術を選ぶ。相手は予想外に人間的な声色を見せる瞬間があり、旧体制で情報を扱った人間の疲労や矜持がにじみ出る。相手は「均衡」の言葉を繰り返す。そこには正義でもなく悪意でもない、何か自己保存の論理が見える。葵は自分が直面しているのは単なる犯罪ではなく、世代を跨ぐ価値の衝突だと悟る。
通話を終えると、彼女は深く息を吐く。声は彼女の行動を左右するだけの力を持っているが、同時に相手もまた行動の逃げ場を求めている。葵は次に取るべき手を計算する。文書を公開するための法的な枠組みとメディア対応、第三者機関との接点。次の一手は、街の記憶そのものを揺るがす可能性を持つ。
第9章 十七分の選択(再構築)
夜明け前、葵は前回の通話で示された座標に立っていた。古い工場地帯の影が伸び、乾いた風が時折ビニールの破片を踊らせる。手には前回見つけた封筒の複製と、ミナから預かった小さな写真。心臓の鼓動が冷静な計算を妨げることはないが、彼女の内面には重い緊張が満ちていた。
スマートフォンが震え、見知らぬ番号がまた現れる。通話は冒頭から短く、厳しい語り口で始まる。「今回の選択は最終だ。君が封筒を開けば、我々は一つだけ証拠を残す。開けなければ、重要なログと録音を削除する。第三者に預ければ被害は限定される。妥協を選べば、君と我々の間で均衡が保たれる」
だが今回は通話の合間に、彼女は逆探知の糸を辿る行動を同時に行うつもりだった。通話を切らずに、周辺の公衆ネットワークをモニタし、相手の中継ノードに微かなパケットの同調を発見する。時間は限られている。葵はミナに「来い」と簡潔に送る。ミナの足音が向こうから近づくのが感じられた。
十七分という短い時間は、決定を強いるものだが、同時に観察の集中をもたらす。葵は封筒の封を切ると、紙片の裏に書かれた一行を見つける。「ここに鍵はあるが、奪うな」タクの文字に見覚えがある。葵は瞬間的に判断した。鍵を奪って公開へ走れば、真実は一気に露呈するが多くの人が傷つく。奪わなければ、情報は部分的に保たれるが、全体像は永遠に欠ける。
彼女は通話を維持したまま相手に告げる。「私は第三者に預ける。保存され、検証される。だが公開のプロセスは段階的に行う。被害が最小になるように関係者と連携して進める」相手は一拍置いてから答えた。「君は技術者だ。冷静な判断だ。均衡を取る者には恩恵がある」とだけ言い、通話は切れた。
だが通話が切れると同時に、端末の別フォルダにあった録音テープのメタデータが一つ消えた。葵はそれを目撃し、胸の奥が凍る感覚を覚えた。すべてを守ることはできない。だが彼女は少なくとも、壊滅的な暴露を防ぎ、地域に修復の時間を与える道を選んだ。ミナは涙をこらえたまま葵の肩に手を置き、二人は朝焼けの薄い光のなかで立ち尽くした。
第10章 保存と監査
葵は翌日、仲間と共に行動を開始する。まずは残されたデータと物証を第三者機関に仮預けするための手続きを整える。選んだのは地域の大学附属研究所と古文書保存の専門家の連合体だ。彼らは中立的な立場を担い、法的にも技術的にも証拠の保存と検証が可能だと判断された。
手続きは煩雑だった。保存の際にはハッシュ署名、物証のチェーン・オブ・カストディの記録、適切な暗号化とオフラインバックアップを確保する必要がある。葵は夜通しでスクリプトを書き、証拠のデジタル封印を行う。渡辺はスタジオのサーバルームを開け、残されたログの完全コピーを提供する。谷口は古文書の寄贈と、図書館の目録に対するアクセス協力を申し出る。
研究所に着くと、専門家たちは冷静に手続きを進め、各証拠に対して適切な保存プロトコルを実行する。葵はその作業を見守りながら、自分が勝ち取ったものと失ったものを計算する。失われた録音は戻らないが、残された断片は学術的に検証可能な状態で保全された。公開の際の検証過程は、捏造や改竄を極力排しつつ、倫理的な配慮を組み込むための重要な盾になる。
保存の過程で、研究所の一角に大きな地図が広げられ、関係する座標がピンで示されていった。タクの「地図を戻す」という行為は、単なる私的な執念ではなく、地域の記憶を再構築するための一つのインフラを作ろうとする試みだったことが、少しずつ輪郭を現し始める。
葵はその夜、図書館の書架に戻された古い手帳の写真を見つめながら、次の作業を練る。公表の段取り、メディアとの接触、法的対応、被害者と関係者への説明。技術者である彼女は、数字とログと暗号だけでなく、物語の語り口を設計する役割も担うことになる。情報の開示は技術的な行為であると同時に、物語をどう語るかという文化的行為でもある。
第四章以降の物語は、ここからさらに広がる。偽りの均衡を保とうとする勢力、完全な開示を求める声、そしてタクの謎に囚われた個々の人間たちのそれぞれの痛みと決意。葵たちは保存の盾を持って、次に来る嵐に備える――だが嵐は既に種を撒いている。




