第INTER-3話
夜はすっかり、空の隅々まで染みこんでいた。
黒い雲のむこうで、星さえも息を潜めている。
昼間は──いつも通り、姉さんが爆発していた。
あの中国風の少女と、「ドビッチ」とかいう謎の単語を叫び合いながら。
……ほんと、意味がわからない。けど、まあ、姉さんらしい。
日が沈む頃、マイルズが魔法で簡易テントを作ってくれた。
毎晩のことだ。
フルカフトは早々に寝息を立て、姉さんも転がるように布団へ。
……でも、今夜は、どうしても眠れなかった。
みんなが静かに眠っている。
私はそっと寝袋から抜け出した。
誰も起こさないように──まるで、薄いガラスの上を歩くみたいに。
少しだけ手こずったけど、なんとかあの小さな布の家から外へ出ることができた。
運がよかったのか、あるいはただの偶然か。
今夜のキャンプ地は、小さな小川のそばだった。
森の中、果実の香りがほんのり漂う場所。
……考えごとをするには、ちょうどいい。
風は穏やかで、冷たすぎず、湿った夜気とよく混ざり合っていた。
私は近くの木にもたれて座り、
月明かりのかすかな光で照らされた水面を、静かに見つめた。
流れる音だけが、世界の境界をなぞっていた。
小川の流れは、不規則に揺れていた。
それは、この世界があの日からずっと抱えている「現実のひび割れ」のせいだ。
……それでも、私たちはもう慣れてしまった。
物理法則が壊れても、空間が反転しても。
それを「異常」と呼ぶ感覚すら、どこかへ消えていった。
グリッチに侵されるか、魔法にねじ曲げられるか──
どちらにしても、現実は今日も“矛盾のまま”動いている。
人間という生き物が、これほどまでに異常を日常へと“慣らせる”存在だなんて、
……研究対象としては、相当興味深いと思う。
そうして、そんな「異常」にも慣れてしまった自分を自覚したとき、
なぜか──まったく関係のないことを考え始めていた。
ありふれた、でも人間らしい問い。
「……幸せって、なんやろ。」
小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
何百年も前から、人はこの問いを繰り返してきた。
哲学者たちは語り、
科学者たちは分析し、
祈る者たちは、それを神と結びつけようとした。
けれど──結局、誰も“説明”できなかった。
「幸せだ」と感じる者ほど、
どうしてか、その理由を言葉にできない。
そうして、世界中の誰もが知っている“はず”のこの言葉は、
形のないまま、空気みたいに漂っている。
定義できないのに、誰もが理解しているふりをする。
……そんな、空虚な概念。
『……また哲学してるの、気むう?』
頭の奥で、やわらかな声が響いた。
空気が少しだけ揺れた気がして、思わず息を呑む。
「……あっ。」
反射的に声が漏れた。
この声を、聞き間違えることはない。
白の薔薇──ルッチアだ。
『あなたの仲間たちは、もう眠っているみたいね。
どうして、あなたはまだ起きているの?』
「……眠れなくて。それだけ。」
『そう。それだけ、ね。』
ルッチアの声は、頭の中にやさしく溶けていく。
言葉というより、感覚に近かった。
穏やかで、でもどこか確かな響き。
『……さっき、“幸せ”について考えてたのね。違う?』
「……うん。幸福っていう概念そのものを、少し。」
『それで、何か結論は出たの?』
「今のところは……あまり。どうして、誰もはっきり定義できないのか、不思議で。」
『ふふ。“幸せであること”自体が、すでに定義なのかもしれないわ。』
「……どういう意味?」
『たとえば──“赤”をどう説明する?』
「……赤は、色。」
『それじゃ曖昧ね。もし私が“目の見えない存在”だったら、
どうしてそれが青や緑や黄と違うとわかるの?』
「……それは……」
『この世界には、“経験しなければ理解できない概念”があるの。
幸せもその一つ。それ自体が刺激であり、感じることでしか存在できない。』
『……まあ、私の意見にすぎないけれどね。
薔薇だからって、何でも知っているわけじゃないのよ。』
「……そう、なんとなく分かる気がする。」
ルッチアの言葉を反芻する。
意味は単純なのに、妙に心に残った。
「……じゃあ、“幸せ”って、どうすれば手に入るの?」
『……あなた、幸せになりたいの?』
「……うん。たぶん、そう思う。」
『なら──笑いなさい。』
「……え?」
『そう。無理にでも、笑ってみて。
“あ、今笑ってないな”って思ったときに、もう一度笑えばいいの。』
「……それって、自分をだましてるみたい。」
『だます?いいえ、違うわ。
幸せになりたいなら、笑えばいいの。
どうして笑ってるのかなんて、理由はいらない。
最初はぎこちなくても、少しずつ心が追いついてくる。
そうやって、脳も世界も、“笑うあなた”に慣れていくのよ。』
「……そんなの、意味あるの?ただの“ふり”じゃない。」
『もちろん、“ふり”よ。
人はずっと幸せでいられるわけじゃないもの。
でもね──たとえ心が空っぽでも、笑うことはできる。
私は時々考えるの。幸福って、“一瞬の状態”なのか、
それとも“続いていくもの”なのかって。』
何も言えなかった。
ただ、揺らめく水面を見つめながら、
その言葉の残響をゆっくりと飲み込んでいく。
──状態か、持続か。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく気がした。
『……あとは、あなた自身で考えてみて。愛しい気むう。』
ルッチアの声は、やわらかく頭の奥でほどけていった。
まるで波が引くように、静かに──そして完全に、消えた。
……これが、“答え”へ近づく一歩なのだろうか。
けれど、まだ分からない。
心の奥で、小さなざわめきだけが残った。




