第17話:姉、天使になる。
森を抜けて、ほんの少し歩いたところで──
私たちは湖にたどり着いた。
あの香蒂に襲われてから、まだそんなに時間は経っていない。
なのに、空気は穏やかで、風すら眠っているみたいだった。
「ふわぁぁぁ~~っ!! なんて綺麗な場所やろ! ここでエネルギー充電やぁぁ!!」
姉さん──神いが、嬉しそうに走っていく。
「神いの言うとおりだ。水も温かそうだし、少し休むにはちょうどいい。」
フルカフトが、ゆみのバッグを木の枝に掛けた。
「ふむ……今のうちに休んでおくのも悪くないな。
だが、後で空路を急ぐぞ?」
マイルズは丸い体をぐいっと伸ばし、
その姿は……どう見ても“巨大な猫まんじゅう”だった。
私は何も言わず、湖のほうへ歩いた。
足音が水面に吸い込まれていく。
……その時、気づいた。
湖の“映りこみ”が、少しおかしい。
最初は、風のせいだと思った。
けど──違った。
映っている“私”の動きが、微妙にずれている。
手を上げると、少し遅れて同じ動作。
タイムラグがある。
しかも……その動き、どこか人間らしくない。
ぎこちなく、関節の角度がズレている。
まるで、下手なCGモデルが無理やり動いているみたいだった。
水面の“私”が、笑った。
……いや、笑ったように見えただけかもしれない。
瞬間、胸の奥がざわついた。
風もないのに、鳥肌が立った。
「……湖、ちょっと変。」
小さくつぶやくと、姉さんがすぐ反応した。
「え? どしたん?」
私の視線を追って、水面を覗きこむ。
「アハハハハ!! なにこれ!! ヤバッ!!」
姉さんは急にテンションが上がって、反射する“自分”に向かって変な動きをし始めた。
手を振ったり、顔を引きつらせたり、ポーズを決めたり。
でも、水の中の神いは、全部ワンテンポ遅れて真似してくる。
しかも、関節が妙にカクカクしていて……どこか、安っぽいCGモデルみたいだった。
「見て見てこれ!! うちの動き、バグってるぅぅ!!」
姉さんが笑いながら跳ねる。
フルカフトも気になったらしく、そっと水辺に近づいて手を伸ばした。
波紋の向こうで、虎耳の彼もまた“遅れて動く”。
「ふふ……おもしろい現象だな。」
マイルズも浮かびながら、反射の自分を眺めていた。
「……やめろ。尻尾の先、なんか変に見えるんだ。」
口調は真面目なのに、尻尾だけピコピコ揺れている。
……まるで、全員まとめて“壊れた鏡”の中にいるみたいだった。
「……あ、これ、なんか思い出した!」
姉さんが急に声を上げて、ぱたぱたと走り出した。
木の下に置いてあったゆみの荷物をガサガサと漁り始める。
中身がカサカサ音を立てて、木の葉みたいに舞った。
「姉さん、また何してるの……」
私は軽くため息をついた。
✦───≪ ✦ ≫───✦
「じゃじゃーーんっ!!」
少しのあいだ木の陰に隠れていた姉さんが、勢いよく飛び出してきた。
「ん?」
フルカフトが首を傾ける。
すでに上半身裸で、湖に半分つかりながら──完全に“おっさんのジャグジーモード”だった。
「ふむ……似合ってるじゃないか。」
マイルズは足をちゃぷちゃぷさせながら、いつもの落ち着いた声で言った。
私は、ほんの少しだけ眉を上げた。
姉さんは、ゆみにもらった“あの服”を着ていた。
ビキニのようで、でも妙に硬そうな素材。
腕も脚も、胸元までも、ほとんど隠れていない。
……見る人が見れば「英雄的」。
別の人が見れば、ただの「露出狂」。
姉さんにとっては、きっと前者のほう。
✦───≪ ✦ ≫───✦
