偽眼
微風のような近未来的な機械音で目が覚めた。この機械音は頭の上からきているようだ。辺りを見回すとコンクリート剥き出しの部屋の中にいた。頭の横の丸椅子に座ってナースがバインダーの上の書類に何かを書いていた。そうか、自分は寝ていたのか。部屋の入り口のドアの上にかけてある簡素な時計によると1時間ほど眠っていたようだ。
「目が覚めましたか。検査したところ問題はないようです。お疲れ様でした。」
眠っている間に悪夢でも見たのか、脳が疲れ切っていて考えることが億劫に感じた。ナースに促されるまま、おぼつかない足取りで病室の荷物を取りに行って受付を済ませて帰路に着いた。
我が家は電車の特急が止まるくらいのやや都会の駅から車で十五分ほど離れた住宅街と田園が混ざったような場所にある築二十年ほどの一軒家だ。数年前に今の家に引っ越した。ちょうどいいバスがなく、次のバスが三十分後だったので、歩いて帰ることにした。
駅前はそれなりに栄えていて、最近流行っている油の多い豚骨ラーメンが看板メニューのラーメン屋の前には大学生くらいの若者の行列ができていた。店の中を少し覗くと若い男たちが汗まみれになりながら目の前の糖と脂の塊に食らいついていた。あまりに一心不乱に食べているのを見ると、幼い頃見た映画で豚になった人間が本能のまま餌を貪っているシーンに見えてきた。映画の中で豚は結局肉になってしまうのでその人たちを見ているとなんだか心配になってきた。その店を通り過ぎる時に店前の換気扇からくる脂っこく生ぬるい空気を吸って、この空気だけでカロリーを摂った気がして食欲がなくなった。
少し古びてボロが出始めた商店街を抜けると住宅街が広がっている。家までの道のりはこの住宅街が田んぼ混じりになるまでひたすらまっすぐ歩くだけなので覚えやすい。
郵便局を通り過ぎてすぐに我が家がある。赤い屋根で外壁は元が白かったものが築年数の蓄積で少し灰色がかっている。門の横には家を削って作ったような車一台分の日除け付きの空の駐車場がある。今、家族は家にいないようだ。今の家には庭はついておらず、申し訳程度の小さな煉瓦の花壇に居心地の悪そうなパンジーが数束生えている。
灰茶のドアを開けて中に入ると電気はついておらず、外の光だけで十分なくらい日当たりのいい玄関がある。玄関を上がってまっすぐ行って右に階段があってそれを登って奥にまた進むと自分の部屋がある。部屋は日当たりがいいわけではないが、太陽の光で時間がわかって、自分が何もしていないことに気付かされ憂鬱になるのでカーテンは大抵閉めていた。同窓会に行ったあの日も閉めて出たはずだが、今は全開になっている。親が開けたのだろう。
窓の前には部屋に対してやけに大きい机が置いてある。小学生の時に父親が勉強机として買ったものだ。子供には少し高い机だったが、大きくなっても使えるようにと高めの椅子とセットで買ってくれた。今では昔読んでいた小説や高校の教科書が未だに無造作に積み重なっている。その中で一つ表紙が黒い皮でできている日記があった。中学生ごろに父が仕事用に買ったが使わずに余ってしまったものを貰ったのだ。些細なことも書いていたが、主に辛いことがあるたびそこに書き記していた。人前で涙を流してSOSを出せない代わりに日記の向こうにいるいつかの自分に向けて呪いのように描き記していた。引きこもるようになってからはいちいち書く気力も無くなったのだが、久しぶりに今日まであった出来事を書いてみようか。
今日の日付を探そうと日記をパラパラめくると1ページだけやけに黄ばんでしわくちゃな1ページが目についた。
ーそれは高校一年生の秋だった。