インサイダーカクテル
僕はもう10年近くの付き合いになる友人と、行きつけの店に飲みに来ていた。
珈琲と酒が飲める、隠れ家のような雰囲気の店。店長とも知り合ってもう、3年近くになる。
「久しぶり。大学、調子はどうだ?」
「まずまずかなぁ。あぁ、カウンターでいいか?」
「あいよ。久しぶりに店長とも話したいしな。」
23歳、現役自衛官の彼とは、僕が10歳くらいの時にインターネットを通じて知り合った。僕も彼も闇を抱えていた頃、『異世界に行く方法』を探していた僕らは、掲示板で意気投合した。
結局異世界には行けていないが、変な儀式とかオフで会っての冒険とか、記憶にあるのはいい思い出ばかり。友達も増えて、何人かとは時折こうやって飲みに来ている。
カランカラン、と心地いい音が鳴る。落ち着いた雰囲気のあるジャズが流れている店内。
まだ早い時間帯だからか、人は居らず、がらんどうとしている。しかしそれがまた、この店の隠れ家感を一層強めてくれていた。
カウンター席に座ると、店の奥から、ふらりと出てきた店長が寄ってくる。両手には、水が結露したグラスが2つ。
「流行りに乗って、レモンサワーに凝ってみたんだが──どうだい。たまには3人でどうだ」
言いながら、コトリ、とテーブルにサワーの入ったグラスを2つ置く。店長は「これはサービスだ」、なんて付け加えた。
「僕はまだ19だから遠慮しとく、すまん」
「真面目だねぇ、あと2か月でハタチでしょ……あ、頂きます。」
「クソ真面目で悪かったな。」
少し皮肉気に返してやると、友人はでっかいレモンが浮かんだグラスに一口、口を付ける。
「店長、ジンジャーエールにライム入れる奴頼む……なんだっけか名前。」
「サラトガクーラーね。少々お待ち」
「やっぱり、カクテルはなんかお洒落な名前がついてるな」
グラスにライムジュースとシロップを注ぐと、ゆっくりと会話が始まる。
「レモンサワーは、どうだい」
「酸っぱいだけのもんかと思ってたが、滅茶苦茶うめぇ。いい具合に辛さが効いてる。絶対売れるよ、これ。」
店長が、冷蔵庫から出してきたジンジャーエールの瓶を開けると、ぷしゅりと心地の良い音が鳴った。グラスに注ぎ始めると、こぽこぽと、水音が鼓膜を揺らす。
しゅわしゅわという炭酸音が、僕らの思考を落ち着かせた。
「へぇ、2か月後、僕も飲みにこようかな。」
「待ってるよ。はい、サラトガクーラー。」
バー・スプーン片手に、店長は僕の手元にカクテルを置いた。
「で、今日は何話に来たのさ。」
「あーいや、たまには昔の話でもしようかと思って。」
僕が言うと、友人は怪訝な表情を浮かべる。
「俺らの昔話なんて、そんな良い話じゃないだろ。」
「たまに、愚痴っぽい話もしたくならない? まぁ、聞いてくれよ。」
うむ、と店長は頷く。3人はグラスにまた口を付けた。ほんのりと、甘さと爽やかさの増したジンジャーエールは、良い具合に喉の不快感を癒してくれた。
「最近気付いたことなんだけどさ──記憶が無いんだよ。10歳くらいまでのが、綺麗さっぱり。」
「記憶?」そう聞き返してくる店長に、僕は首肯で返す。
「僕ら3人は、『異世界に行く方法』を探して出会ったっていうのに、僕の場合は肝心なきっかけが思い出せない。現実で嫌な事でもあったのか、いじめでもあったのか……何があったのか、全く。」
「子どもの時の記憶か。そんなもの、俺も無いよ。」
友人が言うと、店長は少し複雑そうな表情を浮かべた。そして口を噤むように、カクテルを口に含む。僕もつられて、グラスを口に運んだ。
「何回もしてる話だけど……俺が施設で育った、って話はしたよな。なんとなく、虐待されてたらしい事は覚えてるが、それも半分くらい人伝で聞いた話。親との記憶は殆ど無い。」
「本当に辛かった事ってのは、忘れちまうのかな。」
グラスをまた口に運ぶ。氷が、からんからんと風鈴みたいな音を鳴らした。
「でもなぁ。僕は、そんなにきっつい虐待を受けてたなんて聞いたこと無いし、体に暴行の痕も無い。中学からは普通に、家族4人で暮らしてた筈なんだよ。玲央には嫌味な話かもしれないけど。」