湖の空気が、急に静かになった。
みんな、それぞれの方法でくつろいでいる。
神いは楽しそうに泳ぎ回り、
マイルズは水の上でぷかぷか浮かんで、
フルカフトは空を見上げながら──まるで沼に沈むシ◯レックのように、
動かない。
……平和、すぎるくらい。
私は、少しだけ姉さんの方へ泳いだ。
水が指の間を抜けていく感触が、冷たくて気持ちいい。
「……ねえ、姉さん。」
「ん? なに、気むう?」
「あなた……」
一呼吸。
「……幸せ?」
「…………」
姉さんが泳ぐのをやめた。
波紋が、ゆっくりと消えていく。
「……なにそれ、急に。」
私は肩をすくめて、姉さんの目を見た。
「うーん……そうやなぁ。
魔法もあって、自然もあって、冒険もあって、グリッチもある。
完全に異世界やん? 最高やで、マジで!」
姉さんが笑った。
水しぶきが光を反射して、まるで本気で楽しんでいるみたいだった。
「……ふうん。
でもさ、それって──ちょっと怖くない?」
「え、なにが?」
「この宇宙、たぶん“うちらのせいで”壊れてるんでしょ。」
「えぇ〜? 別に〜。直してる途中やし?」
「……もし、それでも足りなかったら?」
「んー……それはそれでええやん。
世界なんて、最初からけっこうバグってたし。
少なくとも、退屈な現実よりマシやと思う。
自分の異世界で死ねるなら──
それはそれで、幸せちゃう?」
姉さんは笑っていた。
太陽の光を受けて、眩しいくらいに。
その笑顔が、本物なのかどうか……私は、分からなかった。
私は、姉さんとの会話を終えて──
今度は、湖の端で空を見上げているフルカフトに近づいた。
「……フルカフト。」
「ん? どうした、気むう。」
「あなたは……幸せ?」
「幸せ?」
彼は一瞬だけ考えて、そして笑った。
「ははっ、そうだな。たぶん、今の俺はけっこう満足してるよ。」
「どうして?」
「うーん……なんでだろうな。
自分に誇りを持ってるし、仲間もいるし、
目の前の出来事に、ちゃんと意味を感じてる。」
「……じゃあ、幸福って“誇り”と同じ?」
「いや、ちょっと違う。」
彼は指先で水をすくって、光を反射させながら言った。
「俺にとっての幸せは、“自分とちゃんと仲良くできること”かな。
外の世界がどんなに騒がしくても、
心の中が静かでいられるなら──それで十分だと思う。」
言葉が、水面に落ちて、波紋のように広がった。
フルカフトの答えは穏やかで、深かった。
けれど、その“静けさ”の中で──
私はまた、新しい疑問を覚えた。
……どうすれば、そんな心の平和にたどり着けるんだろう。
その答えを探す前に、
──不意に、湖の空気がざわついた。
水面が、わずかに震えた。
……侵入者。
しかも、最悪のタイミングで。
✦───≪ ⟡✵⟡ ⟡✵⟡ ≫───✦
「ドビィィィィィッチィィィィ~~~!!!」
は? またお前かよ。
せっかくの休憩タイムに……はい、出ました。中華製・平穏ブレイカー。
木々の間から、あの香蒂が飛び出してきた。
手には、見覚えのあるボトル。
……ちょっと待て、それ、ゆみのシャンプーやん!?!?
「ちょ、ちょっと!? それウチらのやつやで!!」
思わず立ち上がって、水の中をバシャバシャ進む。
けど次の瞬間──
「ワハハハハハ!!!」
こいつ、急にテンション爆上がりしながら、髪をぶん回し始めた。
バッサァァァ!! 空気が鳴る。
……うわ、なにその髪の質量。
鎖20本分くらいの重さで、風切り音が「キィィィィィンッ!」って鳴ってるんやけど!?!?
