2話 『恩人』
「飲みすぎた、というか飲まされすぎた」
目が覚めた時、シュウの瞳が最初に捉えたのは灯りの消えた照明と、白で統一された天井だった。閉め切りのカーテンからは朝日が垣間見えていて、片付けが終わっていないテーブルには空き缶が転がっていた。
シュウは身体を起こすとカーテンを開け、日差しを浴びながら背伸びをする。
「アキヤマは……いねぇのか。そういえば、用事があるって言ってたな」
額に右手を当てながらシュウは呻く。
涎のついた顔をお湯で洗い流し、雑然とした部屋の掃除を済ませる。それから、ソファで寝ているエリサの肩を揺らす。それも全力で。
「おい、起きろ。もう朝だぞ」
シュウの全力肩揺らしは遺憾なく発揮されているはずなのだが、エリサは「うーん」や「うう」と呻くだけで全く起きる片鱗を見せない。
「まぁ、いつものことか。俺は朝のランニングも兼ねて、おじさんのとこによって来るから、それまでには起きとけよ」
「ふぁーい」
諦観したシュウはエリサを起こすことを断念し、自室に赴いてジャージに着替えた。
ランニング用のシューズを履いて外へと出ると、軽く準備運動。シュウは目的地へと向かって走り出した。
走りだしてから二十分程度。寒さを紛らわす程度には身体が温まり、額から流れる汗をタオルで拭きとる。
使用されていない田んぼ群から一変、シュウの居る場所は隣町だ。朝八時過ぎと、朝の支度が終わって通勤時間。町が活気づく時間と置き換えても差し支えない。
「よう! シュウ君。今日もサボらずランニングとは精が出るねー」
シュウの視線は川を橋で跨いだ家に遷移する。声の主はシュウを呼び止めると、手を振りながらこちらへと向かってきた。
見た目は黒髪に短髪。眼鏡を掛け、作業着を着ている中肉中背の男だ。名前はユウジ。隣町で農業を営んでいる。
「どうもおじさん。今日も仕事お疲れ様」
「あはは、そりゃ当然。内が働かなきゃ近隣と人たちの食べ物がなくなっちゃうからね。今日は内によって行くかい?」
「いや、今日は挨拶代わりによっただけだし、仕事の邪魔は出来ないよ……」
「——そう言うと思って、今日は朝早くからある程度の仕事を済ませておいたんだよ。それに最近、ルリとタツがシュウ君に会いたいって言ってたから、ね? 頼めるかい?」
謙遜で切り抜けようとするシュウをユウジは手を合わせて頼み入る。シュウとしても、そこまで懇願されてしまっては断れるものも、断れない。
「わかった。それじゃあ、お邪魔するよ」
シュウの了承を得るとユウジは顔を弛緩させて「助かるよ」と一言。彼の後ろに続いて、シュウはユウジ宅へと入る。
「お邪魔します」
「お邪魔しますだなんて、そんなかたっ苦しい事言わなくていいんだよ。シュウ君は親戚みたいなもんだし……」
ユウジは憂い顔をみせ、感傷に浸ったように瞑目。そして、それらの行為を払拭するように大声で、
「何より、命の恩人に申し訳ないよ!」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
シュウがユウジから『命の恩人』と言われるのは昔、彼の二人の子供——ルリとタツを助けたことがきっかけだ。出会ったのは六年前のある日。シュウが母親の墓参りをしている時だ。
十一月中旬の早朝、七時。シュウは水の入ったヤカンに、花束と数珠を持って母親の墓参りに向かった。
幼少時代に親を亡くしたシュウにとって、こうやって墓参りすることが、心の平衡を保つ要素の一つであった。そのこともあり、毎月必ず一回は墓参りに訪れ、その月に会ったことを冗長に話しては、無駄話を続けていた。
「おいおっさん。そこは俺の親の墓なんだ、どいてくれないか?」
