【完結編 第一章】 那智殺人事件
脳梗塞に倒れた内田康夫氏の未完小説『孤道』の完結編が一般公募されました。
締切は、2018年4月末日。
私は何かに突き動かされるように、この未完作品に挑みました。
残念ながら、締切を待たずして、内田氏は2018年3月13日に亡くなられました。
私は、哀しみの中、何とか書き上げ、4月27日に応募。
102作品もの応募があり、その中から選ばれた最優秀賞が和久井清水氏「我れ言挙げす」。
私のこの作品は落選作品ですが、誰かに読んでもらうために書いたものなので、ここに投稿させていただきます。
楽しんで読んでいただけたら幸いです。
【完結編 第一章】 那智殺人事件
矢継ぎ早な鳥羽の説明を窓越しに聞き、ソアラから降りると、いつの間にか小雨が降っていた。
湿度百パーセント以上かと感じられる蒸し暑さの中、運転席のドアを閉めたとき、浅見光彦は「ゴロン」という音を聴いた気がした。
藤白神社の樹齢千年の大楠たちが、風に揺れた。
浅見の脳内で、ソアラのトランクの中の黒い頭蓋骨が転がり、肉をつけ、髭をたくわえ、大織冠を被り、黒装束の藤原鎌足になって現れた。
この平成という時代の日本で、時空が歪み、千四百年前の飛鳥時代にタイムスリップしてしまったのではないか。
完全に『義麿ノート』の世界に飲み込まれてしまっているな。
そう思いながら、しばらく固まっていると、鳥羽が下から覗き込み、浅見の目の前で手を振った。
「……。先輩! ちょっと、聞いてます?」
「おう、すまん、すまん」
我に返ると、鈴木真代、竹内三千惠、藤白神社の大谷隆宮司が、待ち構えていた。
「和歌山県警、海南署です」
と、浅見の背後から声がした。
「年配のほうが田中、若いほうが中谷、あとは鑑識官などです」
田中刑事が警察手帳を見せ、さっさと現場である鈴木義弘宅へと歩いて行く。
浅見たちもあとに付いて行く。
「空き巣に入られた言うんは、奥さんですね?」
と田中刑事が尋ねる。
「あ……はい、私です」
と真代が申し訳なさそうに答えた。
田中刑事が真代を聴取し、その他の警察官たちはテキパキと捜査をはじめた。
部屋に入り、各々、指紋をとったり、写真を撮ったり、足跡を調べたりする。
「三千惠さんが最初に異変に気付いたそうですが、なぜ空き巣だと思ったのですか?」
捜査の邪魔にならない場所で、浅見が三千惠に尋ねた。
「縁側のあの石の脇の植木が、折れてたんです。踏みつぶされたように」
三千惠が言う石とは、縁側から庭に降りるとき、踏み台にする石のこと。
「沓脱石と言うんや」
大谷宮司が絶妙のタイミングで教えてくれた。
浅見が植木を見ると、三千惠の言う通り、そこだけ異様に折れていた。
「それで、いやな予感がして、真代さんに言って、窓を確認してもらったら鍵が開いてたんです」
「整理しますと……」
鳥羽が割って入ってきた。
「まず、玄関には鍵がかかっていました。ところが真代さんは縁側の窓に鍵をかけ忘れていたらしい。空き巣は、この植木の脇を通って、家に侵入したようです。その時にうっかり植木を折ってしまったというわけです」
三千惠が頷く。
「三千惠さんが社務所に出勤するとき、大体いつも義弘さんが庭の花や木に水をやっていて、挨拶してからここを通り過ぎていたそうです」
鳥羽は、浅見と警察が到着するまで、三千惠から、空き巣の件をかなり詳しく聞いていたようで、説明にぬかりがなく、得意げだ。
「義弘さんは几帳面で優しい人やさかい、大切な植木が折れたら、こんな風に放っておかずにすぐ修復なさるからね」
と、大谷宮司も得意げに説明する。
「今朝、ご主人の葬儀に出かける前は、植木はどうでしたか?」
田中刑事が外野の話を総括するように真代に尋ねる。
「たぶん……折れてなかったと思います」
三千惠に比べ、真代は頼りなげな返事である。
「義弘さんいうのが、こないだの八軒家殺人事件の被害者なんですね?」
中谷刑事がぶしつけに言った。
鳥羽は、『空き巣が入った』と警察に通報したとき、念のため、先日の八軒家殺人事件の被害者・鈴木義弘の実家だと付け加えて説明したのだろう。
「それで、盗まれた物は、具体的に何ですかね?」
