第3話 その夫婦
「ーーそんなのいらない……」
教室が僕への批判で騒がしくなる中、安曇野がぽつりとこぼした。
「そう?大学生になったら考えも変わると思うよ」
「何のーー?」
「ホテル代って高いから。夜勤の大学生も、ホテル代のためにバイトしてるようなもんだ、って言ってたよーー」
「……」
僕の言葉に安曇野は下を向き、女子生徒を避けて足早に教室を出ていった。
……あーー、新聞どうしよう……。気を悪くしたのならこの話もないよな……。行かないことをいちおう言っておくか……。
ひそひそ話してる女子生徒達を無視して、僕は安曇野を追いかける。廊下に出ると少し先の人気のない場所に、彼が立っていた。
「待っててくれたの?」
いや、怒りをぶつけたいのかもしれないけど。
「……うん。……遠野は、本当に面白いな……」
くすくすと安曇野が笑いはじめる。その笑いは徐々に大きくなって、彼は声をだして笑った。
「……ごく一般的なモブだけど」
「ーーぷっ!」
何がウケたのかわからないが、彼の笑いがとまらない。こんな笑ってるところ、見たことなかったけど、ちゃんと人間なんだな。
あーー、笑うと幼い顔になるんだ……。幼稚園児みたいに可愛いんだーー……。
「ーー君は俺に新しい恋人ができると思ってくれてるんだな」
「え?それはそうだろ……」
「亡くなった恋人がいるのに?」
「ああ、知らない恋人か……。戦争時みたいな話だけど、婚約者とかじゃないのか?」
「………違う」
「ふうん。変わった話だね。でも、例え安曇野が過去に恋人を亡くしてるからって、新しい恋をしちゃいけないわけじゃないだろ?あくまで、自分の問題だろうけどーー」
自分が、どうしてもいらない、っていうならそれでいいだろうけど……。
「ーーそう、自分の問題、なんだよな……」
「?」
表情が曇っていく彼は、何かすべてを諦めているような目をしている。ーー目が生きてない、っていうのか、我慢……、してるのかーー。
「ーー昨日読んでた本は面白かった?」
「ああ。時代小説が好きで、ときどき司馬先生のを読み返しているんだ……」
「王道だね」
「父も好きなんだ。電子でも読むけど、やっぱり紙はいいな……。置くところがなくなるから買わないんだけど」
カラカラと快活に笑う。
ーー君って、本当はそういうキャラじゃないの?いつもより自然に見えるけどーー……。
「僕の父とは大違いだねーー、あのひとは官能小説ばっかりなんだ。いまいち良さがわからないけどーー。安曇野は理解できるか?」
「時代小説にも性交のシーンは多いよな。ただ直接的じゃない表現だと想像はできるけど、結局、何をしてるんだろ?と、思うものもある。前に菊座とか書いてある本があって、何だそれ、って後で調べたりさ」
ありゃ、すごい赤裸々に語るなーー。
「ーー安曇野、このまま亡き恋人に操を立ててしまうと、童貞のまま君の人生が終わるんじゃーー」
「ははっ、それは大問題だ」
そう言って安曇野は、また楽しそうに笑った。
僕はすっかり楽しくなって、いままで読んだ本の内容を語りながら歩いた。彼も楽しそうに話を聞いてくれ、「それ、知ってる」、と互いの知る本について感想を言いながら学校を出る。
こんなに有意義だと思う下校時間なんて、いままでにない。夕方なのに、いつもの通学路が妙に明るく見えるぐらいだ。
「ーーそれで、そのときの『乗りたきゃ乗るけど嫌なら乗らないーー』、って台詞がーー……」
「ーー晴日くん」
その呼びかけは突然だった。
駅に向かう道の途中で、電柱の陰に隠れていた中年の女性が、安曇野の名前を呼びながら姿を見せた。全然気づかなかったから、僕は驚いてビクリと肩を震わせる。
その女性の容姿にも、どきりとさせられた。
痩せて縦に長い、目が浮き出たような女性だ。顔色も悪く、お世辞にも健康的とは言えない。
「ーー……」
その人物を見た瞬間、安曇野の表情が暗くなっていった。悲しそうな、つらそうな顔が僕の心をざわつかせる。
ーーなんだろう、親戚のおばさん……、でもないような……。
「晴日くん、昨日はなんで来なかったのーー?」
不気味に微笑む女性が近づいてくる。ホラーゲームかと思うぐらい、雰囲気が怖い。
「ーー先月、もう行かないと、言いました……」
「なんで!私は納得していない!!」
急に声の音量があがった。感情のコントロールができないひとなのかな……。
「ーーあなたには関係ない」
「あるわ!私はあなたの母親になるはずだったのよ!!」
え?は、母親?ーーもしかして、再婚?
「ーーいい加減にしてください!俺と阿川さんは本当に何の関係もないんです!」
「ひどいーー!ひどいーー!ひどいぃーーー!!娘をもて遊んでおいて、関係ないなんてーー!!嘘よ!嘘、嘘、嘘、嘘、嘘ーーー!!」
気が狂ったように叫ぶ女性に、通りすがる通行人も不審そうな目を向けている。いや、かなりこのひとおかしいよ。
「ーーみつえ!」
騒がしくなっていく道の真ん中で、駅のほうから走ってきた女性と同じ歳ぐらいの男性が声をあげた。
「あっ、あなたーー!晴日くんがひどいの!あの子と何も関係ないなんて、嘘をつくのよ!!」
女性をなだめるように肩を抱き、男性が深く頷く。
「ーーそれはひどいな。晴日くんーー、ちゃんと真実を言いなさい!君はうちの美椿の恋人だっただろ!?」
「ーー違う!まったく、知らないんだーー!何回言えばわかってくれるんだ!!」
悲痛な面持ちで、安曇野が首を横に振る。
「嘘をつくなッ!!あの子の生命を否定するのか!!」
「ーーそんなつもりは、ないけど……」
奥歯を噛み締めながら、つらそうに言葉を絞り出す。
「ちゃんと、月命日に来なさい」
「そうよ!恋人なんだから、当たり前でしょ!!」
「それぐらい当然だ!生きているものは死者に礼儀を尽くさないとーー」
なんだ?この夫婦……、夫婦なんだよな……?安曇野の新しい両親、ってわけでもないーー。
……あっ!
『知ってる?2―Aの安曇野先輩ってさ、中学のとき付き合ってたひとが死んでるんだってーー………』
亡くなった彼女の両親……?
いやーー、そんなことより、これはどう見ても安曇野が可哀想だ。たぶん彼は、僕が思うよりもかなりつらい目にあっているんじゃないのか……?
『ーーああ。本当に怖いよ……。特に、大人が言えば嘘でも真実になるところが……』
少しだけ、あの発言の意味にふれた気がするーー。
「いまからでも来なさい!美椿が待っているから!!」
「そうだ。早く来い」
近づいてくる理不尽な大人に、安曇野が力なく項垂れている。
ーー君はこんな言葉の通じない獣達を、どうにかしようとしているのか……。いや、抗い続けたけど、力つきたのか……?
ーー僕が、なんとかしてやれないかな……。