19話 『現実への回帰』
「じゃあ、ちょっと場所を変えるか……俺にとっておきの場所がある」
そう師匠に言われた後——二人の現在地は、ボロ屋達を抜けて、約数百メートル先にある丘の上だ。ここからは貧民街の全貌を俯瞰することができ、全てが筒抜け状態。謂わば一種の神視点とも言えた。
この丘で神の境地を知った者は己の醜態を慚愧し、悔い改めるという。飽くまで噂ではあるが、そういう意味では此処の浮浪者達も少しは役立っていと言えるだろう。
恐らく、ここに訪れた旅人も、シュウのように軽蔑の目で彼らを見ていたのかもしれない。
人とは己自身を真に客観視することはできない。己を客観視しようとしても、それは他者が己をどのように観ているか、という憶測に過ぎず、結果としてそれは主観視である。
これは『END』の書いた本の中にある言葉の一つだ。これに対し『他社が己をどのように観ているのか』それが理解できれば、その理屈は破綻している、と反論したものがいた。
これに筆者のENDは『他者から己の評価を訊いたとしても、それが嘘か真かは定かではない。故に憶測だ』と唱えた。
屁理屈と声高に主張したものがいたが、シュウはそうは思わなかった。何故なら、それを否定できる根拠がなかったからだ。だからこそ、シュウはそう思ったわけだが。
「この丘に来るのも久しぶりだな……」
「全部が全部丸見えじゃねぇか……」
「だろ? だからここに来たんだ」
攪拌する精神を均衡させようと深呼吸を間に置き、
「……師匠、あんたの過去について話してくれないか?」
シュウは飛び去って行く鳥を眺めながら師匠の過去に踏み入る覚悟を決めた。
シュウは自分の記憶を遡り、師匠が言っていた言葉を思い出していく。その中に『魔術』なる単語があった。それに対する彼の思い入れが強いことも、シュウは知っている。
だから、別れの時までに、師匠から言葉として聞いておかなくてはならない。それがシュウが理想郷から覚めるための絶対条件だ。
例え、拒絶されようとも、この考えは突き通すつもりだ。それで殴られるなら本望ともいえる。
「過去、ね。まぁいいぞ……でも、過去はあんまし振り返らないタイプだからな。全部話せるほど、鮮明には覚えてないぞ」
「それでもいいんだ。別に幼少期だとか少年期だとか、そこまで遡って聞くつもりはないしな」
師匠が一瞬、その顔を剣呑に染める瞬間をシュウは見逃さなかった。やはり、彼は過去に何か、大きな何かを抱えている。
シュウはそのことを知って、蹴落とされるような圧迫感に狼狽してしまう。空気が重くなるのを感じ、自身に鳥肌が立っているのがわかった。
——今更逃げて、何になる?