中谷刑事は、多少イラついて真代に質問した。
「それが……わからないんです。主人のことで頭がいっぱいで……。主人が亡くなったって、まだ信じられなくて……。葬儀も上の空でした……。私は月に二、三回こちらに来るだけで、家の事は殆ど主人に任せていたので、盗まれた物なんて、はっきりとは判らないんです。それに私、鈍感だから……」
中谷刑事のキツい聞き方に抗議するように真代が答えた。
「そんなんじゃあ、普通は、いちいち来ぃしまへんよ。警察も暇じゃないんでね」
盗まれた物が無いのに警察に通報するな、殺人事件の被害者の家だから来てやったんだ、と中谷は言いたいらしい。
「君、そんな言い方はないでしょう。殺人事件の犯人はまだ捕まってないんですよ。犯人が義弘さんの何か重要な物を探しに来たという可能性だってあるわけです。警察は犯人を逮捕するまで、あらゆる可能性を視野に入れて捜査するべきでしょう!」
珍しく浅見が怒った。
「すいませんねぇ、こいつまだ新人なもんで。……お前は目撃者がいないか聞き込みして来い」
田中刑事が、そう言って中谷刑事を追い払う。
「奥さん、今朝、葬儀に行かれる前と、どこか変わっているところは無いか、もう一度部屋を見てもらえますかね」
田中刑事が、穏やかに真代に要請した。
「はあ、わかりました」
真代は、倦怠が混ざった返事をして、タンスの引き出しなどを確認する。
「八紘昭建の経理の松江さんは、お宅に来た事はありますか?」
質問もベテランらしく単刀直入だ。
「私は、家に招いた事は無いですが、主人は仕事の流れで招いたことはあるかもしれません」
と答える真代。
「押入れに入っている、その段ボール箱は、前から開いていましたか?」
田中刑事の質問は、次第に容赦がなくなってきた。
一瞬真代の表情が曇ったのを浅見は見逃さなかった。
「え、……あぁ、私が開けたんです」
暫くこんなやり取りが続いた後、三千惠と大谷宮司は、「何かあったらすぐ連絡して」と言い残して職場に戻って行った。
警察は一時間ほど事情聴取と捜査をし、帰り支度を始めた。
「ちょっと待って下さい」
パトカーに乗ろうとする田中刑事を、浅見が呼び止めた。
「警察に通報する前、こいつは空き巣が入ったかどうか調べるため、窓や部屋中に指紋を残してますから、こいつの指紋も採る必要があるんじゃないですか? 犯人と区別するためにも」
と、鳥羽を突き出した。
「ちょっと、先輩!」
浅見は、何やら鳥羽に耳打ちして、パトカーに押し込もうとする。
「どうせこいつ暇ですから、しょっ引いちゃって下さい」
田中刑事は浅見の言葉に妙に納得して鳥羽を同乗させた。
『八軒家の捜査情報を仕入れて来い。容疑者を絞っているはずだ。スクープのチャンスだぞ』
と、浅見は鳥羽に耳打ちしたのだ。
鳥羽と海南署の面々が去った後、浅見は改めて真代に部屋を見せてくれるよう頼んだ。
というのは口実で、真代を一人にしておくのが忍びない気がしたのだ。
「真代さん、少し休んで下さい。お疲れでしょう」
「嬉しいわぁ、浅見さんみたいなええ男が、私みたいなんに気ぃ使うてくれて」
義弘が手入れしていたという植木を眺め、お茶をすする真代の笑顔の奥には、深い哀しみが潜んでいた。
夫に先立たれた哀しみ。その上、殺されたという理不尽な哀しみ。
いや、もっと深い哀しみがその笑顔に隠されているような気がして、浅見は言葉が出て来ない。
「もし私が先に逝ってたら主人はたちまち弱ってしもたやろな。今は、そう自分に言い聞かせるしかないのかもしれへん」
「夫婦は夫が先に逝く方がいいのよ」と、浅見は母の雪江によく聞かされたものだ。仕事一筋で家事を全くやらない夫たちは、妻に先立たれたら途方にくれるからだと言う。
まあそれも、雪江世代までの話だろうと浅見は思う。
「dancyu」なんて雑誌があるくらい、今の若い夫たちは厨房に入って妻の家事を手伝っているし、仕事一筋なんて言葉、死語ではないか。
浅見は五十二歳で夫に先立たれた雪江のことを真代に話した。
「浅見さんみたいな立派な息子さんがいて、お母さまは寂しくないやろね」
