16話 『理想郷』
シュウの双眸が最初に捉えた光景は斑の黄ばみを刻んだ白のカーテンだった。カーテン越しから日光が差し込める様は長閑を象徴する感慨がある。
鳥の鳴き声、飄々と吹く風の音、台所から聴こえる炊事の支度音。
「————ッ!!」
どれをとっても、非日常であった。愚鈍な思考回路がじわじわと覚醒の兆しを見せ始める。そうだ、どれをとっても——死にかけのシュウが至るべき場所ではない。
故に、ここは、
『理想郷である』
「なッ!!」
不意に投げかけられた声にシュウは驚愕を隠し切れない。部屋全体を一瞥し、声の主を探してみるが、あるモノは必要最低限の簡素な家具のみ。
シュウは何度か聴いたことのある声——いや、何度も聴いただろうか。最近は子供とも会っていないはずだ。
シュウは『自分は何を考えているんだ』と結論付け、先の泡沫な声が聴こえたのは、頭を強く抑えられた時の後遺症だと判断して切り捨てた。
「そういえば、身体は……」
あっけらかんとした口調でシュウは自身の身体を検めた。傷はない。それどころか身体全体、どこにも異常は見当たらなかった。
「あばらは折れてねぇ……頭も痛くない。そうだ、あの娘のもと、あの娘……?」
自身の記憶の齟齬にシュウは違和を感じた。名前に容姿。全てが曖昧で、その少女の記憶を探る度、頭の中にノイズが走り霧散してしまう。しかし、一つだけしこりが残っていた。そのしこりはノイズの嵐の波濤にもまれることなく、ただソコにあり続けている。シュウの心を奮い立たせて、己の面目を躍如しようと奔走している。
「俺は、もど、ら、なくちゃ……ここは現実じゃ——」
「何馬鹿な事言ってるさね? 寝ぼけちゃって。それにシュウの戻る場所なんてここ以外ない——あ、もしかして、夢の中で最愛の女の子と出会っちゃったとか……? シュウって昔っから女の子と接点なかったから、願望夢見ちゃったとか……? それだったらお母さん嬉しいような、悲しいような、なんだか複雑な気持ちさねぇ」
突如、かけられた声。シュウの横に立っていたのは黒髪のロングヘアに普段からエプロンを着ている楚々《そそ》とした女性。
どこか懐かしいような温声。心と体が慈愛に抱擁されていくのがわかる。そして、自然にしこりは色褪せてなくなり、シュウを惑わす蠱惑の思考は消えた。
「いや……なに、その思春期真っ盛りの青少年みたいな悩み……」
「みたいなじゃなくて。その通りさね……起きたのなら、ご飯出来てるから来なさいな」
布団から状態だけを起こし、こめかみをポリポリと掻きながらシュウは自身に振りかかった不当な評価に否定の意を込めて嘆息。
肩を降ろし、冗談を言ったシュウに一瞬の憂慮を女性は見せたが、すぐにそれを覆い隠して応対した。
「ういうい」とだけシュウは返事を返すと、敷布団を折りたたむ。それから腕を上げて身体を伸ばし、欠伸をして、
「母さん、今日の夕飯はシチューがいいな」
扉を開け、部屋を出ていこうとする女性に、シュウは曇り一つない喜色満面の表情でそう言ったのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「朝起きて早々、て言っても、もう十一時過ぎだけど。何を言い出すのかと思ったら、夕食はシチューがいいって……シチュー用のお野菜もないし、ルーもないし。まず今日は私、休みだって知ってるでしょ……?」
シュウの母親——ツグハは余った白飯を海苔で包み、一口で頬張ると不服とばかりに頬杖を着いた。目を細め、必殺のにらみつけ『お母さんはなんでもロボットじゃありません』攻撃をお披露目する。
端的に言うと、面倒くさいという一点に尽きるわけだが。
「わかってるよ……休みの日は朝十時にスーパーに行って、次の休みの日まで晩飯の献立を決めるって……」
「なんだわかってるんじゃん……なら、何で知ってて『今日はシチューして』なんて言ったのか分からないんだけど……?」
眉間に皺を寄せて怪訝に呻ってみせるツグハ。シュウ自身も何故、自分がそのような考えに至ったのか分からずにいた。
シチューは確かにシュウの大好物だ。それもシチューだけでご飯が食べれる程、味の効いたシチューは折り紙付きだ。シチューとご飯は合わないという者がいるが、あれは本当に美味しいシチューを掛けて食べていないからだ。