そこには一人の男が墓を背もたれにして座っていた。無精ひげを生やし、右手には中身が少しだけ残っている酒瓶を持っている。服は土や泥で汚れていて、浮浪者そのものだ。
「ああ、すまない」
意気消沈と男は起き上がり、服についた泥や埃を手で払う。それから、酒瓶をひっくり返し、口へと酒を一気に放り込んだ。男はもう一度、傍にあった壁へと背を預けて引きずりながら地面へと腰を降ろした。
シュウはその男の行動に終始、憤慨を覚えた。自分の親の墓前で酒を飲んで野垂れていた要因もあったが何より、目的のない無意味な行動が一番頭にきた。
酒に溺れる姿は、現実から逃げる弱者のソレであり、母親から逃げた、子供の頃の自分によく似ていた。
「おっさんは、こんな朝から何をしてるんだ? 夜遅くまで飲み歩いていたとかか?」
過去の自分と照らし合わさっただけで、男との関係はなく赤の他人だ。助ける義理はない。人情もない。
だが、シュウは男に言葉を掛けた。無意味で不合理な行動の意味の真意を、ただ単純に知りたかった。多分、ほんのささやかな同情だったのかもしれない。
「そうだな、酒飲んで現実逃避して、今はどう死のうかって考えてる」
男の返答はシュウが予想していた通りの答えだった。
「現実逃避か。何があったか知らないが、おっさんみたいな奴がここにいると、こっちの気まで滅入っちまう。せめて、死ぬなら誰もいない場所か、貧民街で死ぬんだな」
相手の気持ちや境地を慮らない酷薄とした言葉を、シュウは男に浴びせる。彼はその言葉を聞くと『その通りだ』と言わんばかりに大声で哄笑した。
シュウの言葉を嗤ったのではない。自身に向かって嘲笑したのだ。
「実際に死ねたら、どれだけ楽だったか……」
「そうだな。でも俺はその考えは楽観的な考えだと思うがな……」
死んでしまっては何もかも終わりだ。「ありがとう」と感謝を伝えることもできない。「ごめんなさい」と謝意を伝えることもできない。シュウがその言葉を継げるために、どれだけ渇望したことか。
——失ったものは戻らない。
「楽観的ね……そうだね、そうだよね、あはは、はは」
道化でも、もう少しうまく笑ってみせるような下手くそな笑い方だった。空っぽで、何もかもを吐き出した後のような笑いだ。
「僕にはね、娘と息子がいたんだ。娘は7歳、息子は10歳で、僕と三人暮らしだった。娘の名前はルリ。温厚でよく本を読んでいる子だ。息子の名前はタツ。活発でよく、妹のルリとは喧嘩して僕がそれを窘めて……」
男は言葉を途中で切って、その双眸を赫怒に染め上げた。
「僕は……僕は何も、何も、守れなかった。たった二人の子供でさえ、僕は守り抜くことは出来なかった!!」
握りこぶしに血を滲ませ、力強く歯を食いしばって嗚咽にむせび泣く。男は右手に持った酒瓶を地面へと叩きつけ、割れた破片部分を首元へと突きつける。
「僕のせいだ!! 僕のせいで子供たちは誘拐されて! 僕が悪いんだ!! だから、死ななきゃ……死んで、死んで……」
「————ッ!!」
シュウはその男の行動に堪忍袋の緒が切れた。男の元へと走り出し、割れた酒瓶を取り上げる。そして、彼の頬を殴りつけた。
「何、考えてやがんだ!! ここで死んで何になる! 守れなかった!? だから死ぬだ!? ふざけんじゃねーぞ! アンタが今その目から流すものはなんだ!! 何のために! 誰のために流した! テメェの子供の為だろうが!! ならテメェの子供を全力で助けだす! それが親父のやる役割じゃねぇーのかよ!!」
シュウは感情の赴くままに男へと述懐した。男に対する義憤を、思いの丈をぶつけた。
違う、全ての怒りが男によって生まれたのではない。その表情や激情は自分自身に対する怒りもあった。