「口を開けば、早く孫の顔見せろ、とうるさいです」
「あはは! 浅見さんみたいな男、逆になかなか結婚できへんやろな。相手がよっぽど出来た女やないと」
「やめて下さいよ。母のプレッシャーを思い出すじゃないですか」
「うちら夫婦は、最初から子供作らへん言うてたから、義母のプレッシャーは無かったわ」
とりとめもない話の中、浅見は真代の「子供が出来なかった」ではなく「作らなかった」という言葉が何故か気になった。
浅見と真代の話は、鈴木義弘と真代の馴れ初めへと遡っていった。
真代は饒舌だった。
刑事のマニュアル通りのような攻撃的な聴取と違って、浅見は本能的に相手の心を開かせるのが上手いのかもしれない。根底には相手を受け入れる優しさと、相手への思いやりがあるからだろう。
二十二年前、真代が田辺市役所に入庁したとき、鈴木義弘は三年先輩だった。ただ、課が違っていたため、挨拶をする程度で、ほとんど接点はなかった。
それが十年後、義弘三十六歳、真代三十三歳のときに急接近して結婚したのだと言う。
「主人の方から積極的にアプローチされたんやわ。信じられへんでしょ?」
と屈託なく話す真代。
「役所って職場恋愛が結構多いんよ。周りにバレへんようにコソコソっとね。他の職業の人達と合コンなんてのもたまにはあったんやけど、なんかやっぱりお互い同じ職場で真面目な公務員同志、気が合ったんやね」
真代は「真面目な」を強調して、冗談ぽく言った。
浅見はふと、気になっていた十五年前の牛馬童子事件のことを口にした。
「今朝、田辺市役所の目黒さんという方から聞いたのですが、十五年前にも牛馬童子の首が盗まれる事件があったそうですね?」
浅見は注意深く真代の反応を見た。
「あぁ、そうやった。そう言えば、ありましたわ」
わざとらしい返答だ。
今回の牛馬童子事件が起こった時、当然真代は十五年前の事件を真っ先に思い出したはずだ。
「事件当時、真代さんは教育関係の課にいらっしゃったとか」
「さすが探偵さんや。そうそう。思い出しました。あれからもう十五年も経ってたんですか。私は教育課で働いておりました」
先程までの夫婦の話とはうって変わって敬語になった。
警戒心シャッターを下ろされてしまったと浅見は思った。
「どんなお仕事をされていたんですか?」
「児童館勤務とか……、あと芳養センターの相談窓口とかもやってました。子供たちの相手したり、母子家庭や父子家庭の相談職員です。解りやすく言うと、地域の人達の悩みを聞く仕事でしたわ」
「そうでしたか。鳥羽が言うように、真代さんの人脈が広いのはその頃からなんですね」
「いえいえ、私なんか。役所の中には自分の担当区域の人の名前全部憶えてる人だっていましたよ。そういえば主人もそうでした」
「すごいですね」
「いえ、いえ」
「芳養といえば、九十九王子の中に芳養王子というのがありますね?」
「よく知ってはるわ、浅見さん」
「にわか仕込みですよ。それに今朝、目黒さんから、十五年前に盗まれた牛馬童子の首が見つかったのが、滝尻王子のバス停だって聞いたものですから」
再び真代の表情が曇ったのを浅見は見逃さなかった。
「あぁ、そやったかな。あんまり憶えてないですねぇ」
明かに何かを隠している。
そんな真代に、浅見は思い切った方法で聞き出すことにした。
「牛馬童子の首を盗んだ犯人は、ある特定の人物にメッセージを送っている気がしませんか? 十五年前のことはまだ解りませんが、今回の犯人は、僕にメッセージを送っているような気がしてならないんです」
「……浅見さん、そんなん考え過ぎやわ」
真代は苦笑いのような笑顔を浮かべた。
「そうでしょうか。実際、僕は牛馬童子事件に導かれてこちらに来た。その後すぐにご主人の事件が起こった。僕は見えない人物に『早く事件を解決してくれ』と急かされているように思えて仕方ないんです」
「牛馬童子さんと主人の事件は別やと思います。実際、首は無事戻って来たやないですか。牛馬童子さんには申し訳ないけど、私は主人を殺した犯人を早く見つけてほしいんです。お願いします。そのためなら私は何だってします」
「真代さんは正直な人だな」
