10話 『選択肢』
シュウの目の前には二人の男児が立っていた。
友達ではない、シュウと二人の間柄を鑑みれば友と呼べる関係ではないと理解できる。
「お前の母ちゃん、死んだんだってな」
「そりゃあ死んで当然の話だよな、お前みたいな小汚くて弱っちぃ子供なんて産むくらいだから、親が弱いのも道理だよな! アハハ!」
それは、シュウが母親——ツグハ意外に抱いた初めての感情であった。激情が沸き、敵愾心となって爆発する。
ただ、ただ許せなかった。ツグハの思いを知らずに侮蔑するこの二人が、自分だけでは留まらず、大好きであった彼女を蔑み、剰え「死んで当然だ」なんて。義憤がその時、シュウの情弱さに勝った。
——思い知らせてやる、絶対に謝るまで許さない。
「謝れよ……」
「あ?」
「謝れって……謝れって言ったんだよ!! 母さんの思いを、何一つも知らないお前らが、僕の母さんをカタルナァァァァ!!!」
「なんだよ!! 生意気だぞ! 弱いくせに!」
二対一。戦力は雲泥の差だ。結果はシュウの敗北で終わった。
突撃したところを殴られ、蹴られ、転ばされて、踏みにじられた。転んだ拍子にシュウのポケットから、一枚の写真が地面に落ちた。
「なんだ、このきたねぇ写真は……」
「返せよ!!」
「るせぇよ!! 弱虫!」
男児はシュウの反応を見て、『ニチャア』と涎を垂らして嘲笑する。
「これ、川に捨てようぜ!! こいつがどんな顔するか見てみたいし!」
「ナイスアイデア!! 『ヒセン』コンビは最強!!」
シュウは止まらなかった。『一矢報いてやりたい』『謝らせてやりたい』そんな怨恨が糧としてシュウを突き動かしていた。
だが、炎炎と燃え盛る怨恨の炎は敗北という形となって、子供であるシュウに無慈悲に突きつけた。
——悉く負けた。
「おい、お前ら! それ以上その坊主に手を出すなら、俺が相手になるぜ」
諦めの境地に立たされる中、シュウの双眸は声の主の方へ向いた。
巨躯の男が立っていた。男は二人の男児に威圧をかけるように一歩、また一歩と二人の男児に歩み寄り、恐怖という種を根っこから植え付けようと試みる。
「ひ、ひぃー!! やくざだ逃げろー!!」
「ふん! 根性なしめ」
奪った写真を投げ捨て、逃げ去っていく二人の男児に諦観したのか、男は啖呵を切ると泥と血でボロボロになったシュウの元へと駆け付けた。胡坐をかいて頬杖をつき、地面に倒れ込んでいるシュウを男は俯瞰する。
「おい坊主、大丈夫か」
「は、はい……だい、じょうぶ、です」
「そうやって、やせ我慢できる気力が残っているなら……本当に大丈夫そうだな」
男はシュウの頭を無造作に撫でまわし、寵愛の眼差しでシュウを見やる。
「クソ……クソクソ! 僕はなんでこんなに弱いんだ……なんで、強く、ないんだ……」
シュウは地面に拳を叩きつけた。拳が傷つこうとも、血と泥で汚れようとも構わず叩きつけた。噛み切られた下唇からは血が滴り、その痛みは弱い自身への呵責だとシュウは思った。
「まあ、そう怒るな、お前は立派に母さんのために戦ったと、俺は思うぜ」
「こんなに、ボコボコにされたのにですか!?」
自分は敗北したのだ。それも、ただの敗北ではない、大切な存在を貶され、ボコボコにやられて、挙句の果てには助けられてしまった。
シュウにとっては完全敗北だ。これは、客観視しても変わりはしないだろう。
だのに、この男は「立派に戦った」と、いうのだ。理解が出来ない。
「そうだな……蛮勇も蛮勇だ。相手の力量もわからず、突っ込むのは無謀とも言える。だが、お前の中には確かにあっただろ、母さんを思う気持ちが……少なくとも、俺はそう感じた……」
紅の夕日を見上げながら男は言った。
シュウは男の言葉を反芻した。そして、自分は報われたのだと感じた。
暗闇の中に一点の光が差し込める。その光には久しく感じたことのなかった温もりが、優しさがあった。
憔悴しきったシュウは、その光を求めひたすらに追いかけた。渇望した。縋った。この男なら、もしかしたら自分を導いてくれるのではないかと、盲目になる程に。
「もし、お前があそこで言い返せない根性なしだったなら……俺はお前を見捨ててた。だが、お前は蛮勇でも勇気を振り絞り、逆境と対峙した。なら、それだけで十分だ……」
