6話 『転機』
「お、やっと目が覚めた。心配したんだよ……おじさんの家で急に倒れたって」
真っ先にシュウの視界に入ったのはエリサの顔だった。後頭部に生暖かいものを感じながら、シュウは自身の置かれている状況を思い出す。
記憶として残っているのは、ユウジの家でタツに『稽古をつけてくれ』と、言われたところまでだ。
「駄目だ。頭イテェ……」
「大丈夫? 夜の仕事、今日はやめておいた方がいいんじゃないの?」
「いや、それは無理だ。今日の任務は重要なんだ。だからやめるなんて選択肢はない……」
エリサの膝から頭を退けて、シュウは上体を起こす。窓から外を眺めると、既に日は落ちかけていて、夕日が窓から差し込んでいた。
「てか、今何時だ? 俺はどれだけ寝ていたんだ?」
「ええっと、詳しくは知らないけど……おじさんから電話がかかってきて、車で迎えに行ったのが、八時半過ぎだったから、ざっと九時間程度……かな?」
「じゃあ、今俺は自分の家にいて、夕方の五時半まで寝てたってことか……最悪だ。早く支度しねぇと」
そう言いながら、シュウは立ち上がった。強張った体を弛緩させ、身体に支障がないか確認する。気になる部分を挙げるならば、少し頭痛がする程度で特に体に支障はないようだ。
「そのようだと、大丈夫そうね……今日も危ない仕事なの?」
「今日は比較的に安全な仕事だ。だからそんなに心配しなくてもいい」
エリサがシュウに掛ける心配は当然、ユウジの家で急に昏倒し、気絶したことによる憂慮もあるだろう。しかし、彼女が真に憂慮していることは恐らく、シュウの仕事に対してだろう。
今もユウジ達は誤魔化せているが、食事や掃除などの家事を手伝ってくれるエリサには、シュウがどのような仕事をしているのか自然と知られてしまうのも時間の問題であった。
「それでも気を付けてね」
「あぁ、いつも悪い……行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。今日もシュウの家で待ってるから」
寂寥感を孕むエリサの顔を見て、シュウは「あぁ」と相槌を打って破顔した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
地上を照らす太陽は沈み、辺りは薄暗く、月明かりの光だけが暗がりを照らしていた。コンクリートの道は老朽化して所々に亀裂が入っていて、周囲の建物には数ヶ月、或いは数年間放置されて成長した雑草生い茂っていた。
見るからに人影はなく廃墟だ。目の前には大きな橋があり、川のせせらぎは、何だか感慨深いものがある。そして、その橋の先には博物館があった。正確には博物館跡と言うべきか、建物は崩れ落ちてみすぼらしい。
今夜シュウは博物館跡にて、とある対象の護送任務を請け負っていた。その対象人物は貴族の娘とのことであり、シュウはそれ以外の事を聞かされていない。
情報開示の少なさに対し、疑念がないわけではない。但し、暗殺の仕事など、そういったものだ。拘泥して、知らなくてもよいことを知ってしまったとなれば、自分や周りの人物に危険が及んでしまうのだ。
正義や道義などを受け入れ、信じ込めるほどシュウの心は上手に出来ていない。それは生きていく上では必要不可欠なことであり、周囲の環境がそうさせるからだ。
『正義』『道義』『人道』など、耳心地の良い希薄な言葉だ。
「なに、余計なこと考えてんだよ……」
妙な雑念を意識的に払拭し、シュウは目の前の任務に集中するように自身に言い聞かせた。
不自然ではない場所に車を止め、助手席に置いてあった雑嚢を腰に巻き下車する。車に幌を掛けて、違和感がないように覆い隠した。
「さて……」
