俺の片想いが報われない件
初めての小説投稿です。暖かい目で見て頂ければ幸いです。
中の上の学力に中の下の運動神経。ブサイクではないがイケメンとまではいえない顔。クラスでいじめられている訳ではないが大きなグループに属している訳でもない。文化祭の打ち上げには呼ばれるけど、友達同士の旅行には呼ばれない程度の存在感を持つ高校2年生。
そんな俺、川崎佑真は学校で一番の美少女だと名高い白石まどかに恋をしている。
煌めく銀の髪に透き通るような白い肌、美しい顔立ち。ひとたびすれ違えば振り返らない男はいないのではないかと思わせる風貌。
学年トップの学力に、帰宅部でありながら運動部のエースにも引けを取らない運動神経。同級生のみならず先生方からも信頼されている人間性。おまけに父は日本でも指折りの一大グループ企業のトップという、なんでもありのお嬢様。それが白石まどかである。
昨年、俺は白石さんと同じクラスだった。その美しさもさることながら、文化祭の時にクラスの先頭に立ってみんなのために献身的に働く白石さんの姿を見て俺は彼女に恋をした。
しかし、高嶺の花の白石さんと有象無象の中の1人である俺。学年が上がり、同じクラスという接点を失えば、常に周りに人がいる白石さんに近づくことは容易ではない。
そこで俺はある秘策を思いついた。
白石さんは平日の放課後はいつも、とあるファミレスで勉強をしている。
なぜ俺が知っているかというと、そのファミレスは俺の通学路の途中にあるため、部活帰りに毎日その姿を目撃していたからだ。
そしてこの4月から部活を辞めた俺は今日からそのファミレスでアルバイトを始めるのだ。
そのことを親友である西岡くんに話すと、「それはストーカーじゃないのか」という的外れなご指摘を受けた。
「これはストーキングではない。白石さんと会話する機会を作ろうとしているだけだ」と高らかに宣言すると、西岡くんは「ストーカーはみんなそう言うんだよ」と頭を抱えていた。
まったく、付き合ってもいない人の帰り道をつけるような人と一緒にしないでもらいたいものだ。
バイトを始めて三十分ほど過ぎると、予想通り白石さんが店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
俺と目を合わせた白石さんは、信じられないものを見たような表情をしていた。
「えっ?川崎くん!?」
「俺の名前覚えてくれてるの?」
「当たり前だよ!去年の文化祭の時も裏方で頑張ってたじゃん!」
昨年一年間同じクラスだったにもかかわらず、俺と白石さんが会話をすることは片手で数えられるほどしかなかった。それにもかかわらず白石さんに認知されていたという事実に心が躍ってしまう。
「その格好どうしたの?」
「今日からここでバイトをすることになったんだ。とりあえず席まで案内するね」
「う、うん」
白石さんは少し顔を赤らめて俯いていた。顔見知りの接客を受けるというのは人によっては恥ずかしく感じることがあると聞く。白石さんもそういう気持ちなのだろう。
席へ案内する途中、白石さんは俺に質問をしてきた。
「川崎くんはどうしてバイトを始めたの?」
「えっと……実は俺好きな人がいるんだ。その人と接点を持ちたくてここで働くことにしたんだ」
白石さんに隠し事はしたくないが、さすがに本人の名前を出すわけにはいかないので、好きな人の部分だけを伏せることにした。
「――えっ!?……そ、そっか……そうなんだ……」
先ほどとは打って変わって白石さんの表情は青ざめていた。
ひょっとして白石さんは体調を崩しているのではないか。俺は帰宅を勧めたが、白石さんは「大丈夫だから」の一点張りで帰ろうとはせず、いつもの席で何時間も勉強を続けていた。
帰り際に白石さんは質問をしてきた。
「ねぇ川崎くん。素朴な疑問なんだけど、その研修バッジはいつになったら取れるの?」
「店長は一か月くらいって言ってたかなぁ」
「一か月後かぁ…………それじゃあまた明日」
白石さんは笑顔で手を振りながら店を後にした。
次の日も、またその次の日も、白石さんは俺がバイトをしている日は毎日ファミレスにやってきてくれた。
◇
俺がバイトを始めて一か月後、悲劇が起きた。
「今日からここでバイトをすることになった白石まどかです。よろしくお願いします」
なんと白石さんが同じファミレスでバイトを始めたのだ。しかも同じホール担当ということもあり、研修期間を終えた直後の俺が白石さんの教育係になったのだ。
そのことを西岡くんに伝えると「よかったじゃないか」と言ってきたが、何が良いのだろうか。確かに俺と白石さんが話す時間は増えるが、俺と白石さんの関係は職場の先輩と後輩になってしまったのだ。
先輩と後輩という立場を利用して男女としてお近づきになるのはセクハラやパワハラになる可能性もある。そんなことをするバイトを雇っているということが広まればお店にも迷惑をかけることになってしまう。
「そういうところに気が遣えるのになぜストーカーであることを自覚できないんだ」と西岡くんは嘆いていたが、付き合ってもいない人の私物を盗む性犯罪者と一緒にされるのは甚だ不本意である。
白石さんの研修業務は順調に進んでいった。成績優秀な白石さんは物覚えもよく、わずか一週間でほぼ全てのホール業務をマスターしていた。
ある日の仕事終わり、俺は前々から疑問に思っていたことを白石さんに聞いてみた。
「白石さんはどうしてバイトを始めたの?」
「え、えーと…………あ、そうだ、おこづかい!このファミレスで勉強しすぎちゃっておこづかいが無くなりそうだったの」
白石さんはしばらく視線を泳がせた後に、思いついたように話し始めた。
白石さんの家はお金持ちなのでおそらく嘘だろう。
だが、言いたくないことを無理に追及して好感度が下がっても仕方がない。「そうなんだね」と適当に流すことにした。
「そ、そういう川崎くんはどうなの?好きな人と仲良くなれた?」
今度は逆に白石さんが尋ねてきた。少しびくびくしているのは気のせいだろうか。
「話す時間は増えたけど、距離は変わらないかなぁ。むしろ遠くなったかも」
教育係として白石さんに業務を教えるので先月に比べて話す時間は圧倒的に増えたが、それはあくまでも事務的なものであり距離を縮めることはできていないように思える。
「そうなんだぁ。大変だねぇ」
労わっているかのような言葉とは裏腹に白石さんの表情はどこか嬉しそうにも見える。
俺の恋の進展が芳しくないことで嬉しそうな表情をするということは、俺はもしかして白石さんに嫌われているのではないだろうか。
白石さんを見送った後、一人きりになりその事実に気が付いてしまった。
ショッキングな事実ではあるが、もうすぐ白石さんの研修期間が終わる。そうすれば教育係という上下関係がなくなり、俺と白石さんは普通の職場の同僚となる。
同僚同士の恋愛について店長は寛容らしい(白石さん談)ので、一般的モラルさえ守れば一気に距離を縮めるチャンスとなる。幸いにも白石さんのシフトは俺と全く同じなのでそのチャンスはたくさんある。
(本当の戦いはここからだ!)