男——師匠との邂逅がシュウの考えと人生を変えた。師匠は弱い自分を助け、その罪を糾弾しなかった。
「これは、坊主の大切なもんだろ? なら、もう手放すんじゃねぇぞ」
「ありがとうございます!」
——シュウは決意した、この男について行くと。
——別れは唐突だった。
「わりぃ、シュウ……お前は俺を嫌いになると思う。だがな、許してくれ。お前は俺の希望なんだ……」
「どういうことだよ、おい……師匠?」
シュウは男——師匠の言葉の意味を汲み取れなかった。一つ一つの単語の意味は分かる。だがその単語たちが羅列された途端、シュウの頭は要領をオーバーしてしまい、使い物にならなくなってしまうのだ。
「身勝手なのは分かっている。だが、選択肢はこれしかない」
「意味が分からねーよ! 急に何を言い出して……」
「そう、だよな……」
師匠が何かに対して倦む姿を初めて見た。いつも抑揚ある口調の師匠が、その時だけは訥々としていた。
「次、目を覚ましたら、手紙を読んでくれ」
「おい、何処に!?」
足元が覚束ずにその場にシュウは倒れ込んでしまう。次第に瞼が重くなり視界と思考が曖昧になる。師匠の背中に手を伸ばそうともしても力が入らない。
「師匠……あんた、何を……飲み物に、いれ、やがぁ……った」
耐え切れない衝撃にシュウは地面に倒れ、もんどりうつ。傍にあった机を頼りに、立ち上がろうと試みるが、半ばで力が抜けて元に戻されてしまう。
シュウの視界を防ぐようにコップが転がり落ちた。
その中身を窺えと言わんばかりに、コップの底にはライオンの紋様が入っていた。
「ま、て……く、え、し……しょう」
シュウの意識と同調するように、ライオンの紋様が消散していく。
「ありがとな……お前といた時間は、掛買いのない時間だった」
師匠が最後にそう言った気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
目が覚めた時、視界は全て黒で覆いつくされていた。『夜なのか?』という考えが脳裏をよぎったが、月明かりや街頭の明かりが一点も差し込めないというのはおかしい。
「ここは……どこだ?」
起き上がろうとしたシュウは暗闇の中、頭に何かをぶつけた。シュウはぶつかった物を手探りで撫でまわし、ここが何処であるかを思案。それ程までに広くはない空間。立つことは疎か、上体を起こすこともできない狭さだ。
「何かの、中か……?」
そうやってぼやきながら、シュウは寝転んだ状態で両手を上に翳し、押し出すように力を入れた。『ギシギシ』と木材が軋む音が鳴った。
どうやら何かの中にいるのは確からしい。
「あか、ねぇ……」
仕切り直すために一度深呼吸をして、シュウは精神統一を図る。肩に力を入れ、全身の力を使って押し上げる。
「—————!!」
少しずつ、少しずつではあるが、重い何かをシュウが押し上げていく。木屑や埃が顔面に振りかかるが、気にすることなく押し続ける。
扉の上に何かあったのか、重たいものが倒れる音がした次にはシュウの双眸は、光を捉えた。
真っ白な、簡素な天井だ。更に言及するなら、今の時代でも白熱電球なんかを使っているのかよ、と感想が出てきそうな天井だ。
「師匠の家か……」
まだ思考機能が覚束ない脳を覚醒させながら、シュウは重い腰を上げた。
机が床に倒れていて、雑然と散りばめられた紙に本の束。床下には、土足で踏み入ったことがわかる靴跡の数々。
普段から億劫な師匠が掃除をしないとはいえ、荒らされたとしか言えない惨状。
「なに、が……あったってんだ? そうだ、師匠は……?」
飛び出すように走り出し、シュウは現在の部屋——師匠の仕事部屋から出ようと扉に手を掛ける。
「ぁ……また、あかねぇ……」
力任せに扉を押し、シュウは無理矢理に開けようと試す。奥で扉と物が何度もぶつかる音。肉が崩れるような音。それをシュウは無意識的にシャットアウトしていた。
痺れを切らしたシュウは、全力で扉を蹴り、蹴って駄目ならタックルで扉を開けようとする。
そして、唐突に扉は開き、シュウはそのまま廊下に飛び出てしまった。