シュウは車が隠れていることを再確認すると、博物館跡に颯爽と足を運ばせた。
戦争によって、廃墟となった博物館。戦争前では街の観光名所として知名度が高かったらしいが、今はその面影は全くといっていいほどにない。
入り口は天井が崩壊したことによって、塞がれている。
「本当にこんなところに人がいるのか……」
シュウは嘆息し、付近に侵入できそうな穴がないか確認する。老朽化した建物であれば、崩れ落ちている場所があっても違和はない。嘗め回すように壁を見まわしていく。
一つ、人が一人か二人通れそうな穴を発見した。中は暗闇が広がっていて、目視では何一つ確認することができない。
シュウは雑嚢から懐中電灯を取り出し、辺りを照らしながら、右脚、左脚と跨ぐように中へと入っていく。
長時間放置された建物内は埃や生き物の死骸や糞などで陰惨な状態になっていた。時折、天井から小石が地面へと垂直落下してくる。
「まさか、天井が崩れ落ちるなんて……ないだろうな」
シュウがそんなことをぼやいた直後——隣室から轟音が鳴った。
「な、なんだ!? 何が起こったんだ?」
風圧によって建物内の汚物が吹き飛び、シュウの身体を撫でる。腕で顔を覆いつくし、音の発生源である隣室へと移動する。
幸か不幸か、汚物まみれになった代わりに月明かりが室内を照らされ、シュウの目に案内図が映った。
「紙が酸化して観づらいな……」
黄ばみと埃、カビなどの汚れによって詳細は部分はわからないが、大まかな位置取りは理解することができた。
「——対象がいるのは資料室だったな」
シュウは案内図を指でなぞりながら資料室の場所を確認。シュウの現在地は『歴史展示室』で十字路になっている廊下を右に曲がれば資料室だ。
だが、
「こいつは駄目だな……」
十字路は瓦礫によって完全封鎖され、進むことは不可能であった。再度、シュウは案内図を見やると別の道がないかを探す。汚れによって判然としない文字を手で拭きとった。どうやら、中庭を介せば資料室に行けるようだ。
机に両手を乗せながらシュウは中庭がある方向を見る。部屋を抜け、草木が鬱蒼と生い茂る中庭を通過し、資料室前の廊下に入った。
刹那、小石が転がる程の微量な音をシュウの耳は聞き逃さなかった。シュウの視線に気づいた何者かは、咄嗟に物陰へと身を隠すが時すでに遅しだ。
「誰だ。そこの物陰に隠れたのは分かっている。姿を現すんだな」
「——ま、待ってくれ! 俺はお前の敵じゃない!!」
出てきたのは体中に血が滲んだ包帯を巻いた大男だった。男の惨憺な姿にシュウは訝しむ。氏素性を知れぬ男が出て来たかと思いきや、『敵ではない』と豪語し、重傷を負っていたとなれば馬鹿でも関係者だと察することができるというものだ。
「何があったかは知らないが、初対面の俺に対して『敵ではない』と言うとは……お前、関係者か?」
「察しが良くて、助かるぜ……実はな、俺もお前と同じでデラスという男に雇われた運び屋だ」
「運び屋? この仕事は俺以外の奴も関わっているのか!?」
シュウが雇い主——デラスという男から開示された情報の中に、極秘の任務であることが明言されていた。しかし今、男の発言によって全てが瓦解した。
——まさか、嵌められたというのか。
「解せねぇって顔だが、嘘偽りはない。はぁ、はぁ、俺たちは裏切られたんだ」
恐らく一番深手であろう腹部の傷を包帯越しに抑え、男は野卑な顔を浮かべる。
「二日前、廃街で急襲され、仲間が殺された。命辛々逃げた俺は、この廃街で傷を癒していた。それで今日、俺たちが本来、運ぶべき場所だったこの博物館跡に訪れたんだ。やり返してやるんだ……うぅ、く……貴族の娘を殺し、雇い主の思惑を全て覆す。そうじゃなきゃ、腹の虫がおさまらねぇ……」
「————!!」