更衣室の中で俺は決意を新たにした。
「あれ?バイトの制服一セット減ってるような……気のせいかな?」
翌日に改めて制服の数を数え直したらいつも通りだったので、本当に気のせいだったのだろう。
◇
白石さんの研修期間が終了して三日後、新たな悲劇が起きた。
週五日のバイトで勉強時間が減少し、二年生最初の中間テストで大きく成績を落としてしまった。
幸いにも赤点は無かったが、成績が悪くなったことが離れて暮らす両親にバレてしまい、成績が元に戻るまでバイト禁止になったのだ。その上、バイトで稼いだ金で塾に行くか家庭教師を雇うように言われてしまった。
そのことを西岡くんに伝えると、「お前がストーカーで捕まる前にバイト辞めてくれてよかったよ」と泣いて喜んでいた。あの手この手で恋人でもない人の家に上がり込もうとする人類の最底辺と同一視するのはやめてもらいたい所存である。
「えっ?それじゃあ川崎くんバイトに来れないの?」
白石さんにも事情を伝えると、白石さんは両手を口に当て目を潤ませていた。
嫌われているのではないかとも思っていたが、いなくなることを悲しんでくれる程度には親しくなれていたようだ。
「うん、成績が良くなるまではバイト禁止になっちゃって……あと塾に行くか家庭教師を雇えって言われちゃったから……」
「大変なんだね……そうだ!川崎くんはもう塾か家庭教師か決めた?」
「いや、まだだけど」
「それならこの家庭教師がおすすめだよ。私もやってるんだけど――」
白石さんが教えてくれたのはとある家庭教師派遣会社であった
家に帰った俺はさっそく白石さんに教えてもらった会社のホームページにアクセスした。規模はそこまで大きくないようだが、大手の家庭教師よりもはるかに安価である。ネット上の口コミでもいい評判の方が多いし、何よりも成績学年トップの白石さんがやっているというのが決め手となった。
俺はその日のうちに登録をして家庭教師の申し込みをした。
申し込みをした次の日の朝には担当の先生が決まり、そこからさらに数日たった今日、早くもその先生が来てくれるということになった。
高校に入学してからは西岡くん以外を家にあげるのは初めてのことなのでどうにも緊張が収まらない。気持ちを落ち着かせるために延々と家の掃除をしていると、来客を知らせる電子音が鳴った。
マンションのエントランスに繋がるモニターを覗いてみると、予想外の人物が映っていた。
「家庭教師のアルバイトで来ました。白石まどかです。本日からよろしくお願いします」
なんと家庭教師としてやってきたのは白石さんであった。
外で立たせたままにしておくのも失礼なので、入り口を開けてもらい、白石さんを家の中に招き入れることにした。
リビングに入ったところで現状について尋ねてみた。
「なんで白石さんがここに?」
「えっとね、実は私、あの家庭教師の会社に先生として登録してたんだ。それでね、久々に“なんとな~く”家庭教師の募集のページを見たら、“偶然”家の近くの生徒さんの募集があったから、申し込んでみたら採用されちゃってね。それが“まさか”川崎くんだとは思わなかったよぉ」
なんと、白石さんがやっているというのは家庭教師の先生の方だったのだ。どうやらこの派遣会社では、白石さんほど優秀な頭脳の持ち主であればたとえ高校生であっても高校生の家庭教師になれるらしい。
しかし白石さんはファミレスのバイトもしている。掛け持ちして大丈夫なのかと尋ねると、
「こっちのバイトの方が時給良いからシフトを少し減らしてもらったの。ほ、ほら私がバイトをしているのっておこづかい目的だから」
ということらしい。この前は嘘なのではと疑問に思っていたが、おこづかいが欲しいというのはひょっとしたら本当なのかもしれない。
しかし、この状況は俺にとって大問題だ。
このままでは、今日から白石さんと俺は先生と生徒という関係になってしまう。先生と生徒の恋愛というのは、数多のラブコメディにおいて古来より禁忌として描かれてきたものだ。
それは現実の世界においても変わるところはなく、生徒に手を出した先生は例外なく処罰されてしまう。詳しいことは知らないが、おそらく家庭教師でも同じだろう。
つまり再び俺と白石さんは恋愛的な接触が許されない関係になってしまうのだ。
それはまずいと思った俺は、白石さんに帰ってもらうように告げると今にも泣きだしそうな顔になり、俺のシャツの裾を弱弱しくギュッと掴んできた。
「川崎くん。もしかして私のこと嫌いなの?」
「いや、嫌いじゃないよ……その、同級生に教えてもらうのって恥ずかしいから……」
「ほんとに……?じゃあ私が川崎くんの家庭教師になるのダメじゃない?」
「ダ、ダメ……じゃない、です……」
なんとか断ろうとするが、目を潤ませつつ今にも消え入りそうな声で頼み込まれてしまえば、俺に断る術など無いに等しかった。
「よかったぁ。それじゃあ今日からよろしくお願いします」
ホッと息をついた白石さんは頬を少し赤く染めてはにかんだ。俺の恋路が後退してしまうことになるが、白石さんを悲しませることなんて絶対にできない。
それに成績が上がれば家庭教師は続けなくてもいいと父は言っている。つまり来月の期末テストでいい成績を取って家庭教師の契約を更新しなければ白石さんと俺は先生と生徒でなくなるのだ。