しかし、シュウは逃げ腰になりつつある己の身体に活を入れ、無理やり停滞を言い聞かせて留まった。
「魔術についてだ。概要とかそういうのじゃねぇ……あんた自身の過去に魔術ってのがどう関わっているのか、聞かせてくれ!」
「お前はそれを聞いて、どうするつもりなんだ……?」
師匠は楽観的な性格の持ち主で、シュウに隠し事などをしないタイプであった。その時、その時。起きる現象の対処法を潤滑に練り、臨機応変に対応する。そこが彼の魅力であり、強さの秘訣だ。
過去や未来に翻弄され、焦燥感によって目先のものさえも取りこぼしてしまう欲深なシュウとは、正反対の性格ともいえた。
その師匠が唯一、人間爆弾に関しては過去、現在変わらず怒りを露呈させてしまう。双眸を義憤によって赤く滲ませるのだ。シュウ程度の尺度では推し量れない、黒い負の感情が眠っている。
それを少しでも晴らすことによって、シュウは初めて彼に恩返しが出来るのだ。
「アンタの無念を少しでも晴らしたい! いや、晴らさせてくれ!」
師匠はシュウに一通の手紙を介して全てを託した。
——人間爆弾を世の中に知らしめろ。
涙によって滲んだ手紙にはそう書いてあった。
「聞く覚悟はあるらしいな」
「当然だ」
覚悟は遠の昔に決めていた。決めさせられた。未だに霞む、あの娘がシュウに力を分け与えてくれた。手を握っていてくれた。だから大丈夫だ。もう逃げはしない。
シュウの真摯な目を見て、師匠は頬を少しだけ弛緩させた。彼はそのまま腕を組み、丘から景色を眺め、
「いっちょ前にぬかしやがる。聞かせてやっかしゃーねー!!」
師匠は意気軒昂と立ち上がり、首をしゃくってシュウにも立ち上がれと示唆する。
シュウは彼の切り替えの早さに釈然としないものを感じつつも、指示通りに立ち上がった。
「俺はな、奴らに奪われたんだ。家族を、弟を……それが今から十年前だ」
「十年前って言えば、確か……戦争が始まった時期に近いな」
「あぁ、そして、その戦争が始まったきっかけは、魔術が関わっている」
愕然とまではシュウの心は動揺を示さなかった。驚きはある。信じきれない自分もいる。だが、戦争の始まる切っ掛けが『魔術』という要素以外考えられないのだ。
表沙汰では世界有数の権力者が暗殺されたため、と言及はされているものの、実際は魔術という存在を暗躍するための改竄に過ぎない。
それがシュウの今の考えだ。
「驚きはしないんだな……」
「まぁ、な。消極的にそうじゃねぇかなって、思ったからだ」
「そうか、じゃあ、話が長くなっちまうから、そこの詳細は省くぜ」
師匠は首に掛けたペンダントを掌の上に乗せ、開閉用のボタンを押して中身をまじまじと見た。そして、首からペンダントを外してシュウへと渡す。
シュウはそれを珍重に見まわし、本題である中身を恐る恐る見た。
そこには師匠と少年が写っていた。髪色は師匠と同じ黒色で、容貌は兄弟のソレだ。年齢は十年前のシュウと鑑みるに、同年或いはプラス、マイナス一歳といったところであろう。
一つだけ違うところを挙げるとするならば、
「この子が弟か……目つきが、師匠より愛嬌あるっていうか、回収屋の弟みたいな感じはしねぇーな」
「今、すげー不当なこと言われた気がしたが、まぁ自覚はあるから……いや、やっぱよくねーな!」
率直な評価に師匠はシュウの頭を軽く小づく。いや、軽くではない。シュウにとっては凄まじい痛さだ。このおっさんはやっぱり力加減を知らない。
「今の流れだと、許される流れじゃないのかよ!?」
「がははは! んなこと知るか! 自分で言うのと、他人から言われるのじゃ、ちげぇんだよ」