それよりも、シチューを食べたかった理由だ。そこまで深い意味はない。久しく食べていなかったから、なのかもしれない。
「それは、なんていうか……気分なんだよ。そういう気分だったから言った」
「なに、それ……気分と来たさね。この間だって『俺、今日の晩飯は丼がいい』て言って、仕方なく私が仕事帰りに買って帰ってきた時『やっぱいいわ』とか言って私を怒らせたことあったよね……?」
「い、いやぁ……あの時は本当に申し訳ない……深く反省してます」
二人は他愛のない日常会話を交えつつ、ツグハは食べ終わった食器を積み重ね、洗い場までトコトコと足を運ばせる。シュウも彼女を追うようにして洗い場まで移動。
「ホントに反省してる……? 上っ面の見せかけなら、私怒りますよ?」
ニコッと笑ってみせるツグハだが、その笑顔とは裏腹に額には青筋が浮かび上がっているために、シュウは恐怖をより一層感じた。
最後の部分で敬語になっているのは単純に怖いため、シュウは食器を置いて両手を合わせて首を垂れる。それを見てツグハは「はいはい」と手を振り、
「シュウ冷蔵庫からヨーグルトとってくれる? あぁーあとソースも」
余りにも軽い返事だったためにシュウは思わず脱力してしまった。
一拍の間をおいて「ああ」と相槌を打ち、冷蔵庫から注文のヨーグルトとストロベリーソースを取り出す。中身を鑑みたところ、どうやら今日はオムライスにするらしい。卵が一パックにケチャップ。後は鶏肉などだ。憶測ではあるが。
「これって新品だろ? 今日買ってきたの?」
ストロベリーソースに指をさし、シュウは疑問符を顔に浮かべた。
ツグハは仕事が休みの日には必ず、朝のうちに近所のスーパーに食品、飲料その他諸々の買い出しに行っている。それに際して、贅沢品も一緒に買ってきている。シュウはその贅沢品がストロベリーソースと睨んだのだ。
「あぁ、そうさね。昨日切らしてたから、今日買ってきたの。頂戴な」
そう言って差し出してきたツグハの手にシュウはストロベリーソースを渡し、
「俺もヨーグルト食いたから、後でカップ貸してくれる?」
「りょうはい」と口に木製スプーンを銜えながら、ツグハは装ったヨーグルトの上にストロベリーソースをトッピングしていく。
白色のヨーグルトに真っ赤な液体になりきっていないジェル状のストロベリーソース。それは、血に——シュウはその妙な邪推を咄嗟に吐き捨てた。
「母さん……俺はソースは、あ、いや……やっぱりヨーグルトもいい。片付けていいよ……」
シュウはツグハの装ったヨーグルトから反射的に目を逸らしていた。それは、見たくないものを見てしまった時に来る忌避。現実から目を背けようとする逃避といった負の感情であった。
何故、今この場でその感情が生まれたのかは分からない。だが、どこか既視感のあるモノがあった。夢の中で自分が殺されかけ、大切な仲間達が蹂躙されていく最低最悪の悪夢。
最後に、誰かにむかって呼びかける少女の悲嘆の声。
「何よ、その掌か、え……ど、どうしたのシュウ……? 何処か具合が悪いの?」
顔色は青く、額からは冷や汗が垂れ落ち、呼吸は不規則になっている。シュウは自身の身体に酸素が巡っていないのだと感覚で理解した。
床に腰を着き、口元に手を当て憔悴しているシュウに、ツグハが心配げに近寄ってくる。背中に彼女の手が触れてシュウはその温かさに縋らないように、
「大丈夫だって母さん……ちょっとした立ち眩みだよ。心配する必要なんてねぇって……」
「ちょっとした、立ち眩みって……立ち眩みにちょっとしたも、何もないさね。やっぱり、具合悪いじゃない。ちょっとおでこ貸して、熱があるか確かめ——」
「いらねえって! 大丈夫だよ! 母さんは心配しすぎなんだよ……ちょっと外の空気吸ったらすぐに治るって」
悲哀と憐憫を向けてくるツグハをシュウは倒錯的に引き離してしまった。彼女の憂慮を無為にしたその行動に、シュウは忸怩しながら立ち上がった。罪悪感がシュウの胸を抉りつける。
外に出るつもりなど毛頭なかったはずなのに、ツグハに心配かけまいとシュウは玄関まで足を運んだ。