「それ、褒め言葉やないでしょ? 主人にもよくそう言われました。バカ正直やて。無防備すぎる、人を信じすぎやって」
「いいじゃないですか、正直で。……見えない人物とは、殺されたご主人なのかもしれない。いや、義麿さんをはじめとする鈴木家のご先祖さまなのかもしれないですね」
「……」
真代は黙っていたが、たった一人残された自分が、『鈴木家』を守る責任があるのだと感じているのかもしれない。
真代には子供がいない。
「義母から、孫の顔を見せてほしいというプレッシャーはなかった」と言っていたが、果たして本当だろうか。
鈴木家は、鈴木義弘の代で血が絶えてしまうのだ。
全国の鈴木家の始祖『藤代鈴木家』に子供がいないことに対して、義母は言わなくとも、周囲は相当ものを言っただろうと想像がつく。
浅見がしばし沈黙し、真代が急須の茶葉を変えようとしたところで、浅見の携帯が鳴った。
着信名は鳥羽である。
電話に出ると、鳥羽は仕入れた情報を興奮気味にまくしたてた。
真代に聞くと、海南警察署は鈴木家から車で五分の距離だというので、浅見は鳥羽を迎えに行った。
署の駐車場に車を停め、車内で鳥羽から詳細を聞く。
鳥羽は浅見の期待以上に役目を果たしてくれていた。
和歌山県警海南署鑑識によると、鈴木家から、義弘や真代以外の怪しい指紋や足跡は見つからなかったという。ただ、田中刑事によると、鈴木家に入ったのはプロの空き巣ではなく、鈴木家や八紘昭建の重要書類が入っていそうな棚だけを物色した形跡があったということである。
「それより先輩、先輩の言う通り警察は八軒家殺人事件の容疑者を絞り込んでいました! その容疑者の名は……」
「松江氏か」
鳥羽が勿体ぶって発表しようとしていたのを、浅見が遮った。
「先輩、判ってたんですか?」
「ただの勘だ」
大阪府警と和歌山県警は、死体発見現場と被害者の住居地ということで連携を取っていた。
牛馬童子盗難事件は和歌山県警・田辺署、八軒家殺人事件は大阪府警・天満橋署、鈴木家空き巣事件は和歌山県警・海南署と分かれているが、これらが全部連携が取れているかどうかは、疑問である。
鳥羽の報告によると、八軒家殺人事件の捜査は、思ったより進んでいた。
警察は、八紘昭建の松江を容疑者とほぼ断定。
殺害動機は、八紘昭建の金を横領したことが鈴木義弘社長にばれ、追及されたから、と見ている。
松江が今朝から行方をくらましているのも、警察の捜査の手が自分に及ぶのを察知したからだろう。
松江犯人の裏付けとして八紘昭建の裏帳簿が見つかった。
また、事件当日、事件現場の八軒家船着場付近で、松江の目撃情報も出てきた。
鳥羽の報告をここまで聞き、ふと気付くと、海南署の背に広がる和歌浦湾に夕日が沈もうとしていた。
鳥羽は明日、別件の予定が入っていて忙しいと言う。
二人は、大毎新聞田辺通信部へ戻ることにした。
浜屋で夕飯を済ませ、鳥羽の部屋に引き上げた。
鳥羽の報告が再開した。
警察は松江を犯人と断定し、鈴木家の空き巣も、松江の犯行と見ているらしい。
浅見は疑問に思った。
鈴木義弘殺しが松江の犯行なら、松江が言っていた「島本」とは誰なのか? やはり地名なのか、それとも……。
「先輩、聞いてます? それから、事件前後の八紘昭建の通話記録を調べたら、取引先や一般の問い合わせなどで、特に怪しい人物はいなかったようです」
鳥羽は、さも自分が捜査したかのように捜査状況を得意げに、次から次へと報告する。
「あ、事件の四日前の七月三日、公衆電話からの電話も一件あったそうですが、特に問題視してません」
「ちょっと待て、今の所、もう一度」
「え? 公衆電話がなにか?」
「いや、その前、何て言った?」
「事件の四日前……」
四日前というと、松江が「社長と島本とかいう人物が電話で揉めていた」と言っていた日だ。
「その日の電話は、あとは皆取引先なのか?」
「はい、そうです」
「それは、問題視すべきだ!」
と浅見が言った。
「公衆電話の場所は?」
浅見が聞くと、鳥羽は手帳のメモ書きを読み上げた。
「えっと、那智勝浦町の飛瀧神社参道口です」
飛瀧神社は、熊野三山の一つ、熊野那智大社の別宮である。