「それって正真正銘、上っ面だけの謙遜じゃねぇかよ! 理解はしてるけど、納得はしてませんっていうヤツじゃねぇーか!!」
ひりひりする頭を撫でながら、シュウは不平を口にする。師匠はそんなシュウの物言いに腹を抱えて哄笑した。
「それ、で……?」
「お前も知ってることだ。小さい組織が魔術師を寄せ集めるために、ところかまわず子供を誘拐しまくってた。それ以外の存在は、奴らにとってはいらない存在だ。家族は殺され、魔術師じゃねー弟も……一緒だ」
忌憚なく、さも当然のように語った。先程見せた憂いの表情はない。そのためにシュウには彼の感情が読めない。
「それで、俺だけが、その日その場にいなかった俺だけが……助かっちまった。そっからは妄執に憑りつかれた復讐鬼さ。俺の弟と同じ境遇の子供達を助け、ちっさい組織を壊滅させて、それを裏で動かしてやがる首魁を倒す、もとい皆殺しにする。そのために回収屋なんて、わけのわからねぇ仕事始めたのさ……」
口ごもらず、抑揚なく、簡潔に纏められた史実をなぞるように、起こった惨状を述べた。
シュウの胸中には白紙の用紙に滴り落ちる墨汁が如く、反感が広がっていく。
シュウならば激昂し、怨嗟の声で喉を引き裂くだろう。最悪の場合、子供のような癇癪を起し、周囲すらも巻き込む可能性もある。
何故、そこまでして冷然に徹しきれるのか。シュウには無理解が募るばかりだ。
それだけではない。師匠が今過去を語ってくれたように、彼には凄惨な過去があった。その激情や義憤は他と比較するのも浅ましいくらいに、彼の記憶にべっとりと引っ付いているはずなのだ。拘泥して止まないはずなのだ。
そして、それは師匠の手紙を読んだシュウだからこそ理解できる。いや、理解できるはずなのに、彼は冷淡でいるのだ。シュウのことを心配させないように、平静を装っているのだ。
「そうか……」
「あぁ、そうだ……」
「なぁ、師匠……」
「ん?」
「俺、わからねぇんだ……あんたがそこまで冷静でいられるのが、目の前に……アンタにとって、一番忌むべきものが目の前にいるはずなのに、どうして……俺に対して怒らないんだ?」
だからシュウには師匠の心がわからない。自分の過去を、トラウマを、それを捨てられて、汚されて、蔑ろにされて、その張本人が今目の前に現れているのに、何もしない。
赫怒し、師匠が自分を殴り倒してくれるのなら、まだ『俺はクズだ』とシュウ自身も自分を擯斥できる。
「…………」
「アンタの思いを、絆を、全部自分の為だけに、俺の気持ちの為だけに逃げて台無しにした、ゴミクズ野郎がここにいるのに、どうして幻滅しない……どうして吐き捨てられない……どうして俺なんかのカスに、もう一度会ってくれたんだ!!」
シュウは師匠の手紙は読まず、ツグハの写真も無視して『嫌だ』という一心で師匠の家を飛び出した。
シュウは師匠の死を、あの凄惨な現場を観て逃げたのだ。受け取った絆を侮辱し、受け取った暖かさを蔑ろにして、シュウという男は自分の為だけに現実逃避したのだ。
そしてもう一度、夢の中でその現場に居合わせても、シュウはトラウマを自分自身の力で拭い去る事が出来なかった。他力本願が過ぎるほどだ。
——なんと愚かで、浅ましく、救いようのない生き物なのか。
「それは、ちげぇぞ……シュウ」
「え……?」
師匠はシュウの言葉尻を捕らえた。それはシュウにとって意表を突く返しとなり、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「初めて会った時……お前は自分の為でなく、お前の大切な母さんのために動いていた。それは俺になかったお前の強さだ。俺なんかとは性根が違う。清く逞しい性根だ」