たった1か月の辛抱だ。この1か月は勉強に専念することを固く決意した。
後日、白石さんが家庭教師になったことを西岡くんに話すと、「そんな偶然があるのか」と訝しげな表情をした。俺も全く不自然に思わなかった訳ではないが、白石さんが偶然と言っていたのだからきっと偶然なのだろう。
◇
最初はためらっていた家庭教師だが、いざ始まってみるといいことづくめであった。
まず合法的に白石さんの連絡先を入手することができた。学校中の男子が喉から手が出るほど欲している英数字の羅列をいとも簡単に入手してしまったのだ。
あくまで「家庭教師のため」の連絡先交換なのでプライベートな会話はできないが、白石さんが家に来ない日でもメッセージのやり取りができることになった。
白石さんとメッセージのやり取りがしたいがために、俺は勉強で分からないところを必死になって探すのが日課となった。
そして白石さんは毎回手作りのお菓子を持参して俺の家にやって来てくれる。
なぜお菓子を持ってきているかについて聞いてみると、「糖分を取りながら勉強すると効率がアップするから」らしい。
それならこちらでお菓子の準備をしようかと提案したのだが、食い気味に断られてしまった。
なんでもお菓子作りは花嫁修業の一環らしいのだ。しかし父親以外の男の人と関わることが滅多にないため、修業がうまくいっているのかよく分からないらしい。
そこで、この機会に男である俺の意見を聞きたいということだそうだ。
俺としては白石さんの手作りのものが食べれるので断る理由は無かった。
白石さんが作ってくるお菓子はクッキーやケーキなど多種多様であったが、どれも洋菓子店で売られているものに引けを取らない美味しさであった。
「今すぐにでもお嫁さんになれるよ」「白石さんの旦那になる人は幸せだろうな」
俺は自身の貧困なボキャブラリーから絞り出して最大級の賛辞を贈ると、白石さんは顔を赤くしたままホッと息をつく。きっと自分の花嫁修業が評価されたことに安堵しているのだろう。
ついでにいうと家庭教師を雇った本来の目的である学力も大きく向上した。白石さんの教え方はとても分かりやすい。授業中に理解できなかったことも白石さんに教えてもらえれば一発で解決できる。
しかし問題点もあった。
それは白石さんがどうしようもなく可愛いことである。白石さんは俺が問題を解く度に「すごいすごい!」と言って笑顔で拍手をしてくれる。その笑顔が可愛いのはもちろんのこと、簡単な問題でも1問解く度に自分のことのように喜んでくれるのだ。
その可愛さゆえに何度も「好きだ!」と叫びたくなったが、白石さんと俺は先生と生徒。恋愛関係になることは許されないのだ。喉まで出かかった自分の想いに蓋をして勉強に没頭した。
◇
それから1か月後、俺は期末テストで過去最高の成績を修めることができた。今までは240人中100位以内に入れば御の字であったのが、今回はトップ30の中に入ることができたのだ。
両親は「やればできるじゃないか」と言って、バイトの解禁と家庭教師を続けなくてもいいことを許可してくれた。
さっそく家庭教師の契約を更新しないことを白石さんに伝えると、白石さんは目を見開き絶望に打ちひしがれたような表情になった。宝石のように美しい碧眼は涙で潤んでいる。
「私のどこがダメだったの?悪かったことがあればすぐに直すから、辞めさせないで……」
白石さんは涙声で俺に懇願する。いったいなぜ白石さんはそこまで俺の家庭教師に執着するのだろうか。今の白石さんは今生の別れを拒むかのような必死さを感じさせていた。
「その、白石さんが悪いんじゃなくて、もともと成績が良くなれば家庭教師は続けない予定だったんだ。」
「川崎くんは私と一緒にいるの嫌……?」
「うっ……!で、でも家庭教師ってお金もかかるし、それに同級生にお金を払って勉強を教えてもらうのって情けないし……」
危うく1か月前と同じように白石さんに流されそうになるが、ギリギリのところで踏みとどまる。
このまま先生と生徒の関係が続けば、俺は高校卒業まで白石さんの彼氏になれないことになる。
それに、好きな人に頼りっぱなしというのは男として格好がつかない。
いくら白石さんが相手でもこれ以上は譲れないのだ。
「で、でも本当にいいの?また成績が悪くなったら新しく家庭教師をつけないといけなくなるんじゃない?」
それでも白石さんは引いてくれない。その上白石さんは痛いところをついてきた。
「それはバイトのシフトを減らせば何とかなりそうだし……」
俺がそう言った瞬間、白石さんの目の色が変わったような気がした。
「えっ?川崎くんまたバイト始めるの?」
「う、うん。週三シフトになるけどね。あのファミレスでもう1回バイトをやろうと思ってるんだ」
既に店長にはOKをもらっており、研修期間無しで来週から働く予定になっている。
そのことを伝えると、白石さんは口元に手を当てブツブツと呟きながら考え込んでしまった。
1分ほど考え込んだのちに、白石さんは少し早口になりながらある提案をしてきた。