那智の滝が御神体であり、本殿は存在しない。拝殿もない。
毎秒1リットルの水が百三十三メートルの高さから勢いよく滝つぼへと落ちる。
「それにしても、よくここまでの情報を手に入れられたな。さすが大毎新聞の記者だ」
「やだな先輩。僕だって、やるときゃやるんですよ。四年間積み上げて来た記者魂がものを言ったっていうか」
褒められて得意げになる鳥羽。
「明日の朝、行くぞ!」
「え? どこへ?」
「飛瀧神社に決まってるだろう」
「でも、警察は、松江を犯人だと断定してるんですよ」
そこに何があるのか判らないが、とにかく向かうしかない。
鈴木義弘が事件の四日前、電話していた相手は実在した。
松江が言っていたようにそれが「島本」なる人物であろうとなかろうと確かに実在したのだ。
鳥羽は葬式の疲れからか、すぐに眠りについた。
浅見は、箱いっぱいの「義麿ノート」を、とにかく読み進めなければいけない気がした。読まなければ、鈴木家先祖代々の思いの強さのようなものに押しつぶされそうな気がした。
木乃伊発見の翌年である一九三五年、鈴木義麿少年は、第三高等学校に入学していた。
ひたすら勉学にはげんでいたようで、しばらくノートは更新されていなかった。
しかし、そんな中、義麿に重大な出来事が訪れたため、ノートが再開された。
1936年7月19日、森高先生が亡くなったといふ知らせが入つた。
去年三校に入学してから、何回も先生をお訪ねしたが、先生は来訪者ほとんど全てに「会いたくない」と、面会を拒否されていたらしく、お会いすることが出来なかつた。
奥様は「このところ機嫌が悪いのよ」と、笑つて気軽に対応して下さつてゐた。
僕は先生の事がずつと気になつていたが、千尋さんは何ひとつ先生の病状が惡いなどと教へてはくれなかつた。
偶然近所でお会いしても、千尋さんは明るく挨拶を返して下さつていたから、どこかで僕は先生のご病気は大したことはないと思い込んでいた。
「葬儀は身内だけで済ませるように」といふ生前の先生のご意向で、僕に連絡が来たときには、もう既に済まされていた。
東山の先生のお宅に僕が線香をあげに伺つたとき、千尋さんは弁解した。
「父から、鈴木君はまだ三校に入つたばかりで勉強にさしさわるから余計なことを言わんでよいと、ずつと言はれていたんです」
森高先生は、僕みたいな者に気を遣つてくれていたのだ。
「ここだけの話、主人は鈴木君の事を一番気にかけていたんですよ。若いのに、冷静で客観的な目を持つてゐる。必ずや日本の歴史に業績を残すだらう。将来が楽しみだつて」
先生の気持ちを考へると、涙が次から次へとあふれてきて、堪へることが出来なかつた。
千尋さんに見られないやうに、先生の遺影の前で声を殺して泣いた。
その後、竹さんもやつて来て、僕の顔を見るなり、おいおいと泣き出してしまつた。
「坊ちやん、一人ぽつちになつてしもうたなあ」
先生を尊敬して信頼して頼つてきた僕を、竹さんは心配してくれた。
何故僕は、先生の気持ちを想像できなかつたのだらう。
「森高先生にお会いしたい」と言つて、「会いたくない」と返答されたとき、何故もつと想像力が働かなかったのだらう。
あのころの僕は被害妄想の塊だつた。
僕が山村先生に考古学を勧められた事が、森高先生の耳に入つて、先生が気を惡くされたのだらうと思い込んでいた。
森高先生は孤独だつたに違いない。
僕は一番身近にゐながら何も理解してゐなかつた。
先生は意地を張つているとばかり思つていた。
それは僕の自分勝手な考えであつた。
「僕はこれからどうすれば良いのでしょうか」
森高先生の遺影の前で、僕は呟いた。
そうしたら、千尋さんが、静かに先生の話をしてくれた。
「父は地震学を研究してたでしよ。幼い頃は、父が何をやつてるか解らなくて、お医者様とか農家のお家のお友達にうまく説明できなくて、『お父様は何のお仕事をしてはるの?』って聞いたことがあるの。父は私が解るまで根気よう説明してくれたの。
『千尋は、お父さんとお母さんがいて、そのまたお父さんとお母さんがいて、ずつとずつと昔の先祖があるお陰で生まれてきたんや。