——違う、自分は自分が一番知っている。それは買い被りだ。
「お、俺が、清く、逞しい? 冗談きついぜ……アンタが死んでまで託した願いから、俺は逃げた! 自分の心の均衡を保つために、俺は気持ちの保険を掛けて逃げ——」
「だからそれは違う。それは悪じゃねぇよシュウ……それが普通だ」
「は……?」
シュウの自虐を師匠は抗弁を挟み込んで頓挫させた。彼はこの醜悪な性質を否定し、普通であると指摘するのだ。
「今やっとわかった。お前の弱さは、その高潔な精神によるものなんだな」
要領が得られない言いように、シュウはますます意味が分からなくなる。
額からは汗が流れ、目に入ったそれをシュウは拭う。一歩一歩と、シュウは現状に起きている事実に耐え切れなくて、怖くて後ずさってしまった。
シュウにとって理想郷は甘すぎる。
「強さと弱さは表裏一体とは、よく言ったものだな」
「なに、が……いいたいんだ……?」
「シュウ。逃げることは悪じゃねぇよ。それに、俺の託したっていうソレは、俺の我儘だ。だから、お前が責任なんて取らなくていいんだよ。謝るべきは俺だ……辛い思いをさせちまって悪かった……」
シュウという被り物を被った我欲の獣に、シュウが尊敬している師匠が頭を下げる。やめろ。それだけは駄目だ。それを許容してしまえば、シュウは自身の皮すらもかなぐり捨ててしまう。
「し、師匠が頭を下げる必要なんてない、悪いのは俺なのに——は、ハハハ! そうだ、何をわかりきったことを……」
シュウは諦観をしたように嗤った。
よくよく考えてみたら簡単なことだった。人というのは、自分にとって良い方向に向くことだけに視野を置いてしまう。だから猖獗には目を瞑り、思考放棄をしてしまう。
ここはシュウにとっての理想郷だ。シュウにとって都合の良い出来事が蔓延り、全てがシュウを甘やかす蠱惑の世界だ。
目前にいる師匠という名の皮を被った男は、本当の彼ではない。この世界によって都合のよく造られた人形であり、偽物だ。
「こんな土壇場で、よくもまぁ自分の都合の良い夢が見れたもんだぜ。周囲では自分の仲間が酷い仕打ちを受けてるっていうのに、俺は自分本位で他者を蹴落とす愚図だ。俺だけが満足するお遊戯会も、ここまでくりゃー才能だぜ……」
この世界に来てさえ、シュウという男は自分勝手で他者を慮ろうともしない低俗な生き物なのだ。
ここでツグハと交わした言葉さえも、シュウの掌の上で行われた演劇だったのだ。彼女の言葉も、シュウが都合よく感情や言葉を捻じ曲げ、曲解し曲解し続けた成れの果てなのだ。
それが分かってしまった途端、シュウは自身の卑俗さに恐ろしくなってしまう。
「お、俺は、母さんさえも……自分が気持ちよくなる為だけに、作っただけの人形なんだ! あれだけ貰って! あれだけ受け継いで! どうなったら俺みたいなゴミムシ野郎が生まれるんだよ!!! ここにいるアンタも!! 俺が都合よく造り上げた存在なんだ!!」
早く終わらせてくれ。この醜悪の生き物を跡形もなく消してくれ。そうでなければシュウを身を粉にして、育ててくれたツグハが報われなさすぎる。シュウに思いを託し、死んでしまった師匠に示しがつかない。現実の世界で、シュウを慕ってくれている皆を騙していたことになる。
「消えればいいんだ……そうだ、ここは理想郷だ……だから! 俺を消してくれ!! 消して消して消しつくしてくれ!!!」
消えてくれ、きえてくれ、キエテクレ。消えて、存在が抹消されなければシュウというゴミは更生されない。身体の端から端まで、蒸発しなければいけない。
——消えろきえろキエロ消えろきえろキエロ消えろきえろキエロ消えろきえろキエロ消えろきえろキエロ消えろきえろキエロ!!