「それなら川崎くんの希望通り家庭教師は辞めてもいいかな?でもその代わりにバイトの休憩時間を使って一緒に勉強会しない?家庭教師みたいに本格的なやつじゃなくて、宿題で分からないところを教え合うみたいな感じでのやつ。ほら、もうすぐ夏休みも始まるし。これくらいなら友達同士でもよくやるし、お金のやり取りも無しでいいから」
白石さんの提案は俺にとっても渡りに舟といえるものであった。上下関係なしに白石さんと合法的に会話ができる機会が得られる。しかもお金を払わなくてもいいし宿題も片付くというおまけつき。
一石二鳥とも三鳥ともいえるプランだが、一つだけ問題があった。
「でも俺が白石さんに教えれることなんてほとんどないし、一方的に白石さんに負担をかけちゃいそうでちょっと……」
白石さんは今回の期末テストでも全教科で学年最高点をたたき出し、学年1位の座をキープしているのだ。そんな天才に凡人の俺が教えることなんて一つもないだろう。
このままでは家庭教師という外枠が無くなっただけで、俺と白石さんの関係は今までと変わらないのだ。
「それなら」と、続けて白石さんは提案を重ねる。
「私は気にしないんだけど……あ、あのね。もし川崎くんがそこまで気に病むんだったら代わりに私のお願いを聞いてくれない?」
「お願い?」
「うん……バイト終わりに疲れたから肩を揉んでほしい、とか暗くなったから家まで送ってほしい、とか……ダメかな?」
白石さんは首をこてんと傾けながら聞いてきた。
勉強を教えてもらえる対価ではあるが、白石さんのためになれる。しかも白石さんの示してきたお願いは、俺にとってはご褒美といえるものだった。
白石さんと対等な関係でありながら一緒にいられる時間が増える、俺に断る理由など一つも無かった。
「分かった。白石さんの提案を受け入れるよ。これからもよろしくね」
「やったぁ!こちらこそよろしくね!!」
数分前の絶望した顔とはうってかわって、白石さんは満面の笑みを浮かべていた。
その眩しい笑顔に心を奪われながら、これからも白石さんと一緒にいられることに俺は胸を躍らせていた。
◇
七月も中旬を過ぎ、俺たちが通う学校も夏休みに入った。
部活動に所属していない白石さんは夏休みに入ると学校に来なくなるため、約一か月もの間、ほとんどの生徒は白石さんと会話する機会を失うことになる。
しかし俺は違う。週に三回もバイト先で白石さんと会うことができるのだ。しかもバイトが終われば休憩室で自由に会話することができる。お互いの誕生日や好きな食べ物の話など、会話の内容は他愛のないものであるが本当に楽しいひと時であった。
バイト中は面倒な客に言い寄られて困ったような顔をすることもある白石さんだが、俺と話しているときは優しい笑顔を絶やさないでいてくれる。きっと白石さんも俺との時間を悪からず思ってくれているのだろう。
もっと言うと、俺は白石さんとの距離が縮まっているという確かな手ごたえを感じていた。
白石さんは学校でも笑顔でいることが多いが、その笑顔は大人がお世辞を言うときに取り繕っているような不自然さを感じさせるものであった。
しかし、俺と二人きりで会話しているときに見せるのは、柔らかく温かみを感じさせる笑顔だ。こんな表情を向けてくれる相手は学校中探してもおそらく俺しかいないだろう。
約半年間、白石さんの観察を休み時間のルーティンワークにしていた俺の目に狂いはないはずである。
全ては順調に進んでいたはずだった。しかし悲劇はいつも突然やってくるものだ。
それは八月に入ってすぐの出来事であった。
「あのね、川崎くん。明日の夏祭りなんだけど一緒に行かない?」
いつものようにバイト先の休憩室で勉強会をしていると、頬を少し赤く染めた白石さんがおずおずと問いかけてきた。
白石さんと一緒に夏祭りに行ける、夢のような提案に心が弾む。
「も、もちろん俺でよければ行くけど…他には誰が来るの」
「え?私と川崎くんの二人だけだよ」
白石さんはさも当然であるかのように答える。
俺としては願ったり叶ったりの展開ではあるが、人気者の白石さんにとってはリスクもある。
「白石さんはその、嫌じゃないの?」
「どうして私が嫌だと思うの?」
「ほら、俺と二人きり夏祭りに行ってるのが誰かにバレたら、俺たちが付き合ってるんじゃないかって噂されちゃうかもしれないよ」
白石さんと付き合いたい俺としては二人きりでいる所を数多のライバルどもにアピールできる絶好の機会なのだが、勝手に根も葉もない噂を立てられるのは白石さんにとっても本意ではないだろう。
「そっか…そういう……もあるんだ…」
伏し目になって小声でブツブツと何か呟いていた白石さんは改めて俺と目を合わせ、
「うん。私のことは気にしなくても大丈夫だよ。それとも川崎くんは私と噂されるの、嫌?」
首をかわいらしく傾けながら尋ねてくる白石さんの言葉に被せ気味に答える。
「嫌なわけないよ!」
「それなら問題なしだね!川崎くん、明日はよろしくね!」
勉強会を終えた俺たちは帰り支度をしながら明日の夏祭りについて話し合っていた。
「私ね、友達と夏祭りに行くの初めてなんだ」
「意外だね。白石さんっていつも誰かに囲まれてるからこういうイベント系の経験は豊富そうなんだけど」