「確かに喧嘩売ってんな?」
友人──玲央は少しむっとしつつ、軽く笑って流してくれる。態々玲央を選んで話す辺り、我ながら性格が悪いと思うが、一番参考になりそうな意見をくれそうだから、仕方がない。
「だが、トラウマって、辛いことが心の傷になって、ずっと残る事だろ。なら記憶が全部消えるって事はおかしくないか?」
店長が不思議そうに言う。まさにその通りだった。
少しだけ、静かに興奮して、僕はコトリと音を立ててグラスを置く。
「そう、そうなんだよ。だから、何かがおかしい。記憶、それも10年分が、そんなに簡単に消えるものなのか。」
「判らんなぁ。俺はもう、手詰まりだ。」
気付けば、サラトガクーラーは飲み干していた。会話しながら思考に耽ていると、時が経つのも、飲み物の減りもあっという間だ。
「店長、珈琲頼む。」
「あいよ。ホットとアイスどっちにする?」
「今日は暑いし、アイスで頼む」
「了解」
店長はコーヒーサーバーにカランカランと、ロックアイスを入れていく。フィルターに
珈琲豆を測り入れると、深煎り豆の濃い香りが漂ってきた。
店長がお湯を注ぎ始めたのを見て、玲央がスマホの画面を見ながら、言う。
「昔書き込んでた掲示板見てんだけどさ、ちょっと気になる事があって。」
「ん?」
玲央はレモンサワーを飲み干した。
「お前さっき、家族4人で──って言っただろ? 書き込みには5人暮らしって書いてあるんだよ。」
「……え?」
僕は思わず、素っ頓狂な声を上げる。
ずっと、4人家族では無かったのか。減った一人は同じく兄弟なのか、それとも「5人暮らし」とい表現なら、祖父母と同居していたって事も考えられる。空白の10年間の謎が又一つ増えて、頭が混乱する。
「少なくとも、関係ないって事はまず無いよな。」
「あぁ……っていうか、お前今は3人家族じゃなかったっけ」
「え? 確かにそうだけど……あれ?」
更に頭が混乱する。
また一人、家族が減っている。
死んだのか、追い出して施設に入れたのか、それくらいしか思いつかない。もし家族が死んだとしたら、絶対に何か、ヒントくらいは知っている筈だ。何かがおかしい。
「とりあえず、アイスコーヒー。飲んで頭冷やしな。玲央の分も淹れたから飲め。これもサービスだ。」
店長が、なみなみ珈琲が入ったグラスを置く。一口含むと、口当たりの良い苦みが舌に染み込んでいった。
「思い出せる事、なんか無いのか?……って言っても、もし人が死んでたりしたら酷だがな。」
「いや、その線は無い筈だ。墓とか遺影とか、そういうもんは見たことも聞いたことも無い。まさか、僕が異世界から来た、なんて事は無いと思うんだがな。」
「もしそうだったら笑うわ。異世界から来たのに、まだ『異世界に行く方法』を探してるってね。」
そう言って、玲央もまた一口珈琲に口を付ける。
店中に、珈琲の香りが充満していた。これ以上ない程、居心地の良い空間。こんな素敵な場所を作ってくれた店長には、感謝しかない。
「あ、今度は気になる画像があったんだが」
玲央がスマホの画面を見せてくる。
真っ赤な液体──恐らくは『僕』の血液で描かれた六芒星。そしてその中心には「飽きた」の文字。割と有名な儀式だが、僕は、こんな痛々しい儀式をやった覚えは無かった。
「この書き込みには、『血が出ていて勿体なかったので、飽きたをやってみた』なんて書いてあるが……お前、やっぱり虐待されてた?」
僕は首をかしげる。
「そんな事ないと思うんだけどなぁ……痣とか残ってないし。でもそれなら、家族が減っているのも説明がつく。虐待か何かが原因で施設に入って、僕は辛い記憶を頭から消してしまった。」
僕は又、珈琲を口に運んだ。
「真実は神様──いや、両親のみぞ知る、ってとこかね。」
「そのまま墓まで持っていって欲しくは……無いな。」
「あぁ。」
三人で話合って、後に、この件についてはお蔵入りとなる事となる。
あのバーの至る所に、記憶が消えた原因がある事に気付くのは、もっと先の話。