怒りを孕んだシュウの言に、ツグハは覆い隠せない程の感情を極限までに抑えていた。悲愴に顔を曇らせながら、彼女はシュウの背中をただ見つめていた。そして、
「わかった。早く、帰ってきてね……」
眦に涙をこらえながら呟いた。
シュウにその言葉は届くことはない。そして、それはツグハとシュウとの決別の日を去来させるのであった。
雨が降り出しそうな空模様の中、シュウが煩悶しながら向かったのは自宅を出て数百メートル先にある公園だ。公園に向かう中途、顔見知りである近隣住民の人たちに怪訝な目で見られていたが、シュウは気にせず公園に出向いた。
そうした一連を挟みつつ、シュウの現状は公園のベンチの上だ。三人用として作られたであろうベンチは、シュウ一人で座るには十分な程大きい。
その広さをシュウは最大限に活用。要は両手を左右に広げ、空を仰いでいた。
「俺って、バカだな……」
感情的になって自宅を出てきてしまった自分自身にシュウは苛立ちを覚えていた。思春期真っ盛りの青少年の悩みとして、異性や親との関係などが挙げられるが今回は完全に後者だ。自分は子供ではないと思い込んでいて、この醜態とはつくづく救えない話である。
「いつも母さんに心配かけてばっかじゃねぇーかよ……なさけねぇ」
ツグハの前でシュウは自分の本心を出し切れないでいた。いつもいつも彼女に甘え、やりたいこととやりたくないことが空回りしてばかりだ。本当はただ親孝行がしたいだけなのに。
「あぶない!」
「ん……? なんだぁ!! うぁ!?」
急にかけられた声に何事かと顔を上げたところ、タイミングよくシュウの顔面にボールが直撃。それに直撃したボールは柔軟性の類ではなく、本格的なサッカーボールだ。
シュウの顔面にぶつかったボールはその場で勢いが殺され、地面に数回バウンドした後に制止した。
「ご、ごめんなさい。か、顔大丈夫ですか……?」
「大丈夫じゃない……完全にクリティカルヒット。目に砂入った。後、口にも……」
「本当に申し訳ないです!」
目の中に入った砂を指で擦りながら、シュウは目を見開く。口の中の砂を唾と一緒に吐き捨て、目の前の申し訳なさそうに打ちひしがれる子供に視線を送る。
黒の短パンに白いシャツ、頭には黄土色の帽子を被っていて、収まりきっていない真紅の髪が窺えた。容姿は鼻先までしか見えない。雰囲気は少年のような直情さと、少女のような慎ましさが混在していて、中性的なイメージが強い。
「まぁそっちに悪気があったわけじゃないんだし……取り敢えず大丈夫そうだから別にいいよ」
「で、でも何もしないにも申し訳ないですし……何かさせてください!」
社交辞令で返すシュウに、子供は一歩前へと足を踏み出し、己の意見を主張してきた。見た目はともかく、雰囲気がどことなく艶めかしい子供。卑しく歪む、その口元からは自分自身が蠱惑的だということを自覚している節があった。
「悩み、とかどうです……? お兄さん、どこかお悩みのようですし。それに僕って、見た目はこうですが、実は学校では名の知れた相談家なんですよ……」
「へ、へぇーそうなんだ……」
「あ、なんか信じてませんね!? 本当なんですよ。さぁさぁ!」
『立場が逆転しているじゃねぇーか』という突っ込みを入れるのは、相手が子供であるため却下。
とはいえ、シュウの万感からくる思春期真っ盛りの複雑な悩みなど、純粋な子供になど分かるはずもない。恐らく、無邪気さ故の答えを返してくるだろうとシュウは予想。
「わかったよ……実は母さんと喧嘩しちまったんだ」
シュウの了承を得て、子供は嬉々としながら空いたベンチに腰を降ろした。ユラユラと揺れている足は子供特有の好奇心の旺盛さを体現している。
「それは、それは……どんな喧嘩を?」
「行き違いっていうか、考えの齟齬っていうか、なんていうか。取り敢えず喧嘩しちまったんだ」
シュウは言葉にしづらい類のモノを模索しながら口にする。齟齬という言葉が子供に理解できるかと思ったが、子供は疑問符を浮かべることなく、
「なんだ、そんなことですか。そんなのすぐに謝っちゃえばいいんですよ。もじもじしてても変わりませんよ……?」
指をクルクルと回しながら当然のことを言った。そして続けざまに、