「ひゃっ!? 危なっ!!」
横っ飛びでかわした瞬間、後ろの木がスパァァァンッと切れた。
「いや、ちょっと!?!? 髪の毛で伐採ってどういう物理!?!?」
反射的に〈スピード〉と〈パワー〉を展開。
身体が一気に軽くなって、視界が伸びる。
「ちょ、マジかって!!」
頭スレスレを通り抜けた髪のムチを、ギリギリでかわす。
空気が「バシュッ!!」って鳴った。
「また始まったか。」
フルカフトが、まるでニュースでも見てるみたいに呟く。
「やれやれ……」
気むうの声。完全に傍観者モード。
「やっぱり、静かすぎると思ったんだよな。」
マイルズはと言えば──相変わらず、前足をちゃぷちゃぷさせてる。
「ちょっ、ちょっと!? 誰か助けろってぇぇ!!!」
私は叫んだ。
だが香蒂の髪は止まらない。
ムチが地面を叩くたび、砂と水しぶきが爆発みたいに跳ね上がる。
水際ダッシュ、開幕。
足、軽っ。視界、ビヨーン。
背後で髪ムチがうなった。「キィィィィン!」
前に──水の壁。さっきの一撃で立ち上がった水柱が、半秒遅れで崩れてくる。バグ演出、サービス満点やな!?
私は右へ三歩、左へ二歩、くるっと一回転して──足首だけ水に触れた。ひんやり。気持ちいい、でも死にたくない。
「走るだけぇ~? つまんなっ!」
シャンディが笑う。はいはい、なら芸を見せたるわ。
私は低い跳躍からの──肘打ちフェイント。鼻先スレスレで止めて、視線だけぐいっと刺す。
直後、別角度から後髪のムチが「バサァッ!」
やっば。背中を反らして紙一重。後ろの木がスパーンと割れた。やかまし! 伐採現場ちゃうぞ!!
「髪で伐採ってなんの物理やねん!!」
ツッコミ入れてる間に、黒髪が“手”みたいに分岐した。
やば、これはつかみ。
足首ぐるり。ぬるり、きゅっ。
「離せコラぁっ!」
トルク捻り、足を内側→外側→ロール。砂が爆ぜて、私は後転から立ち。
かかと落としの“型”だけ作って、あえて当てない。挑発の角度、完璧。
「ポーズだけ一流~」
うるさい。ポーズは戦術や。
水面に跳ぶ。石飛び三連。
……って、反射の“私”、ワンテンポ遅れてジャンプして、豪快に落水。
は? 私の鏡像、運動神経ゼロなん? せめて合わせろや。
上から髪ムチ。「ヒュンッ!」
私は伏せ→膝スライドで回避、しぶきがスローモーションっぽく宙に浮く。湖、相変わらずバグってんねん。
「数、増やすで~?」
シャンディの声と同時に五連の音。左右、上、フェイント、下。
四つ切り抜ける。最後の下段──
「ッつ!!」
脇腹にカス当たり。じりっと焼ける痛み。バカ痛い。呼吸がズレる。
〈スピード〉は切らない。足は止めない。けど、胸の中のメトロノームが半拍だけ遅れた。
「……はい、上等。」
血の味、ちょびっと。舌で確かめて、私は笑った。まだ走れる。まだ煽れる。
でも――そろそろキレても、ええよな?
枝へ、跳ぶ。
かかとで樹皮を蹴って、私は木の上を走る。ザッ、ザッ、ザザッ。
下から髪ムチが追い上げてくる。弧を描いて、正確に。
一本、二本、三本──届く直前に次の幹へ。
リズムは速い。肺だけが、ついてこない。喉が焼ける。視界が白くちらつく。
「……っは、は……うるさい、追ってくんなや……!」
背後で、空気が一段低くうなる。
次の瞬間、腰に“重み”。
ぶっとい毛束が帯みたいに巻きついた。ぎゅむ。
「ッ……!」 腰が引かれる。土が軋む。樹が鳴る。
足裏の下で土面が“ぴしっ”と割れた。
歯を食いしばって、体を逆ねじり。背を落として、地面に体重を流す。
「お前その髪、何キロやねん……! 競技かよ、重量挙げやないか!!」
反動を使って一回転、帯を外す。
背中から地面にドン。空気が、いったん止まった。
起き上がろうとしたところに、「ヒュン」。
太もも、横一文字。熱い線が走る。
「いってぇぇぇ!!」
浅い。けど、ムカつく。赤い跡が、じりじり主張してくる。