ぶつけた首部分を摩り、立ち上がるために掌を床に当てる。最初に感じた感覚は生暖かく、泥濘のような滑りを帯びた液体だった。にゅるにゅると、感触を再確認するように手繰り、シュウは手に着いたソレを確認しようとした。
「あッ!! な!? なんだよ!!」
シュウの双眸は、掌に着いた赤黒い液体を見据える。それだけでなく、部屋中には有象無象の死体群がころがっていた。
人の原型を留めていない死体。輪切りの肉塊になった死体。焼け焦げた死体。穴だらけの死体。身体が半分無い死体。頭だけの死体。身体だけの死体。死体死体死体死体死体死体死体死体したいしたいしたいしたいしたいシタイシタイシタイシタイシタイシタイシタイ。
血生臭い匂いソレを見たシュウは、胸中で現実を否定しようと脳を奔走させる。だが、ソレはシュウの縋るような現実逃避を嘲弄するように、事実だけを突き付けた。
見ろ、視ろ、観ろ、みろ、ミロと、現実を受け入れろと惨憺だけを語り掛けてくる。
「ち、違う!! これは、嘘だ……現実の訳が無い。師匠は、生きてる……俺は殺してない!! 違う! ちがう! チガウ!」
精神の均衡状態を保てなくなったシュウは、事実を事実で塗り替えようとリビングへと走り出した。
生きていてくれと、死んではいないと、いつものように笑い飛ばしてくれと、笑えない冗談を言ってくれと、優しく頭を撫でてくれと、渇望して、懇願して、望んで、縋って、願い続けた。
「ぁぁ……う、嘘だ……そんな、嘘だと、イッテクレヨ」
——イヤダ。ミタクナイ。コワイ。カエリタイ。ニゲタイ。
——嫌がるな。見ろ。怖がるな。引き返すな。逃げるな。受け入れろ。
「し、しょ……う」
——師匠の亡骸が壁に横たわっていた。
「ああぁぁぁぁッ!!!」
陰惨な状況を目の当たりにしたシュウは喉が引き裂けそうになる程に叫んだ。師匠が死んだという事実に対しての慟哭が周囲に響き渡る。
「俺が、俺のせいで! 俺が弱いから!! 俺が強くないから!! 師匠はぁぁぁぁぁぁ!!」
絶望が目と耳と鼻からシュウの体内に入り、体中を突き刺すように木霊する。抜け出すことなく、底が無いため池のように蓄積し、精神を蝕み続けていく。
呼吸は乱れ、視界は歪み、音は掻き消され、匂いは饐えていく。
感覚は欠如し、感情は破壊され、思考は破綻していく。今の今まで、逃げ隠れしていたトラウマが、シュウを瓦解させていく。
どうしてこうなった。誰がこんなことをした。誰のせいだ。
何故こんなことをした。ここまでする必要があったのか。皆幸福が大好きなはずなのに、何故他者を貶めるのかわからない。そんな奴は消えてしまえばいいのだ。消えてなくなって、ごめんなさいと、泣いて謝って後悔すればいいのだ。
どこにいる。近くに居るはずだ。そうだ。そうに違いない。見つけ出さなくては。探し当てなくては。二度と悪さができないように懲らしめてやる。
いた。見つけた。間抜けだ。逃げも隠れもせずに泣き喚いている。チャンスだ。こいつを斃せば全てが元通りになる。その筈だ。こいつさえいなければ全てが上手くいったのだ。
手を伸ばせ。首を締めろ。息の根を止めてやれ。首ごと骨を折ってやれ。そしたら次は四肢をもいでやれ。先ずは左腕だ。次に左脚。時計回りだ。最後は断頭しよう。そして、晒してやるのだ。ざまぁみろ、と。
シュウの腕が、自身の首元に近づく。分厚く、乾いた赤黒い血の付いた手がシュウの首を、
——その時だった。
『今度こそ、きっと……』
どこからともなく、聞き覚えのある愛嬌のある声が聴こえた。
『きっと私が……お兄さんを救ってみせます! もう二度と、死なせたりしません!!』
逆境に挫けず、凄惨な世の中に怖気づくことなく、正しくあろうとする声。少女ながらも自身の立場を理解し、力強く前を見据える声。
今の自分とは、全くもって正反対な銀髪の少女——ユイの声だった。右手に慈愛に溢れた温かさを感じる。
「お、れは……なに、を……しに」
この場に来てまで自分はまた尻込み、過去の自分と同じように逃げようとしていたのだ。
——滑稽だ。
——何が大切なもん全部救うだ。嗤わせるぜ、口先だけじゃねぇか。
