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底なし沼

 小さい頃は生き物が好きだった。家は田舎と都会の中間くらいの住宅街の一軒家で、自然豊かな環境だったかと言われるとそうでもなかったが、家には小さな庭がついていてそこに生えてる細長いヒメシャラの根本辺りの蟻の隊列が川のように流れる様子や子供の自分が一生懸命虫取り網を伸ばしても届くまで程遠いような高さで塀に囲まれて四角く見える空を踊り舞うのをよく眺めていた。近くの公園にいるヤモリを捕まえてきては飼いたいと言って虫嫌いの母親を困らせたこともあった。大抵、相当な都会暮らし出ない限り子供は生き物が好きなものだ。でも、自分は戦隊モノだとか仮面ライダーとかはすぐに飽きたのに、生き物だけはずっと好きだった。アリやカブトムシは人間と違って自分を品定めするような目で見てこないからだ。彼らの判断基準は自分の繁殖・生存にとって相手が敵か味方かだけである。

 父親は大学受験に失敗し、地元の大学を卒業し、数年サラリーマンをやった後、祖父母が営む地元の家電量販店を継ぎ、20歳半ばで大学時代から付き合いのあった母と結婚した。自分が生まれたのはそれから三年経った頃である。父は社会に出た時に学歴で苦労したからか、世間一般では母が教育に厳しいことが多いのに、自分の家庭では父がやたらと英才教育に熱心でだった。英才教育が始まった瞬間を今でも覚えている。

 ある日、自分が庭で小さなバッタを眺めていたら、父が家の中からガラス窓を開けて呼んできた。父の脇腹には子供用の足し算ドリルが挟まっていた。最初は別に勉強が嫌いなわけではなかった。問題が解けると父は自分のことのように喜び、褒めてくれた。ドリル一冊が終わったら好きな本を買ってくれることになっていたので、ドリルが終わるたび、漫画や生き物図鑑を買って何度も読み返していた。

 だが、いつの間にか父から褒められることが少なくなっていった。特別頭のいい両親から生まれたわけでもないこの頭脳では年齢に見合わない勉強についてはいけなかった。だんだんドリルでも間違えることが多くなり、進みも悪くなっていった。父は間違えるごとに不機嫌になり、出来のいい二つ違いの弟を褒め出すようになっていった。この頃から自分が絶望され、見放されることへの恐怖が膨れ上がっていた。そういった状況が続き、ある日いつもと同じように父が弟を褒め出した時、何かが爆発して弟に殴りかかった。明らかにこの状況を作り出したのは父なのに、自分が攻撃したのは弟なのだ。なんとも情けない。その時、父に初めて打たれた。今まで手を一切出してこなかった父にだ。子供ながらにショックでその日から父とも弟とも目を合わせなくなった。

 母はといえば、建設業の子会社の社長の娘でバブルの波に乗って成り上がった家庭であり、どちらかといえばお嬢様だったのだろう。父とは大学生の時に友人の紹介で出会ったらしく、祖父の会社の事務を寿退社して専業主婦をやっている。母は家事が得意で人当たりも良かったが、気が弱く、父に口答えするようなことはほとんどなかった。自分が勉強がわからず、父に絶望されることへの恐怖と悔しさで泣いていた時も気まずそうな顔をしながら、臭い物に蓋をするようにいつも通りに口を出さず、過ごしていた。

 幼い子供は親を疑うということを知るはずもなく、親戚からも教育熱心な父親と顔が良く人当たりのいい母から成るこの家庭は大変評価されていたので、自分の親は世間一般的にまともだし何もおかしいとは思っていなかった。家での勉強が多少うまくいかないとは言っても小学校に通い始めると周りよりも圧倒的に勉強ができていたし、先生からの評価を気にしていたのでとても真面目で模範的な生徒だった。習い事でやっていたテニスも真面目なせいか、みるみるうちに上達していった。成績が良くてもそこまで経済的に余裕のある家庭ではなかったので、中学受験はせずに地元の中学校に通った。中学校でも成績は学年でトップ5には常に入っていた。部活のテニスでも全国大会まではいけなくとも、校内ではトップだったし、県大会でもベスト8まで行くことができた。先生からの評価もよく、この頃は親に勉強をみられることは無くなったため、純粋に成績の良さを評価されていた。大人からの評価が高かったのだ。良く評価される分には気分がいい。そして評価される自分には価値があると誇りに思っていた。

 しかし、この井の中の蛙ほど小さな箱で育った危うい価値基準による自信はそう長くは続かなかった。

受験を終え、県内で一番頭のいい公立高校に入学したのだが、そこには自分よりも頭がよく、才能に溢れた人間がたくさんいたのだ。どんなに頑張っても追いつけないし、そういう生徒たちに限って自分より遥かに自由に、大人たちの目を気にせず生きていたのだ。それに気づいた時、どれだけ羨ましくいつまでも他人の顔色ばかり気にする自分への自己嫌悪で胸がいっぱいになったか。そう言った同級生を見るのが苦しくて、気づいた時にだんだんと学校を休むようになっていった。学校に行こうとしても喉が閉まる感じがして、吐き気を催してしまうのだ。別にいじめられているわけでもないのに学校に行けなくなる自分の惰弱さが嫌いだったし、何よりもどんどん不登校になっていく自分をみて失望する父親を見るのが激しく苦痛だった。一応親として心配の言葉をかけられたが、学校に行けない理由なんてみっともなくて話せず、心配に隠れている失望が見えてしまって親と話すのも苦しかった。

 そんな悪循環の沼の中で一つだけ自分の生きる意味があった。この名前は一生忘れない、川瀬 蓮。

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