「あはは……確かに色んな人に話しかけられるけど、一緒に遊びに行くほど仲の良い友達はほとんどいないんだ」
白石さんは高嶺の花であるがゆえに同性の女子であってもおいそれと近づけない存在なのだろう。
そんな白石さんにとって、初めての夏祭り体験が俺というのは光栄なことではあるが不安なことでもある。
「本当に俺と二人きりでいいの?俺の友達とかも呼ぼうか?」
「そ、それはダメ!明日は川崎くんと二人がいいの……」
「白石さんが言うなら呼ばないけど……どうして?」
白石さんは他の人を呼ぶことを頑なに拒む。
俺と二人きりがいいということはひょっとして期待してもいいのだろうか……
そんなことを考えていると白石さんは意を決したように叫んだ。
「え、えっとね、これはデートの練習だから!」
「デ、デートの練習?」
予想だにしなかった言葉が白石さんの口から出てきたので思わずオウム返しをしてしまう。
「うん。私ね、今まで一度も男の人とお付き合いをしたことがないの。それでね、もし付き合うことになったら初デートに行くでしょ?そのときに迷惑をかけたくないからその予習をしたいなぁ、って」
天国から地獄とはこういうことを言うのだろう。
きっと白石さんには好きな人がいて、俺はその人とうまくいくための練習台だったのだ。
そのことに気付いた瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚がした。
白石さんと話していて胸が苦しくなることは多々あったが、その時に感じるのは苦痛ではなく心地の良いものであった。
しかし、今の胸の苦しさは全然違うものだ。あまりの痛みに呼吸のリズムが大きく乱れる。
「川崎くん!大丈夫!?」
俺の様子がおかしいことに気が付いた白石さんが近づいてくる。
「はぁはぁ……な、何でもないから、白石さんは気にしないで……それよりどうしてデートの練習の相手が俺なの?」
気持ちを悟られないように何とか呼吸を整えつつ話題をそらすことにした。
「……私、男の人は苦手なんだけど、川崎くんはいつでも私に優しいでしょ?いつもしつこいお客さんに絡まれてるのを助けてくれるし」
「そんなの当たり前のことだよ。それだけで信頼されるのはかえって不安なんだけど――」
「それを当たり前って言えるから川崎くんは信頼できるんだよ。川崎くん以外の男子って親切なことをしてくれたと思ったらすぐに見返りを求めてくるの。でも川崎くんはそんなこと絶対にしないでしょ?」
俺としては白石さんが言うような男がいること自体が信じられなかった。感謝の気持ちや弱みに付け込むなんてストーカーにも引けを取らない下劣な人間ではないか。
彼らのおかげで俺は白石さんから信頼を置かれているものの、今回はそれが裏目に出てしまった。
白石さんに「信頼できる人」と認識されてしまったことで、俺はデートの練習台になってしまったのだ。
白石さんと俺以外の誰かが付き合うための練習なんて死んでもやりたくないが、一度引き受けてしまった以上、俺は役目を全うしなければならない。
それに白石さんの夏祭りデビュー、嫌な思い出にはしたくない。
心の中の黒い感情を隠して俺は無理に笑顔を作る。
「白石さんにそこまで信頼してもらえるなんて本当にうれしいよ。明日は絶対に白石さんに楽しんでもらえるように頑張るから!」
「私の我儘に付き合ってくれてありがとう。明日、楽しみにしてるね!」
俺だけに見せる柔和な笑顔を見せて白石さんは帰っていった。
家に帰った後、苦しみに耐えかねた俺は西岡くんに電話をかけた。
今日の顛末について説明すると、西岡くんは「もしかして白石さんが好きな人はお前なんじゃないか」という見当違いも甚だしいことを言いだした。
もし仮に白石さんに俺以外の好きな人がいるのならば、俺と二人きりで大勢の人が集まる夏祭りに行くはずがない。そんなことをしてしまえば好きな人にあらぬ誤解を与えてしまうから、というのが西岡くんの主張だ。
西岡くんの指摘にしては珍しく一理あるが、白石さんは日本有数の大企業のお嬢様。その人脈は日本全国のみならず世界にも大きく広がっているはずだ。きっと白石さんの想い人はこの街にはいないから、俺とデートの練習をしても問題が無いのだろう。
「なんか違和感があるんだよなぁ……まぁ、明日は頑張れよ。ひょっとしたらお前のことを意識してくれるかもしれないぞ」
西岡くんには他にも引っかかる部分があったようだが、それ以上踏み込むことなく、俺に明日の幸運を祈る言葉をかけて電話を切った。
西岡くんに愚痴を聞いてもらっても現状は変わらないが、今のやり取りで俺はわずかに希望を見出すことができた。
西岡くんが言うように明日の頑張り次第では白石さんの気を引くことができるかもしれない。まだ交際には至っていないのだから俺にもチャンスは残っているのだ。
明日は白石さんの恋人役として全力を尽くそう、そう心に誓いながら布団の中で瞼を閉じた。
◇
明くる日の夕方。待ち合わせ場所に行くと、そこには浴衣を着た女神が立っていた。
藍色の浴衣は彼女の美しさを引き立たせ、後光が差しているかのようであった。
周りには人だかりができていたが、あまりの神々しさ故か。誰も声をかけようとしない。