シュウは自身の頭部を床に叩きつける。激昂する感情を、シュウは自傷という手段によって正気を保とうとしたのだ。
「オレ、ハ……お、れは……俺は……何のためにここに来たんだ!! 自分自身を叱咤するためにきたのか!? 違うだろ!! 俺はそんな詰まらないことをするために、ここに来たんじゃねぇ!!」
決して狂人にはならないと、中身の無い傀儡にはなり果てまいと、己が理性を以って意識を保ち続ける。
それを許容してしまえば、本当の意味で母さんと師匠を蔑ろにしてしまう。シュウ自身の生きる意味がなくなってしまう。シュウという存在を、自分を慕ってくれている人たちの意味を捨てることになる。
それはシュウが死よりも、もっと恐ろしく思う終わり方だ。それだけは、決してやってはいけない。
体中がボロボロで、師匠の見る影もない亡骸。顔は血塗れで、窺う事はできない。それでも亡骸が師匠のものであると理解できたのは、シュウが彼を真に好いていたからだ。
「——師匠、未熟な俺に力を貸してくれ……」
詰まる喉に嘔吐きながら唾を嚥下し、憧れだった男の亡骸に触れる。消えかけている温もり、失われていく温もり、それに触れ、シュウは見えない力を受け取った。
——覚悟は決まった。
亡骸が握っていた物——折りたたまれた手紙を手に取り、広げた。
『シュウ。お前がこれを読んでいる時、俺はもう死んでいるだろう。
だが気にするな。俺が死ぬのは決してお前の責任なんかじゃない。
自分自身の身を守れなかった、俺自身の責任だ。成すべくしてなった、だから悔やむことはない。自分を憎むな。
それと、お前を最後まで育ててやれなくてすまなかった。
師匠なんて殊勝な面しておいて、最後は放棄だんて、俺はクソ野郎だ。
でも大丈夫だ、お前はもう弱くはない、強くなった。俺が居なくても、一人でもやっていける。
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最後に頼みがある。俺の寝室の床下にある物を隠しておいた。
それを見てくれ』
書き綴られた文字と文字の間に、大きな隙間が空いていた。その箇所だけ、書き直したような黒ずみによって滲んでいた。
師匠がこの手紙を書き綴っている時、どのような万感を胸中に抱いていたのか、胸が痛くなるほど伝わってきた。
涙が手紙の上に落ちる。ポロポロと、とめどなく落ちていく。滂沱の涙がシュウの顔を濡らしていく。
過去の自分はこの手紙を読むことなく、怯懦して逃げてしまった。
子供の様に泣きべそをかき、我欲のために全てを蔑ろにしたのだ。自分自身の愚かさが許せない。シュウという不埒漢が許せない。
「わかったよ……師匠。俺は、アンタの意志を継ぐ!」
シュウは師匠の思いの重さを噛み締めながら、死屍累々《ししるいるい》としている廊下を通過し、寝室へと赴いた。
床を手探りで探していると、一箇所だけ妙な部分があった。手で触れるだけで、床の木材が軋む音が聞こえた。
恐らく一度、床に穴をあけ、ある物を隠し、その後穴を塞いだのだろう。寝室にあった木の棒で床を叩き、穴をあける。
果たして、そこには箱があった。大きさは、凡そ手のひらサイズの箱で、それをシュウは手に取るって辟易することなく箱を開ける。
——一枚の紙切れだった。
『人間爆弾、これを世界に知らしめろ。これが全ての元凶だ』
瞬時『ゴトッ』と背後から何か大きな物体の倒れる音。シュウは後ろを振り向いて寝室を出た。
「どう……なってんだ……?」
先ほどまで、廊下に転がっていた有象無象の死体は無くなり、床や壁に染み付いた黒い血は見る影がなくなっていた。無造作に開いていたドアは、何者もいない筈なのに閉まっている。
突如、死屍累々としていた廊下が、部屋全体が全て元通りになっていたのだ。
「そうだ、師匠は!?」
シュウはその先に師匠がいるのではないかと駆ける。師匠という存在に縋り、もしかしたらという淡い希望を持ち、理性では違うと悟っていても、シュウは奥の、いつもの部屋に向かう。
ドアノブに手を掛け、
「師匠!!」
『そろそろ、覚醒の時間だ……もう少し、君の選択を見ていたいけど……それは、またの楽しみにしよう』
——またもや、子供の声と共に、シュウの意識は遠のいた。




