5話 『過去のトラウマ』
晴れた朝日が縁側から差し込み、冷えた体が優しく包まれる感覚。
急須から焚きたてのお茶を注ぎ、竹籠に置かれた饅頭を一つだけ頬張る。味を嗜みながら、お茶を一味付け加えて喉奥へと流し込んだ。
「風流だ……」
五感の全てを酷使し、滋味するようにシュウは畳へと倒れ込む。生まれも育ちも洋式尽くしだったシュウだが、和式の匂いは郷愁に誘われるような魅力がある。
「シュウにぃおはよ。お父さんから聞いたよ? 毎日欠かさずランニングして、内に挨拶しに来るって、別にいいのに……」
「とか言って、シュウにぃが来るの、本当はうれしい癖によぉ」
「ちょっと!! そんなことないですぅ!! 私はシュウにぃを心配してるだけですぅ!」
寝転ぶシュウを覗き込む少女。長すぎず、短すぎない程度に延ばされた髪を、後ろで纏めたポニーテール。オレンジが少し薄みがかった杏色の髪は少女の温厚さを物語っている。服は上下学校用の制服だ。名前はルリ。年は十三歳で中学生だ。
ルリの後ろから、からかうように笑っている少年。短髪に黒髪で、彼も同様上下制服姿だ。年は十六歳の高校生。二人は近隣の子供達が集まる学校に通っている。
人数はさほど多くはなく、クラスは二つ。一つは小学生のクラス。もう一つは中高生を合併したクラスだ。全学年合わせても四十人程度の寒村ぶりで、特に中高生を合併させたクラスの方は十人にも満たないらしい。
「お前ら、学校が近いとはいえ、もう八時前だぞ……出なくて大丈夫なのか?」
シュウは寝転ぶ態勢で、壁に掛かっている時計を見やる。
遅刻は厳禁な学校であるとルリとタツからは耳にタコができるほど聞かされていた。それなのに、二人は家で制服姿のままで寛いでいる。
「あぁ、それなんだけど、学校から今日は休校って連絡が入ったんだよね」
「休校?……なんでまた、こんな日に休校なんて」
一つの謎が解き明かされたと思いきや、またもう一つの謎が姿を現す。憤懣この上ないことである。
そんなシュウの怪訝な表情を見たユウジが廊下の方から歩みより、耳元で囁くように、
「どうやら今朝、学校に脅迫状が来たらしくてね……危険だから休校にするって電話でね」
「脅迫状……」
「——あぁ、それに、どうやら他の場所にも脅迫状が送られて来たらしいんだよ。僕が思うに、これから……何かが起こるんじゃないかって予感がするんだ……ルリとタツには学校にクマが出たって伝えておいたから、二人には内緒にしてくれるかい?」
「わかった。他言無用だ」
「ありがとう」
ユウジの不安を逆撫でしないようにシュウは口を噤む。子供を誘拐され、死ぬ覚悟までした彼にとって、もう一度子供を失う悲しみは味わいたくないだろう。彼の過去を知るシュウにとって、彼が用心するのも理解できた。
それよりも、
「——何かが起こる……」
シュウはそのことについて、心当たりがあった。それは、今夜シュウが任務をとある組織から請け負っていたからだ。誘拐した貴族の娘の身柄を、単独で組織の下へと送り届ける極秘の任務。
「恐らく、俺を雇っている組織に関係がある……」
「関係って、何が?」
「……こっちの話だ。気にするな」
眉間に皺を寄せ、考え事をしているシュウにルリが覗き込んできた。早速、ユウジと交わした約束を破りかけそうになったと、シュウは胸を撫でおろす。
「そう……あのさ、シュウにぃ……昨日友達と作ったケーキが残ってるんだけど、食べる?」
「ケーキか、そうだな。エリサには悪いが、いただこう」
「ホント!? じゃあさ、味の感想とか、後で聞いてもいいかな?」
「あぁ、いいぞ。俺の感想でよければな」
シュウの返答にルリは「ふふーん」とポニーテールを揺らしながら喜ぶ。喜色満面の彼女はシュウの手を掴み上げると、身体を起こすように手を引っ張った。
つられるようにシュウは上体を起こし、腰を上げて立ち上がる。キッチンまで連れられたシュウは椅子に座らされ、ルリは冷蔵庫から一切れのケーキを取り出した。
ルリを目で追う途中、シュウの目にタツがニヤニヤしていたのが映ったが、何も言及せずに彼女を待った。
「はい、フォークはこれを使って。では、どうぞ……」