「この大馬鹿野郎が!!」
刹那、シュウの顔面に大きな衝撃が走った。何をされたのだろうか。いつの間にかシュウの身体は地面に倒れ伏し、青い空が見えていた。
「もう一度、その捻じ曲がった考えを口にしてみやがれ!! 俺はお前を許さねぇ!!」
胸倉を掴み、シュウの双眸を師匠は睨みつける。息がかかる程に近くなった彼の顔は、赫怒によって燃え上がっていた。それは紛れもなく、シュウに対する激憤だった。それも、相手を退けるタイプの怒りではなく、真逆の性質。相手を思っての怒りだった。
「気持ちよくなる為だけにやった!? 造っただけの人形だ!? そんなわけがねぇだろ!! そんな奴が、そんなお前が!! 自分の力不足で悔しそうに!! 逃げたくないって顔して!! 涙を浮かべるわけがねぇだろぉぉ!!!」
そんなありもしない事実を——シュウの頬を、一本の涙が伝う。雨ではないのかと疑い、手の甲でソレを拭うが、ソレが無くなることはない。段々と増える頬に感じる温かい感触は、
「オレ、何で、泣いて……?」
——シュウの瞳から溢れ出る涙であった。
シュウの負の感情に、黒く蠢動する闇に、一つの雫が落ちた。その雫が落ちた箇所は、白に色変わりしていく。
『違います!! 間違いなんかじゃありません!!』
銀髪の少女——ユイの言葉が蘇る。心と体に彼女の気持ちが浸透していく。変わる。変わっていく。染められる。染められていく。黒の世界が弱々しい、たった一滴の白に変えさせられる。黒が一掃され、白に反転する。
『私の英雄が、英雄であることを否定しないでください!!』
シュウの瞳に、彼女の悲しみに溺れるような表情が写る。彼女の泣きながら、嗄れた声でシュウを励ます姿が照らし出される。
シュウが夢の中で、自分が自分でいられなくなりそうな時、彼女は自分の手を握ってくれた。同じ決断に至りそうな時、暖かさを教えてくれた。『逃げないで』と手を掴んで力を貸してくれた。
『はい……届き、ました!』
涙を流しながらも破顔して、彼女はそう言った。その言葉がシュウをどれだけ救ってくれたか、言葉などでは言い尽くせない。言い尽くせるはずがない。終わるはずのシュウを、立ち向かう事を拒否するシュウを、彼女は全否定した。
「心の中では逃げたくないって泣き叫んでやがるくせに、なんでそれが空回りして、そんな結論に至っちまうんだよ……お前馬鹿だ! 正真正銘の大馬鹿だ! お前自身で自分を傷つけてどうすんだよ……」
——それは無理解が理解へ、反感が共感へ昇華した瞬間だった
師匠は優しい表情で、シュウの双眸を見つめる。シュウがもう逃げないように、本当に醜態を晒さないように、掴んで逃がさないとその温かさを以って語る。
「それに、嫌いになるわけないだろ。こんなに俺を信じてくれてるやつを、そんな苦しそうにしている奴を、嫌いになってくれだなんて、俺は悪魔かよってんだ!! 本当に、お前は手間のかかる弟子だよ……」
師匠はシュウを起き上がらせる。ポケットから取り出したハンカチで、彼はシュウの涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を拭きとる。
「おら! シャキッとしろ!! 男の癖に、うじうじ泣いてんじゃねぇよ……」
「ごめん——いや、ここでは……ありがとうだったな」
「わかってんじゃねぇか!!」
目の下と、鼻先を朱に染めるシュウを見て、師匠は嬉々とする。もう大丈夫だなと笑い飛ばす。
「シュウ……お前が俺の意志を継いでくれるってのは、そりゃ嬉しい。だがな、それでお前に苦しい思いをさせるなら……俺はそっちの方が辛い……だから、お前はお前のやりたいようにやれ! そんで大切なもん守って、手持無沙汰になった時、気持ちが向いたらでいい……だがその時は、全力で俺の意志を継いでくれよ!! な!!」
シュウの背中を、力強く師匠が叩く。
「あぁもう我慢できない!! シュウの母である私が、愛息が泣いてる場面に顔を出せないなんて歯がゆいさね!」
「え!? か、母さん!?」
突如現れたツグハがシュウの頭を優しく撫でる。彼女の子供をあやす動作に羞恥を感じるが、今のシュウにはその感情さえも些末だと切り捨てるほどの、驚きがあった。