その光景を眺めていると女神が俺の存在に気付き、手招きをする。
「川崎くーん。こっちこっち!」
さっきまで白石さんを見ていた男たちの視線が一斉に俺の方に向いた。その視線は嫉妬や憎悪を感じさせるものであったが、さほど気にはならなかった。白石さんと付き合うことができれば避けられない視線、そんなものとっくの昔にシミュレーション済みだったからだ。
俺は意を決して白石さんに声をかける。
「お待たせ。その、すごく浴衣似合ってるよ……まどかさん」
「ふぇっ!?川崎くん……今、私のこと下の名前で……?」
「ほら、今日はデートの練習でしょ?デートをする仲なら下の名前で呼ぶのが普通かなと思ったんだけど……ダメかな?」
デートの練習をしつつ、白石さんに俺のことを意識してもらう。そのために俺は今日、白石まどかの本物の恋人であるかのように振る舞うのだ。名前呼びはその第一段階である。
男子に嫌悪感を持つ白石さんにこの作戦は大きなリスクが伴うのは承知だ、しかし白石さんに好きな人がいると分かった以上、悠長にはしていられない。『デートの練習』という錦の御旗がある今日だけはグイグイ攻め込むことにしたのだ。
「そっか、そうだよね……今日はよろしくね……ゆ、佑真くん……」
男子の名前呼びは慣れていないのか、たどたどしくではあるが頬を赤く染めながら白石さんも俺を下の名前で呼んでくれた。
そこからは夢のようなひと時だった。
「佑真くん。人が多くてはぐれちゃいそうだから手をつないでもいい?」
「もちろん。でも今日はデートだからこうしない?」
俺は白石さんの指に自分の指を絡ませながら手を握った。
「こ、これって、恋人つなぎ?」
「デートの時はこれが定番らしいから…まどかさんが嫌ならやめ――」
「嫌じゃない!佑真くんと手をつなぐときはこれがいい!」
白石さんは俺の言葉を遮りながら、俺の手をギュッと握り返してきた。
「冷たくておいしーい!」
夏祭りっぽいものということで俺たちはかき氷を味わっていた。「超」が付くほどのお嬢様である白石さんに出店のかき氷が口に合うか不安もあったが満足してくれているようだ。
「佑真くんのメロン味もおいしそうだね」
「それじゃあ……」
スプーンで掬ったかき氷を白石さんの目の前に運ぶ。
「ゆゆゆゆ佑真くん!?これって…あの……カップルがよくやる……」
「ほ、ほら、これもデートの定番だから……もしかして人の使ったスプーンを使うの嫌?」
「他の男の子ならちょっと抵抗あるけど、佑真くんなら嫌じゃないよ」
「じゃあいくよ……あーん……」
「あ、あーん」
白石さんは俺の差し出したかき氷をおそるおそる口に入れる。
「ど、どう?」
「幸せな味がするよぉ……」
とろけた声を出した白石さんはというと、満足そうな表情を浮かべていた。
一通り出店を回った俺たちは夏祭りの会場から離れ、人気の少ない公園のベンチに腰を掛けていた。
いつものように他愛のない話をしていると上空で大きな音が響いた。
「あ、花火始まったね」
花火を眺める白石さんに俺は恋人として最後のお願いをした。
「ま、まどかさん。二人で一緒に写真撮りたいんだけど、いいかな?」
今日の楽しい思い出を何か形に残したくて、俺はツーショット写真をねだった。
「もちろんいいよ!撮影は任せて――」
白石さんはスマホを取り出すと、左腕を俺の右腕に絡め、俺の方に体を寄せてきた。
漂ってくる甘い香りと腕から伝わる柔らかい感触が俺の体温を急上昇させる。
「ほら佑真くん、笑って笑って!」
白石さんは俺の肩に頭を乗せながらシャッターボタンを押し続ける。白石さんと密着する部分がいっそう増えたことで、俺の脳内はオーバーヒート寸前になっていた。
「うん、これだけ撮れればいいかな」
満足のいく一枚が撮れたのか、白石さんは俺の腕に絡ませていた左腕をゆっくりと抜く。名残惜しい気持ちもあったが、このまま密着し続けていると俺の中で色々と耐えきれなくなっていたと思うので、俺はホッと息を吐いた。
練習とはいえ想い人と二人きりでデートができたことは、俺の人生史上一番楽しかった出来事だ。部活で初めてレギュラーを取った時や地区大会で優勝したときの喜びがミジンコのように小さく感じてしまう。今日という日は川崎佑真にとってそれほどまでに最高の一日だった。
しかし、楽しい時間にも必ず終わりがやって来る。
『本日の夏祭りは全てのプログラムが終了しました。皆様お気をつけてお帰りください』
街頭に備え付けられたスピーカーから、帰宅を促すアナウンスが流れる。
「もう終わりか……」
白石さんは名残惜しそうにぼそっと呟いた。
「まどかさん。今日は楽しかった?」
「うん。人生で一番楽しかったかも!」
「――そっか」
「人生で一番」というのはお世辞だろうが、彼女の満面の笑みを見る限り、今日のデートは成功であったのだろう。白石さんの気を引くことができたかは定かではないが、彼女を楽しませるという目標は達成できたに違いない。
一秒でも長く、この時間を味わいたかったがそうは問屋が卸さない。白石さんのお付きの人が黒塗りの高級車でお迎えにやってきてしまった。
「それじゃあまたバイトで」
「うん、それじゃあね」