ルリは座るシュウの横で立ちながら様子を窺う。
しかし、まじまじと見られながらは、少し食べづらい。普段は視線など気にもならないのだが、純粋な眼差しで観られるとなると話は別だ。
とはいえ、食べると言った以上、ルリの期待を無下にするわけにもいかず、シュウは勢いよくケーキを口に運んだ。
「ど……どう?」
「そう、だな……」
口内でケーキを咀嚼しながら、シュウはルリにどのようにして伝えようかと懊悩する。正直に言えば、悪くはない。だが、逆に言えばそれしか言葉が見つからないとも言えた。
「悪くはないんだが、なんというか……普通だ」
「ふ、普通ですか?」
「ああ、美味しいのは美味しい……だが、この美味しさは素材の美味しさだ」
シュウは捏造をすることなく、率直に思ったことを吐露した。変に気をまわしたところで、シュウは自分が至妙な言葉を言えないことは今までの経験上で分かっていた。寧ろ、傷つけたことの方が多い。だからこその率直だ。
スポンジケーキと生クリーム。そして、フルーツの味。どれも素晴らしいものだ。しかし、
「なんというか、市販のチョコを溶かして固めただけの手作りチョコって感じだな」
「そうかぁ……あはは、見た目は上手くできたと思ってたんだけど……やっぱりそうだよね」
シュウの言葉に、ルリは期待を頓挫させられた子供の様に俯いた。その彼女の落ち込み様にシュウは自身の浅はかさを悟った。気の利いた言葉が掛けられない短慮な自分を呪う。
「悪い。決してルリの作ったケーキが美味しくなかったってことじゃ——」
「い! いいの!! 私も試食して、なんか違うなぁって思ってたし! 変に気を使われて鼻高になるのも嫌だし気にしてないよ!!」
ルリはシュウの言葉を遮った。震えた声を気づかれないように噛み殺し、引きつった笑顔をシュウに向ける。
そして、ルリはシュウが食べ終わった事を確認するとお皿を手に取って洗面台に向かった。
「悪い事言っちまったな……」
「いやぁ、恋する乙女はつらいねぇ……」
「ん? 恋するって、ルリ……好きな人でもできたのか?」
シュウの言葉にタツは愉悦とばかりに破顔した。
それは、まるで自分とルリのやり取りを見て笑っているように思えた。知人の恋愛事情を執拗に知りたがる取巻きといったところか。
「なんだ、そんなにニヤニヤして……」
「い、いや? まるで恋愛小説みたいだなって……」
「恋愛小説って、わけがわからん」
果たして、タツのその言葉が真か虚かは推して知るべしといったところだ。話す気のない彼を横目に、シュウは台所で皿を洗うルリを見る。
今までは小さな子供として見ていた女の子が、好きな人を見つけるほど大人に成長しているとは、歳を取ったとシュウは実感する。
「それよりさ、シュウにぃ」
『おめかしなどをするのだろうか?』というシュウのおじさんくさい思惟を遮るように、タツがシュウの眼前に立つ。
「——なんだ?」
「今日は休校で学校休みになっちまったから、俺に稽古つけてくれよ……仕事はいつも通り、夜からなんだろ?」
慮外なタツの申し出に、シュウは疑問符を顔に浮かべる。普段、飄々としている彼から『稽古』という単語が発せられるとは意外も意外だ。
タツの周囲にそうさせるような環境が形成されているのかと、シュウは彼の双眸を見て、
「そうだが……急に稽古を付けてくれって、どうしたんだ?」
「——ただ、なんていうか……シュウにぃ強いだろ? 俺も強い男になりたいって思って、それで……」
「——そういうことか」
高校生とはいえ、タツもまだ少年だ。彼も強く格好の良い男になって異性に好意を持ってもらいたいと思っているのだろう。
そう勘ぐりをしたシュウは、早急に諦めさせようと思い、
「半端な覚悟で稽古をつけてくれと言ったのなら、諦めることだ」
シュウは椅子から立ち上がり、真摯にタツの目を見て窘めた。一瞬、シュウの本気の表情と本気の言葉にタツは震撼し、一歩後ずさった。ただ、
「は、半端な……覚悟じゃねぇよ! もし、俺が色恋沙汰目的で強くなりたいって思ってんなら、そりゃ勘違いだ! お、俺が強くなりたいのは学校の友達や……か、家族を守りたいって、思ってるからっていうか、なんていうか……」