「アンタがシュウの母親か。こいつの事ちゃんと育てた? こんな偏屈な野郎になっちまったのも、育ての親の責任だろ?」
その急展開に師匠は取り乱さず、平坦な状態でツグハに応対する。理解できない展開に理解できない反応が重なる。剰え、シュウの精神は治りきっていないのに、これでは脳の処理速度が追い付かない。というか、既にパンクしている。
「そんなわけないさね! 私はシュウをそんなようには育ててません! 貴方がシュウに変な事吹き込んだんでしょ?」
「ストップ! ストップ! ストォォォップ!! 俺のことで争うのは無しだ!!」
シュウは恫喝に恫喝と、軋轢しか生まない二人の間へと割って入った。「な? な?」と、一回ずつ二人の顔に苦笑で対応し、顔色を逐次確認する。
「いやぁその通りさね! ごめんねシュウ」
「まぁ、シュウがそこまで言うならしょうがない……」
そんなシュウの行動に、人生の先駆者としての沽券に関わると感じたのか。それとも、ただ悔恨しただけなのか。『真相は如何に』とはなるが、そこに関しては追求しないでおこう。
「それよりも、なんで母さんが……?」
「それは、シュウが可哀そうで見ていられなくなったからさね。それと、別れは一緒の方がいいかなって……」
「色々と言いたいことは残っているが、ま、今はそうとも言ってられねぇよな……時間のようだ」
「時間……?」
師匠は頭を掻き、ツグハはシュウを真剣に見やる。今の今まで顔も知らないはずの二人は僥倖と言える程、息があっていた。それは二人が、偏にシュウを強く思う気持ちの証左だ。
理想郷の世界に亀裂が入り、明瞭だった空や景色が霧のように薄くなっていく。それはこの世界の住人である師匠とツグハも例外ではない。シュウの眼前にいる二人も、色褪せて消えていく。
「ちょっと待ってくれ! まだ話したいことが!!」
シュウは消失していく師匠とツグハに手を伸ばした。だが、そこにいるはずの二人には届かず、シュウの手は空を切る。
話したいことは沢山あるのに、理想郷はシュウの心の声に耳を傾けない。
「最後に質問するぜ、お前が今、やりたいことは何だ……?」
——それは決まっている。仲間を助けることだ。
「なら、それだけに集中しなさいな。私たちはもう、充分、恩返ししてもらったさね」
「おうよ! 俺も言いたいこと言えて、後腐れなくお前を見送れるぜ」
「——師匠、母さん……こんな弱い俺でも、仲間は迎え入れてくれるのかな?」
「当たり前だろ」そう言って、もう見えない師匠はシュウの肩を叩いた。
「当然さね」そう言って、見えなくなったカンナはシュウの背中を押してくれた。
何度も躓き、何度も尻もちつき、何度も逃げようとしたシュウを、師匠とツグハは励ましてくれた。何度も立たせてもらって、何度も背中を押されて気づいた。
——それでもいいのだと。
「だってそれが人間だからな! 人間が人間らしくして、何が悪いってんだ」
「そうさね! 弱いって分かってるからこそ、お互いに助け合って励まし合っていく。それが人間の美しさなんだから……誰も責めはしないさね」
二人の姿は目視はできず、どんな表情をしているのかもわからない。でも、今はきっと笑ってシュウを見送ってくれているだろう。頑張れと、大丈夫だと、お前ならできると、言ってくれている気がする。だから、もう悩む必要なんてないのだ。
「わかった。二人のおかげで迷いは晴れた。ありがとう!! 行ってくるよ!!」
「行ってこい馬鹿野郎!」
「行ってらっしゃい、シュウ!」
これでいいのだろうと思う。
沈鬱な気持ちに日が差し、そこから希望が垣間見えた。だから迷わず進まなければならない。ただ自分のやりたいことの為に奔走しようではないか。艱難辛苦など関係ない。
シュウはシュウだ。自分は自分だ。俺は俺なんだ。
——俺が俺の為にやって、何が悪いというのか。
「俺の大切なものは……仲間は俺が助ける。誰の為でもない、俺のために!!」
理想郷の出口へと向かい、現実への回帰を懇願し、ここではない何処か、自分の目的に向かって歩んでい行く。
——彼の歩んだ道は希望の光が差していた。
理想郷から今回の話まで、シュウの口調をちょっとだけ子供っぽく表現しました。
ツグハと師匠の前では、シュウは純粋なんだなって感覚で伝わっていたなら幸いです。