『廃街』という単語にシュウは引っ掛かりを覚えた。その引っ掛かりを確信あるものに昇華させるために、シュウは自身の記憶を辿り、脳内で時間を遡行させる。
今日、自分が気絶する寸前の記憶。タツから稽古を付けてくれと言われた時だ。
『二日前、友達に肝試しだって誘われて、それで廃街に行ったんだ。その時見ちまったんだ、やばい奴らが人殺しをしているところを……』
記憶の波からタツの言葉を引き出す。薄弱とした存在が鮮明になったような、ノイズのかかった映像が透き通ったような感覚だ。
「質問してもいいか?」
男は「なんだ?」と、恐らく一番の深手であろう腹部を包帯越しに抑えて、疑問符を浮かべる。
「廃街ってのは、何処の廃街だ?」
「東に、ここよりも大きな廃街があるだろ、そこだ」
『東』ということはシュウが来た方角にある廃街だ。それは車を持たず、自転車で移動するタツの事を鑑みるに、一番訪れる場所の可能性として高いであろう廃街だ。要はタツが見た殺人は、眼前の男の仲間という事で間違いないだろう。
二つの事象が符合し、シュウの胸中は更なる情報を渇望する。知らなてもよい情報であることにシュウは気づかない。
本能的に、恣意的に、禁忌の扉を開く。
「その時、子供を見かけなかったか?」
「子供?」
「あぁ、高校生ぐらいの少年だ。どうなんだ?」
男は考え込むように顎をしゃくり、
「逃げるのに必死だったもんで、曖昧だが……そうだな、居たかもしれんな。実際、疑問ではあったんだ。俺だけが何故助かったったのだろうと、な。そう考えると、居なかったとは言い切れない」
「そう、か……仕返しをした後、お前はどうするんだ?」
「逃げるの一択だ。だが、俺の悪い勘が言ってやがるんだ……死ぬだろうとな。だからこその仕返しだがな……」
ふら付きながら男はそう言い切った。それ以降、男はシュウのことに頓着しなくなり、遅い足取りで資料室へと向かった。
「俺はどうすりゃ……」
呆然と男の後姿を眺めるシュウは今後の事を考えていた。
このまま任務を放棄し、逃亡するのもよい。この場に居座り、事の趨勢を静観するのもよい。
——そうだ、逃げようじゃないか。
自分は組織から裏切りを受け、未曾有の危機に陥っている。逃げたところで自分を糾弾する者がいるだろうか。寧ろ、同情される立場ではないか。逃げることを強制される側ではないのか。そうだ。その筈だ。逃げて逃げて、逃げ続けよう。
そうやって段々と、シュウの思想は負の方向へと向かい始めていた。自身の気持ちを優先し、短慮になっていく。
自分ではない何者かに——いや、自分のもう一つの側面に、黒一色の闇に染められていく。
『逃げたところで、君のトラウマは一生消えない。事実は覆せない。それでも君は……いいのかい?』
闇がシュウの心胆に席巻しようとした時、折檻の言葉が掛けられる。それも、一度何処かで聞いたことがあるようなセリフだ。更に、
『君にとって大切な人。その人は、君の逃げる姿を見て、どう思うのだろうか……二度と、悔しい思いはしないと、逃げないと、悔悟したのではないのかい? 今度こそはと、胸中で誓ったのではないのかい?』
叱咤、叱責の言葉が雨粒の様にシュウを打ち付け、黒に染め上げられた身体を浄化していく。まるで時間が遡行をしたかのように、黒い闇が真っ白の世界に変わっていく。
『さぁ、最後だ!! 選ぶのは君自身だ!! 君はそれでも、いいのかい?』
「いいわけ、ねぇだろうがよぉ!!」
喉奥が火傷するような決意と激情。理屈を無視した心からの言葉。心に火が灯り、色褪せた感情が再生する。
『シュウ……もし、自分と同じ境遇の子がいたなら、救ってあげて。強い子になって。それが私の、シュウにして欲しい……たった一つの我儘さね』