「もうええって! ここ、美容院のミュージカルちゃうぞ!」
シャンディは答えない。唇だけ笑ってる。
髪が、意志を持った触手みたいに四方へ向いた。やる気満々の髪、やかましい。
私は前へ。
踏み込み一歩。顔、至近。
二本の指で、額を──「ちょん」。
ダメージ? ゼロ。屈辱? 満点。
「はい、今ワンテンポ遅れた。おそい、おそい、お人形さん。」
湖面のシャンディが、ほんの一瞬遅れて同じ“ちょん”を受ける。
舌打ちが落ちた。「チッ。」
互いに一歩離れる。
彼女の髪が、蛇。私を丸呑みするつもりの軌道。
私は一歩、下がる。息が合わない。胸が暴れる。
水音と、私の呼吸が、同じテンポで鳴った。
(……うん。はい、理解。ここが、天井や。)
口角だけで笑う。目は、笑わない。
「──もうええわ。
……遊びは、ここまで。」
声が低い。疲れの粒が混ざってる。
「燃えよ、天より授かりし炎!」
声が、空を震わせた。
「うわ、始まった……!」
マイルズが一瞬で逃げ出す。
「またかよ……」
フルカフトが頭を押さえて立ち上がった。
「叫べ、魂を裂く光の名のもとに!」
私は腰をくねらせ、腕を滑らせ、
バレエとストリップのあいのこみたいな動きで、エネルギーを体に絡めた。
光がまとわりつく。音が歪む。
「我を導け、神々の火輪、空を割り、罪を照らせ!」
シャンディが固まったまま口を開けている。
その目に、純粋な恐怖と「理解不能」が同居していた。
「この一撃は、逃れぬ運命──悔い改めよ、未だ地に立つ者よ!
時空を超え、星を穿つ、爆滅の王道!」
私はゆっくりと両手を合わせ、掌を前に突き出した。
指の間から、虹色の光があふれる。
掌の中心で、小さな──でもどう見ても“終わりの始まり”な火球が脈打つ。
「──悔い改めよ。」
「伏せろぉぉぉぉ!!!」
フルカフトの絶叫。
「█▓▒░ FINAL SPELL No.118 ░▒▓█」
「エクスプロォォォォォォーーージョン!!!!」
──BOOOOOOOM!!!!
白光。
視界が一瞬、無音になった。
次に来たのは衝撃波。
湖は形を失い、空気が逆に跳ね上がった。
色、音、風。全部バグる。
青と金と桃色の光が混ざり合い、
世界が一枚のポスターみたいに平たく潰れた。
世界が、灰色に包まれた。
爆音のあとに残ったのは、ただの“静寂”と、白い粉のような土煙。
……時間が止まったみたいだった。
やがて、風が一度だけ吹いた。
視界が少しずつ晴れていく。
そこにいたのは──真っ黒こげのシャンディ。
ボロボロの魔法バリアを必死に展開したまま、
立っている……いや、立っていた、が正しい。
「……コフッ……」
小さく咳をした彼女が、私を見た。
その目には、“理解不能”と“トラウマ”が共存していた。
次の瞬間、地面を転がり、
そのままピョン、ピョン、ピョンッと、遠くへ跳ねて消えた。
うん、もう帰ってこない。
湖? 今はただの“巨大な乾いた穴”。
木々? 三十メートル圏内、消滅。
空? まだバグったまま、ピクセルみたいに光ってる。
「……ふ、ふわぁ……」
声にならない息が漏れた。
立っているのもギリギリ。
視界の端がにじむ。
(……やっぱ、限界か。)
世界がゆっくり傾いた。
重力が、私を抱え込むみたいに優しかった。
……そこで、意識が途切れた。
視点が戻る。
あの三人の声が、遠くで混ざって聞こえた。
「……気絶したな。」
気むうの声。いつも通り、淡々としてる。
「喜んでいいのか、心配すべきなのか……」
フルカフトが眉をひそめる。
「むむむ……まあ、よくやった方だな。」
マイルズが浮かんで近づく音。
風が再び吹いた。
焦げた土の匂いが鼻をくすぐった。
……そう。
爆発が“成功”したら、
一回しか、できへん。
でも、
“成功”して、
“伝説”になったら──
……もうそれで、ええやん。