タツはシュウの威圧に圧潰されず、目を逸らすことなく、シュウの瞳を見据えて言った。訥々と口ごもってはいた姿は、思春期の少年からくる恥ずかしさと、それでも家族や友達の為に強くなりたいという思いが二律背反した姿だ。
そして、それは紛れもなく、真に強くなろうとしている少年の片鱗とも言えた。
少なくともシュウの勘ぐりは勘ぐりで終わり、浅慮であったことは事実だ。ならば、自身の過ちを悔い改め、謝罪することも先輩としての務めだろう。
「勘違いして悪かった。すまない——ただ」
「ん?」
「一つだけ訊く……強くなりたいと、そう思った切っ掛けはなんだ?」
「——切っ掛けか」
そう言うとタツはシュウから目を逸らし、考え混むように顎を摩った。それから一度瞑目して、彼自身の中で結論付けたのか、外で洗濯物を干すユウジを見た。
「父さんが、俺たち二人に何か隠し事をしてるってのは、知ってるんだ。学校にクマが出たって父さんは言ったけど、本当はもっと、もっとやばい事が起きてるって知ってんだ……」
「知ってたのか? 学校に脅迫状が来たってことが……」
「あぁ、知ってる。それも心当たりがあるんだ。多分俺と……俺の友達が原因だ」
「な!? どういうことだ!? お前が原因って、なにを!?」
驚きを隠せないシュウはタツの両肩を力強く掴む。
シュウの反応に戸惑いを見せるタツ。彼の顔を見て、シュウは自身が暗殺者として働いていることが露呈してしっまったのでないかと思った。だが、その考えはタツの瞳の奥にある決意を見て、シュウは早合点だと気づいた。
「二日前、友達に肝試しだって誘われて、それで廃街に行ったんだ。その時見ちまったんだ、やばい奴らが人殺しをしているところを……」
「————」
「俺が悪いんだ。学校では俺が一番年上で、その俺が止めなきゃいけなかったことなのに……ガキみたいに遊び半分で、調子に乗って、学校の皆を危ない目に合わせて……全部、俺のせいなんだ!!」
——自分が悪いのだ、全て自分の責任だと、タツは自分自身を叱咤した。
自分の尻拭いは自分でしたい。そのために強くならなければならない。だから、自分より強者であるシュウから、タツは強さを学び研鑽したい。彼の瞳はそれを如実に語っている。
「だから!! だから俺は強く!! 強くならなきゃならないんだ!! シュウにぃなら俺を強くしてくれる! 俺より何倍何十倍も強いアンタなら!! 俺は皆を守れる奴になれるんだ!! だから、頼む!!」
少年の熱意を直に浴びたシュウは、久しく味わわなかった激情に当惑した。
師匠を追い続け、心の中で熱い炎を燃やしていた子供の頃の自分を思い出す。彼の強く大きい背中に魅せられたシュウは、彼を目標にした。
いつもはへらへらしたお調子者の師匠だが、それは鬱屈な自分を励ますための演技だ。攫われた子供達を、囚われた人たちの気持ちを和ませる、彼なりの優しさだ。
——いつからだろうか。
——師匠と会わなくなったのは……
「————!!」
思惟の海に大きな波濤が生まれる。波濤はシュウの体中を駆け巡り、全身の血液を沸騰させ、脳を麻痺させた。身体が硬直し、眩暈や吐き気などの倦怠感によってシュウは足を崩し、身体を支えようと壁に凭れ掛かった。
「お、おいシュウにぃ!? 大丈夫か?」
「あ、あぁ大丈夫だ。昨日しこたま酒を飲まされたから、あァ……それの、せいだ」
シュウは言葉と頭で、師匠とは関係ないと自分に言い聞かせ、心の平衡を保とうと呼吸を整える。しかし、今まで雌伏していたトラウマが易々と引き下がってくれるはずもなく、シュウの心を蝕んでいく。
次第に抑えきれない蝕みに耐え切れなくなったシュウは、立つことすら儘ならなくなった。
「あぁ、く、そぉ……」
「大丈夫じゃねぇだろ? 熱は?」
シュウの額に手を当て、熱を測るタツ。それをいらないお世話だと、タツの手を額から退けてシュウは壁を伝って、ふら付きながらも立ち上がる。
額の汗を腕で拭い、深呼吸をして廊下を抜け、
『逃げたところで、君のトラウマは一生消えない。事実は覆せない。それでも君は……いいのかい?』
——子供の声が聴こえたと同時、シュウの意識はプツンと糸の様に途切れた。