——母さんの言葉が蘇る。
『——シュウ。お前のやりたいようにやれ。間違いなんて、この世の何処にも無い。だから悩むな、自分に正直になれ……悩む時間があるくらいなら、お前の思うままに動くんだ。そうじゃなきゃ、守れるもんも……まもれねぇ』
——師匠の言葉が蘇る。
『それが、君の答えか』
「当たり前だろ、これが俺の気持ちだ!! 全部、俺の大切なもん全部!! 俺が救ってやる!!」
『そうか……後は彼女の行動次第、これは中々面白そうな因果関係だ』
覚悟を決めたシュウは、いつの間にか現実世界に戻っていたことに気づいた。
白だった世界は、元の煤けた壁で覆われた世界に変わり、自分を諫める者の声は聴こえなくなった。
「な、何だったんだ?」
夢を夢だと疑わないように、その世界が存在していることを疑わなかった。そこにあることが当然であるかのように、シュウはその世界を受け入れていた。
感覚としては、その時間だけが切り取られ、別の次元に迷い込んだといった感覚だった。
とはいえ、自分の中の逃亡思考が霧散したことは事実であり、逃げない覚悟が英断できたのも事実だ。何かもわからない曖昧模糊な存在。それに対し、シュウは感謝ともとれる感慨を抱く。
「ん……」
不意に砂を踏み躙るような音がした。それも一つ二つと増えていく。明らかに獣の類ではない。人の気配が、殺気が空気を通ってシュウの肌に伝播する。
廃街である辺鄙な場所に一般人が迷い込んでくるというのは考えにくい。
一番考えやすい候補として、挙げられるのは男を狙う刺客だ。殺し損ねたとなれば、男を追うのは至極当然のことだ。
兎にも角にも、鉢会うのは危険極まりない。シュウは物陰に足音を立てずして移動し、身を隠した。
「しっかしきたねぇな、埃まみれじゃねぇか……」
「当然だろ。十年近く放置されてんだ。てか、そんなことよりも、逃げたアイツを始末しなきゃならない……」
野太い声から察するに男二人。コツコツと石床を踏みしめる音は、真正面から聴こえてくる。
「ガキどもの介入のせいで、こちとら仕事が長引いてるんだ。早く終わらせようぜ……」
『ガキども』とは、恐らくタツとその友達の事であろう。もし仮にタツたちが廃街に訪れなければ、自分は今頃組織から裏切りに合い、殺されていただろう。
ただ単に運が良かったと言えばそこで終わりだが、シュウはそうは思わなかった。
先程の謎の声といい、タツたちが廃街に訪れたことといい、何かが起きる前兆ではないかとシュウは考えた。
「確か、今夜ここにデラスさんがまた雇った暗殺者が来るんだろ? そいつにバレちまったら、どうするんだ?」
「その点に関しちゃ心配は無用だ。今さっき、姉御に連絡が入った……その暗殺者ごと、始末してもいいってな」
シュウがその場にいるとも知らず、二人の男は情報漏洩をしていく。
つくづく間抜けなことだ。会話の内容から推測するに、男二人の他に仲間がいると考えられる。それと、自分に気づいていないという事もだ。
これはシュウの憶測だが、男を探してこの廃街に刺客達が赴き、虱潰しに家や施設を見回っている、といったところだろう。
「はい、何ですか姉御」
甲高い機械音がなると、男は腰から通信機を取り出した。シュウは五感の一つの聴覚を最大限に研ぎ澄ませ、男とその仲間の会話に聞き耳を立てた。
「見つけたぜぇ……センサーに反応したぁ。奴は資料室の中だぁ……仕返しって魂胆何だろうがぁ、それが仇になったって事だぁ……お前らは奴が逃げないように見張っておけよぉ。それと男が来たら問答無用で殺せぇ、わかったなぁ?」
「任せておいてください。姉御の手は煩わせませんよ」
「3、2、1……開始だぁ!!」
ガラスが割れるような破砕音がシュウの耳に入った。