「母親に対して負い目を感じているなら、今すぐに家に戻って気持ちを伝えないと」
的を射た子供の指摘。当然すぎる結論だ。だが、そんなことなどシュウでも理解していた。
真剣に向き合い、話し合い、謝ればツグハはシュウを許してくれることはわかり切っている。彼女の優しさを、生まれた時からシュウはその目で観てきた。何度もだ。だから知っている。知らされた。ツグハはシュウにとって過ぎた母親であると。
「そんなことは……わかってる。でも、面と向かって母さんと話し合あうと、自分が自分でいられなくなるんだ……」
ツグハの温もりを味わってしまえば、甘えたいと思う自分が出てしまう。そんな愚かな自分が嫌いだった。この自己嫌悪が自身だけではなく、彼女にまで向いてしまう。
そんな自分勝手で他人を慮ろうともしない、クズな自分がシュウは大嫌いだった。
「なんでなんだろうって、制御できなくなっていく自分が嫌になっていって、それは俺じゃなく母さんのせいなんだって……思い始めた俺がいた」
そうやって自分に気持ちの保険を掛けて、シュウは逃げ始めた。
「愚かだね。自分すらも偽れず、安全な場所に居座ろうとするのは愚者のそれだ。それは未来視よりも浅ましく、下劣で矮小だ。見ていて滑稽だよ……シュウ」
「——な、んて?……」
子供はその顔を剣呑に染め上げ、シュウを揶揄するように言った。棘のある言葉には相手を忌み嫌うような嫌悪が孕んでいる。生きている価値はないと、子供はそう言いたげにシュウを見下していた。
数秒、シュウの理解が遅れてやってくる。シュウはそれを見た瞬間、子供の身体が何倍にも大きくなるような錯覚を感じた。実際には子供の身体は小さく、華奢なもので何一つ変貌などしていなかったが、確かにシュウは感じたのだ。
そして、シュウは子供を取り巻いている妙な威圧感に気づいた。
何時ぞや聴いたセリフに声。異常を体現するような子供に、シュウは危機感を覚えた。見覚えしかない。シュウはこの子供が自分自身を試すように声を掛けてきた張本人だと、直感的に理解した。
「ま、まさか……俺に囁きかけてきたのはお前、なのか……?」
「ふふ、憤懣やるかたない、といった面持ちだね。そうだねぇ、今は黙秘するとしようか。それに、君は僕に構っているよりも、もっと他にやらなければならないことが沢山あるはずだよ……?」
「—————」
「言っておくよ……後悔してからでは遅い。一度失ったモノは返ってこない。それを君は知っているはずだ。それに、誓ったんだろう……逃げないと、ね」
唇をペロリと嘗め回し、嬉々とした表情で子供は言ってみせた。シュウが何を選択し、何に対してどのような感慨を抱くのか。それをこの子供は虎視眈々と伺っているのだ。
子供の表情は先ほどとは全く異なる異質さを放っていた。それは、シュウにとって味わったことのない未知の感覚だった。腹の中を透かされているような嫌悪感に苛まれていく。
シュウは息詰まった喉から呼吸を整え、平衡を保とうと、己の胸を強く掴む。
「何を知っているんだ? ——ッ!! クソ!」
シュウの意志とは裏腹に身体はその子供——否、未知なる存在から発せられるプレッシャーによって脱力してしまった。
立ち上がろうとしても足に力が入らず、小鹿のようによろめいてしまう。四肢は痙攣し、身体は沸騰しているかのように熱い。シュウの喉元まで、赤く熱を帯びた何かがこみ上げてくる。
蘇ってくる。シュウの第一の汚点が。
『母さん!』
悲しみに泣き叫ぶ少年の姿がいる。
『なんで! なんでなんだよ! 目を開けえてよ母さん!』
歯を食いしばり、嗚咽しながら、布団へと横たわる女性に声を掛け続けている少年がいる。
『こんな、こんな別れ方なんて……そんなの、いやだよ!!』
「約束は果たす主義だからね……という事で、ここからは君次第だ。このチャンスを忽略にしないよう奔走しなさい。願いが結実されることを、彼女と彼は望んでいるよ——今でも……」
——もし、この手が届いていたのなら。
叶うのなら。もう一度やり直せるなら。今度こそは届かせなくてはならない。それが少年の——シュウの願いなのだから。
——今度こそ、届かせてみせる。




