一章 第19話幕間
「行きやがったか……」
理想郷から抜け出し、現実へと回帰した青年——シュウを見届けて、益荒男は呟いた。
彼の背中は、自分が知っている少年の背中ではなく、一人前の男の背中であった。それを見て、『成長したんだな』という思いと『離れていくんだな』という思いが二律背反し、益荒男は複雑な感慨を得ていた。
「そうさね……」
益荒男の横で、同じく青年の背中を見ていた楚々とした女性、シュウの母親——ツグハも同じような感慨を抱いているだろう。それも、益荒男とは比較にならない程の強い感慨をだ。
「いやぁ、素晴らしいよ!! 僕は感動したね! これぞ、利害を無視した真の愛というやつか。改めて拝見すると、何とも快哉だ!」
「うるせぇ、黙ってろ性悪。いちいち水を指すんじゃねぇよ」
飄々としていて、中身が空っぽな薄弱とした言葉。稚拙な道化でも、もう少し上手く道化てみせるものだ。といっても、この存在はそれすらも演じているようで、胸糞悪い。薄っぺらいという言葉が相応しい。
「ごめんごめん。そんなつもりはなかったんだけど……気に障ったかい? なら謹んで謝罪させてもらうよ!」
「黙ってるさね。シュウのためとはいえ、アンタみたいな存在に手を貸すなんて最悪の気分さね」
「断腸の思いで僕に力を貸したことは知っているよ。そこは持ちつ持たれつというやつさ! まぁ、ともかく、僕も君らも互いに見たい結果が見れたからいいじゃないか!!」
「癪ではあるけどな……」
これからシュウに起きることは、この存在の手中にあり、自分やツグハには手を出すことは出来ない。それが今は、とても悔しく忸怩が絶えない。
「そんな顔をしないでくれよ、イクサ……別に彼を悪く使おうだなんて考えていないよ。多少はつらい壁に当たるだろうが、それは君たちが生きていた世界と何ら変わらない過酷さだ」
「わかってるよ、それと俺を名前で呼ぶんじゃない。当の昔に捨てた名だ」
「そんな、『師』とかいて『イクサ』と読む。君に相応しい名だ。君もそう思うだろ? ツグハ」
姿は見えないが、この存在は卑しく顔を歪めて笑っているのだろう。この存在は起こっている全ての事象に於いて傍観者だ。
喜劇を悲劇を惨劇を全てを等しく愛し、全てを自己愛を満たすためだけに弄ぶ異常者だ。個人が感じた感情を共感覚で滋味し、悦楽する不埒者だ。
「君も『嗣葉』と書いてツグハと呼ぶのだろう。素晴らしい名じゃないか。もっとそれを誇るべきだよ」
「こっちに話しかけないで、それにアンタに言われるとぞっとしないさね」
ツグハは怜悧な目つきで、その存在を睨み付ける。実際のところ、その存在は見えていないのだが、傍観者である彼彼女には全てが見えているのだ。だからこそ、全てが伝えられる。
「つれないなぁ……あぁ、そうだ。もうすぐこの理想郷は形を失う。君たちに心残りはあるかい?」
その存在が世界の消失を促すと、彼彼女の言葉に呼応するように、周囲の物体が曖昧になっていく。隣にあった木に触れてみれば、質感は木材のソレだがスライムのように形が変わり、違和感が拭えない。
「ねぇよ」
「私もないさね」
「それじゃあ、さよならだ。シュウの今後については、予定通り……僕の欲を満たすために酷使させてもらうよ」
消失が訪れる世界。その存在を窺う事はできないのに、確かに益荒男——イクサは居なくなったと感じた。そうだと、イクサを思い至らせたのは頭の中を跋扈する、妙な艶めかしさが霧散したからだ。
心では忌み嫌いっている存在なのに、本能的には何処か魅力だと思ってしまう。その言葉にし難い嫌悪感は最悪のコンビだ。そしてあの存在は、その胸中さえも透徹とした瞳で見透かし、悦に浸っているのだろう。
「シュウ……悩むな、お前はお前の信じた道を進むんだ」
——身体が掻き消える中、イクサは最後にそう呟いた。




