悪夢の中で 詠子の章 終
「だいぶ、良くなってきましたね」
「ふふっ、玉藻のおかげです」
迦楼羅と詠子の戦いから数日、玉藻のもとに集まった妖たちが小規模ながら里を作り始めていた。二人はそうやって作られたあばら家の一棟を借りている状態である。
「揺はどこへ? 」
「やることがあると残してふらりと行ってしまいました。本当に雲のようなお方ですね」
「そうでしたか…… 」
薬湯を飲む詠子。玉藻は書き物に手が離せない様子で文机に向かって筆を走らせていた。
「……詠子様、私は決めました。ここを妖たちの安住の地とするのです」
「……守る、というのは常に辛いものですよ? 」
詠子のたしなめるような返答に筆が止まる玉藻。沈黙の隙間を虫の音が通り過ぎていく。
「分かっています。しかしこの覚悟を決めるきっかけになったのは……貴方ですよ、詠子様」
「それは、また申し訳ないことをしましたね」
「いいえ、これは…… いえ、私の個人的な部分です」
「そうですか。なら深くは聞かないでおきましょう」
玉藻から目を離し、月を見上げる詠子。いつの間にか書き物を終えた玉藻は音を立てずに詠子の隣に腰を下ろした。
「このままではあなたの命は擦り減らされていく…… 詠子様、あなたも留まる事をお勧めします」
「そう言ってくれるのはありがたいのですが、もう一つ、やらねばならないことが残っているのです」
「…… 」
詠子の目に宿る覚悟を察し、玉藻はそれ以上言葉を続けることを止めた。二人はしばらくそうして黙ったまま月を見上げてたまま、ついぞ口を開かなかった。
・・・・・・・・・・
翌朝、朝日が出ないうちには詠子は玉藻の元を出立していた。半刻もしないうちに里のある山を降りきろうとしていたその時、詠子はふと足を止めた。
「……揺? 」
「気付いたか」
陽炎のように目の前が歪み、まばたきするうちに揺が目の前に現れた。
「……何故分かったんですか? 」
「こいつが教えてくれた。お陰で慌ててねぐらを飛び出す羽目になったがな」
左手に握られていたのは二つに割れ、まだうっすら表面の血が乾ききっていないお守りであった。勿論見覚えがある。
「それは…… 」
「あんたを運んでる時に拝借してたんだ。こいつの役目自体は終わったれだろ? 」
「えぇ」
袖にお守りを仕舞い込み、揺は黙って右手に持っていた打刀を詠子に投げてよこした。
「受け取っておいてくれ」
「ありがたく」
「じゃ、またな」
「えぇ、それでは」
静かに山道を下りゆく詠子の背中を、揺は何も言わずに見送った。
・・・・・・・・・・
「……貴方のお祖母様、詠子様はこうしてその命が消えゆく寸前まで戦い続けたのです」
「…… 」
「やはり、人が歩むには厳しすぎる道でした」
全ての欠片を見終えた二人は再び漆黒の闇の中で向かい合った。玉藻の目には万感の思いが目まぐるしく移ろい流れていく。
「詠子様がここまで戦い続けたのは、全てあのお方が背負わされてしまった責務故だったのでしょうね…… 」
「……違う。あの人が心から望んでやったことだ」
「でもそれでは!! あの人は報われぬまま命を削って…… 」
膝から崩れ落ちて号泣する玉藻の肩を抱き止める大翔。その腕は不思議と力強く、それでいて優しかった。
「そんなことはないと思う。だって…… 玉藻がここにいるじゃないか」
「……え? 」
「あの人は…… ばぁちゃんは、みんな守りたかっただけなんだよ」
「大翔様…… その目は……っ!? 」
玉藻を見つめる大翔の目は、焔のような輝きを湛えていた。そう、まるで詠子の様に。
「お待たせ、ここから出よう」