「なんで、なんで君は僕にそこまで怒ってくれるんだい? たった今、さっき会ったばかりで、君には僕に対して真になってくれる義理もない。初印象は見た通りの糞親父だ。なのに、何故?」
男のシュウに抱く疑問は当然のことであった。シュウ自身、男にそのことを指摘され、状況を客観視してようやく気付いた。
——俺は何故。この男に憤慨しているのか。
「そ、それは……」
その言葉がシュウの脳内を席巻する。シュウは男の疑問に対して逡巡してしまい、言葉を濁す。
「同情だよ……」
「え?」
「同情だ! それ以外の何物でもねぇよ。あんたに真になったのは俺自身が気持ちよくなるためさ……同情で偽善で、うすぎたねぇ精神だ……」
いつの間にかシュウは男から視線を逸らし、自分の胸を手で押さえるように服を掴んでいた。恐らく顔は、男を見透かしたような嗤いを浮かべているだろう。
自分は矮小で卑劣で不埒で猥雑で自己愛に満ちた男だと、自覚した。
「そう、かい。ははは……君は正直な人なんだね。でも、だからこそ、僕にここまで真になってくれたんだね……すまない。非礼を詫びるよ」
しかし、シュウに返ってきた言葉は罵倒ではなく、謝罪であった。シュウはその状況に違和を感じた。そして違和は、今度はシュウに疑問を与えた。
「なんで、謝んだ……俺は醜い偽善者だぜ? そんな奴に謝ったところで、謝り損になるだけだ……」
「そうは思えない」
「は?」
男の否定にシュウは疑問符を浮かべた。無理解を理解に変えようと、シュウの脳みそは情報処理に奔走するが、すべて容量オーバーで懊悩するだけだ。
「意味が、わかんねぇよ」
「君の瞳や、言葉の強みは偽善者のそれじゃない。僕はそう思う。それに……やらない善よりも、やる善!! だからね! 君を見て僕の悩みは解決したよ。ありがとう……」
男はガッツポーズをシュウに向けて翳す。
『最悪の状況に陥った時こそ、人は斯くあるべし』
その姿は、どこか妙に郷愁を誘う何かがあった。
シュウの脳裏には、とある男の姿が映っていた。豪胆としていて、何事にも流されないような強い精神を持った益荒男。自分自身に正直で、直情径行を体現した巨躯の男——シュウの憧れの師匠だ。
『——シュウ。お前のやりたいようにやれ。間違いなんて、この世の何処にも無い。だから悩むな、自分に正直になれ。悩む時間があるくらいなら、お前の思うままに動くんだ。そうじゃなきゃ、守れるもんもまもれねぇ』
「そんなの……俺は絶対嫌だね!」
シュウは思わず師匠の言葉を口だす。師匠が今の自分を見れば、迷っている自分をみれば、平手で活をいれるだろう。「がはは」と哄笑して一緒に悩みを笑い飛ばしてくれるはずだ。
そう考えれば、何とも馬鹿な悩みであろうか。
シュウは右手を顔に当て、空いたもう片方の左手を腹へと当てる。笑いがこみ上げてきた。自分のバカで卑屈な考えは無駄な労力を消費し、決断を先へ先へと引き延ばしていた逃げだ。
「ははは、はははは!」
「どうしたんだい?」
「あ、いや……はは、何でもねぇよ。さっきの事は忘れてくれ。言い忘れてたが、俺は回収屋だ! と、言っても今は、ある男の下で働いてるだけの付添人だけどな!」
シュウはそう言うと座っている男にそっと手を差し伸べる。
男はシュウの手を取り、起き上がる。思い違いかもしれないが、男を引き上げる瞬間、少しだけ軽く感じた。
「君は、あの! あの、回収屋なのかい? こ、こいつは——」
「だから、今は付添人って言ってるだろ。つっても、師匠はそのこと含めて、任せろっていう人だがな……」
シュウは男の言葉に割って入るように言った。
男の表情は死人のような顔から、艶のある優しい顔へと変わっていた。
「名前はルリとタツだな。見つけたら必ず渡しに行く」
「信じていいんだね!」
「ああ! 任せろ!!」