白石さんは車のドアを開けようとしたところでこちらに振り返り、
「ふふっ、本番のデートが楽しみだね!」
と言って白石さんは車の中へ入っていった。
「……え?」
なぜ本番の話を俺にしたのか。彼女の言葉の真意が分からないまま、俺は家路に就いた。
◇
夏祭りデート(の練習)から一週間が経った。あれから俺たちは常に名前で呼び合うようになったが、それ以外は何も進展できていない。
今日もまた、俺と白石さんはファミレスでバイトに勤しんでいる。
休憩室に入ると、俺より先に休憩に入っていたまどかさんがスマホを触っていた。
「おつかれさま、まどかさん」
「あっ、佑真くんもおつかれさま」
最近のまどかさんはしょっちゅうスマホを眺めている。
うっとりとした表情で画面を見つめているかと思えば、ときおり人差し指で画面の右側をツンツンとタッチする。そしてフフッと笑みをこぼす。
何とも愛くるしい姿だが、画面に映る何者かが妬ましくて仕方がない。
動物やキャラクターの類であればそこまで気にならないのだが、画面に映っているのはおそらく男の人 だ。
先日、一瞬だけスマホの画面が見えたが、男女二人のツーショットということしか分からなかった。女の人は銀色の髪だったのでほぼ間違いなくまどかさんだろう。
ここから導かれる結論は一つ。まどかさんの隣にいるのは彼女の想い人だろう。
名前も知らない何者かに対する嫉妬と怨嗟の念が沸々と湧き上がる。
「――佑真くんどうしたの?顔が怖くなってるよ?」
「えっ……?あぁ……ごめんね。ちょっと嫌な事思い出しちゃって」
どうやら負の感情が表に出てしまっていたらしい。慌てて表情を取り繕う。
「あっ、そうだ佑真くん。ちょっと相談したいことがあるんだけど……いいかな?」
まどかさんは何かを思い出したかのように手をパンと叩き、俺に尋ねてきた。
「もちろんいいよ。期待に応えられるか分からないけど」
「そんなことないよ!これはね、佑真くんにしか頼めないことなの」
まどかさんはきりっとした目つきで俺を見つめてくる。きっとまどかさんは真剣に悩んでいるのだろう。それならばこちらも全身全霊をもって彼女の助けにならねばなるまい。
「分かったよ。俺にできることなら何でも言ってくれ」
「ありがとう!それじゃあ――」
まどかさんは顔を赤らめ、両手を顔の前でもじもじとさせながら、
「お盆の間だけでいいので一緒に暮らしてください!」
衝撃の一言を言ってのけた。
「えっ……一緒に……暮らす……?」
一瞬、自分の都合のいい聞き間違いかとも思ったが、後に続く彼女の言葉が聞き間違いでないことを証明していく。
「えっとね、もうすぐお盆でしょ。うちで働く使用人の皆さんにもお盆は実家に帰って家族団らんを満喫してほしいなと思って、全員に休暇を出すことにしたの。でもね、そうなると私一人っきりになっちゃうんだ。お母様はずっと前から海外暮らしだし、お父様も八月中は仕事でほとんど家に帰れないから独りぼっちなの。私の家ってとても広いから寂しくなっちゃうなって思った時に佑真くんの顔が浮かんできたんだ。佑真くんの家はセキュリティがしっかりしているマンションだし、これならお父様も心配しないかなって。それにね、同じ年代の男の人と一緒に暮らせたら花嫁修業にもなるし一石二鳥かなって――」
まどかさんはまるで何度も練習してきたかのように、淀みなく理由を口にした。
まどかさんと一つ屋根の下で暮らす。夏祭りデートの時よりも魅力的な提案である。だが……
「ごめん。それだけはできない」
「ど、どうして……?」
「彼氏でもない男の人と二人きりなんてダメだよ。親御さんはきっと心配すると思う」
ゆくゆくはまどかさんと彼氏彼女の関係になって、お泊まりデートしたい願望は大いにある。だが現状はいいとこ友達どまり。そんな状態で万が一のことが起きてしまえば、まどかさんはもちろん、彼女の家族やその周りにいる人からの信頼を全て失いかねないのだ。
そして何より、浅ましい欲望に負けてまどかさんを傷つけることなんて絶対にしたくない。
「佑真くんは私に酷いことなんてしないでしょ?お父様も説得するから!」
「っ……!それでもダメだ!まどかさんはとっても魅力的な女性なんだ!もっと自分のことを大切にして!」
「わ、わたしはべつに……そういうことがあっても…………」
今度は下を向いてブツブツと呟き始めるまどかさん。
声が小さく途中からは完全に聞き取れなくなってしまった。
「だからこの話は無かったことに――」
「そ、それならっ!勉強会のお願いの権利を使います!」
ここでまどかさんが持ち出してきたのは、勉強を教えてくれる代わりにまどかさんのお願いを聞くという権利だ。勉強会を始めて約一か月、まどかさんは一度も権利を使おうとしなかったので、俺は権利の存在すら忘れかけていた。
勉強会ではいつも俺が教えてもらってばかりなので、そこを突かれてはあまりにも分が悪い。
「ぐっ……分かった……だけど条件を一つ付けさせて。俺とまどかさん、両方の親の同意があること。どちらかでも同意がないならこの話は無しということで……」
もう俺だけでは彼女の頼みを断ることはできない。お互いの両親という最後の望みに全てを託すことにした。
