鮮やかな不条理
高校に入学してから劣等感が募りに募って元々別に高くなかった社交性がより沈み始めていた頃、毎年クラス替えがあり、二年生の4月中旬頃、席替えで一番後ろの窓側の席になったのだが、前の席になったのが川瀬だった。彼は背が高く、痩せていて、顔が小さく目ははっきりとした二重で髪まで艶があり、まるでモデルみたいだった。頭は自分なんかより全然良い。最初の方はやはり彼は人気者で何よりすごいのが、チヤホヤされているというよりは彼自身の持ち前の明るさにクラスメイトが惹きつけられているのだ。人間としてあまりに出来過ぎていて彼には最早、劣等感なんてさらさらなく純粋な尊敬の眼差しを向けていた。彼が「最近暑過ぎね?」と独り言を言っているのかと思ったら、まさか自分に向けて話していたと気づいた時なんかはこんな自分に話しかけてくれるなんて凄すぎると思った。そう言いながらホームルームで配られたやや厚めのプリントでこちらを仰いできた時にはもう感動してしまった。荒んだ心で捻くれたものの見方しかできない自分にとって彼の挙動は理解できず、どんな些細なことでも毎回驚かされていた。そこで悟った。神は人に平等には才を与えないのだ。でも、それでよかった。今まで自分を苦しめていた自分の力不足は当人の努力不足という信仰の檻が、いとも簡単に崩壊したからだ。他人を心から尊敬するなんて人生で初めての経験だった。美しいものを美しいと思える綺麗な心が自分の中にまだ残っている気がして、彼を眺めている時は自分が好きでいられた。
自分から話しかけることはあまりなかったが、席が近いというのもあって彼はよく話しかけてくれた。一つ、知り合ってからすぐの印象に残っている会話がある。
「橘ってさー、兄弟いるの?」
「二つ下の弟が一人いるよ。」
「確かに長男っぽいよな。」
「え。」
長男っぽいなんて初めて言われた。自分が長男だと知ったら意外そうな顔をする人間しか知らなかった。長男だったら普通面倒見が良くて色んな人に話しかけるものなのではないか。自分は真逆の人物像だった。
「だって色々苦労してそうだからさ。」
自分はそんなに疲れ切った人間に見えているのだろうか。まあ、あながち間違いではないけれど。
「そんなに苦労人の顔に見える?」
「いや、勘。」
適当に流された。
「なんだよ。それなら川瀬は兄弟いるのかよ。」
「いるなんてもんじゃない。こちとら5人の長男だぞ。しかも男他にいないし。」
意外だった。川瀬はいかにも両親からの愛を十二分に受け、大事そうに育てられてきた人間にしか見えないからだ。でも、まあ女子の扱いには慣れてそうだし、納得する部分もあった。
「意外。」
「なんでだよ。」
「なんか満たされてそうだから。」
「なんだよそれ。兄弟いたら不幸になるのか。」
「いや、勘。」
「なんだよそれ。」
どうでもいいような会話だったが、今思い返せば彼の核が見える会話だったし、その時の彼の目の奥の暗闇を無意識に見ないようにしていた自分がいた気がする。
学校を休むことは度々あったが、川瀬にその理由を深く追求されたことは一度もなかった。
川瀬との何気ない日常はそう長くは続かなかった。
ある日、彼と仲のいい他クラスの女子がいるという噂が流れてきたのだ。この頃には席が変わって彼と席は離れ、自分も学校に行く頻度が落ちてきていたのでこれは誰かから直接聞いたわけでもなく、休み時間に声の大きい男子グループが話していたのが耳に入ったのだ。他クラスの人間の名前はあまり知らなかったので、良く覚えていないが、確か下の名前は花みたいな、確か、「百合」だった気がする。川瀬は明らかにモテる側の人間だし、そういう噂が今まで無かったことの方がおかしいくらいだろう。だから、その噂には対して驚かなかったが、その頃からなんだか川瀬がおかしくなっていった。
授業中もよく机に突っ伏して寝ているし、あの一切欠けるところのない顔もやつれていた。帰り道にたまたま会っても授業とかテストのこととか当たり障りのないことばかりを話すようになったし、笑顔も異常に減った。何かあったのか尋ねても気のせいだと言って何も話してくれなかった。自分はその頃には週2ほどしか登校できていなかったので、彼の変化に人一倍敏感だった。
そんな日々が二ヶ月ほど続いたある日、あれは雷雨前の生温かい気味悪い空気が背中に汗を薄らとこびりつかせるような午前中。終業式の日だった。教師陣がざわついていたのを覚えている。帰りのホームルームでそれを聞かされた。
川瀬が自殺したのだ。