「そうだよね……親御さんに黙ってやるのは良くないもんね」
どうやら納得してくれたのか、まどかさんはうんうんと頷く。
「分かった。同意が取れたら明日からお邪魔してもいいかな?」
「う、うん。いいよ……」
(まぁ、まどかさんの親がNoを出すだろうから大丈夫でしょ)
最大の危難を乗り越えることができそうだ。このときはそう思っていた……
◇
「今日からしばらくの間お世話になります!」
まどかさんから相談を受けた次の日の夕方、大きい旅行用バッグを携えたまどかさんが我が家にやって来た。
結論から言うと、俺の目論みは失敗に終わった。
あろうことか、まどかさんの父は俺との同居にあっさりOKを出してしまったのだ。まどかさんとの間でどのようなやり取りがなされたかは不明であるが、電話で直接「娘をよろしく頼む」と言われてしまえば、俺にはどうすることもできない。
ちなみに俺の両親は二つ返事でOKを出した。まどかさんの事情を話すと、「友達の力になってあげなさい」と言われて電話を切られた。
「うん。よろしくね……」
「……やっぱり迷惑だったかな?でも佑真くんしか信頼できる人がいなくて」
まどかさんが下から俺の顔を覗き込んでくる。
「め、迷惑じゃないよ!迷惑じゃないんだけど……」
俺の頭の中はまどかさんと一緒に暮らせるという喜びと、目の前の誘惑に抗い続けなければならないという苦しみでグッチャグチャになっていた。
「それじゃあ今から晩御飯の準備するね」
「ちょ……!そこまでしなくても――」
「これは花嫁修業の一環なんだから気にしないで!佑真くんは待っててくれていいから!」
そこから俺とまどかさんによる疑似夫婦生活も言うべき不思議な同居生活が始まった。
食事と洗濯はまどかさんが全部行い、食器洗いやお風呂掃除、ごみ捨てといった残りの家事は俺が担当することになった。家事の分担によってできた時間は二人で勉強に勤しんだり、まどかさんが持ってきたゲームをやったり、充実した時間を過ごしていた。
ただ、何事も上手くいっていたわけではなかった。
「佑真くーん。お風呂空いたよー」
「う、うん……すぐ入るね……」
お風呂上りのまどかさんから目を背けながら、脱衣所に飛び込む。
真夏ということもあり、まどかさんの寝間着はかなりの薄着だ。上は胸元がちらついてみえるキャミソール、下は太腿が露になるホットパンツ。やたら肌面積が多いのだ。その上、お風呂上がりで肌が上気しているともなれば扇情的なことこの上ない。
誘惑はお風呂上がりの姿だけではない。お風呂場や洗面所、テレビの前のソファには少しずつ彼女の甘い匂いが染みつきつつある。このままでは遅かれ早かれ俺は欲望に呑まれかねない。
幸福と苦痛の狭間で耐えかねた俺は唯一の相談相手である西岡くんに助けを求めたが、「さっさと告白して本物の夫婦になればいいじゃん」と一言だけ残して早々に電話を切られてしまった。
日本では十八歳以上にならないと男は結婚できないのを知らないだろうか。親友の無知を嘆きながら今日も俺はひとり呟く。
「俺の片想いが全然報われない……」
「まどかさん。あと一週間で八月が終わるけど、まだ帰らないの?」
「えっとね……私の家の宗派は八月の末までお盆なの……」
そんなしきたり一度も聞いたことなかったが、彼女が言うのなら本当なのだろう。
地獄のような天国の時間はまだまだ続くらしい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はぁ……今日も告白してくれなかったな……」
大好きな人と両想いになれるように沢山努力をしてきた。
彼の目に入ってもらえるように、毎日彼の帰り道にあるファミレスで勉強を続けた。
彼といっぱいお話をして、私のことを気に入ってもらえるように彼と同じバイトを始めた。
私のいい所を知ってもらうために、彼の家庭教師になった。勉強を教えるついでにお菓子作りが得意な所も見せて家庭的な一面もアピールした。
彼と二人きりでデートの練習もした。デートは本来、交際関係にある二人がやるものだと聞いたから、あれはあくまで練習。本番は彼と付き合い始めてから。
でも恋人繋ぎにあーん、体を密着させてのツーショット写真。楽しかったなぁ……
きっと恋人になってからも楽しい日々が待っているに違いない。
そして今の同棲生活。彼は私の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる。家事で不自由することも無いし、喧嘩になったことも一度もない。夫婦としての適性も抜群にいいはずだ。
それなのに彼は私に告白してくれない。
以前、彼は好きな人がいると言っていた。もしかしたら私はまだ彼の想い人に勝てていないのかもしれない。
パジャマの露出を増やして女性であることアピールしても、彼は目を背けるだけ。ひょっとして露出は少なめの方がお好みなのかもしれない。
それとももっとアピールしていくべきか。多くの人から求愛を受けるほど恵まれた容姿とスタイルは私の武器の一つだ。いくら清廉で誠実な彼でも、そろそろ私のことを手に入れたくなるはずだ。
「大好きだよ、佑真くん……」
片想いを両想いにするために、私は諦めない。
――絶対に