その人間の命といふものは、この地球が「生きて」いるから生まれてこれたんや。地球は生きているんだよ。
千尋の背が少しずつ伸びるように、地球も一日に一尺ぐらい伸びたり縮んだり、千尋と同じように生きているんだよ。
千尋もお父さんもこの地球に生かされているんだよ。
お天道さまとお月さまと地球がどうやつて生きてきて、これからどうやつて生きていくのかを、お父さんは研究しているんだよ』って」
父親が壮大な地球の研究をしているということを、幼いながらも理解した千尋さんを、先生は大変喜んだと言ふ。
僕はこの話を聞いて、どうしようもなく自分の小ささを感じずにはいられなかつた。
僕のやうな単純で鈍感で人生経験の浅い人間が、新聞の記事に惑わされて、先生を批判するような考えを一瞬でも持ってしまつたことを悔やんだ。
先生は一人で苦しんでおられたのだ。
今考へると、もっと伺いたいこと、話したいことが沢山あつたことに今さら気づく。
僕は先生のために何か出来たはずなのに、何も出来なかつだ。
森高先生のもとで地震学を勉強するという目標を実現するために、今日まで頑張つて来たはずなのに、目標を失つてしまつた。
これを絶望と言ふのだらうか。
二年前、あの木乃伊が発見されたことが、先生の命を縮めてしまつたのではないだらうか。
「死」とはなんなのだらう。
死んだらどこに行くのだらう。
今まで考えたこともなかつた。
数年前、父に連れられて熊野詣をしたとき、
「「家都御子神」が山や樹木の神、「熊野速玉男神」が海の神、「熊野夫須美神」が滝の神や。熊野の神様は、どんな人でも救つてくれる太つ腹な神様なんや。老若男女、貴賤など関係ない。現世のことはもちろん、死んだ後のことも祈ると、浄土に導いてくれるんやで」
僕は父に言はれたことを漠然と信じて来た。
しかし、森高先生が亡くなって、初めて僕は本当の死というものを考えている。
この世に生を受けた誰しもが、やがて死を迎える。
それなのに誰一人として死後の世界のことを理解していない。
徳を積んだ者が天国に行き、過ちを犯した者は地獄に行くとか、色々な説はあるが、科学的に実証されたわけではない。
ただ僕は、魂というものはあると思っている。
森高先生が亡くなつた翌日、僕は夢を見た。
僕は、森高先生に聞いた。
「先生、僕は先生から地震学を学びたかったのに、先生がいらっしゃらなくなつたら、どうしたらいいのですか?」
森高先生はずつと黙っていた。
苦しそうに僕を見て、最後に「それは自分で決めることや」と言った。
僕の夢には色々な人が出てくる。
僕の夢は、様々な土地へ、それが外国であつても、一瞬にして旅立つことができる。
もう亡くなつた親戚の叔父さんが出て来たこともある。
会ったことがないご先祖様が出て来たこともある。
僕は不思議に思う。
会つたことがないのに、夢では勝手にご先祖様だと認識している。
夢の中では、生死にかかわりなく、魂が行き交ふ。
だから先日の僕の夢の中に、森高先生の魂が登場した。
死後の世界といふのは、夢に近いのではないだらうか。
本人の想念によつて、自由にどこへでも行き、様々な魂に会ふことが出来るのかもしれない。
森高先生の肉体は死んでも、魂は生きているような気がする。
こんなことを他人に話したら、きつと馬鹿にされるに違ひない。
だから僕は誰にも話したことはない。
けれど、太古の昔から、「魂」というものが信じられてきたからこそ、熊野詣が流行ったのだと思ふ。
みんな現世の救いを求めると同時に、死後の救いをも求めて、熊野詣をしてきたに違ひないのだ。
僕が、こんなことを考へるやうになつたのは、二年前のあの木乃伊発見事件があつたからだ。
あの木乃伊が、1200年以上前に亡くなつた藤原鎌足公だとすれば、
鎌足公の「魂」は、何か我々に言ひたいことがあつたに違ひない。
1200年黙つていたが、どうしても言ひたかったに違ひない。
森高先生は、「鎌足公の思ひ」を無意識に感じてゐたのかもしれない。
僕は、森高先生が志なかばで断念せざるを得なかつたことを、引き継がなければならないように思ふ。
さうだ、明日、那智の滝の神に祈りに行こう。
鎌足公、森高先生、そして僕の魂のために。
浅見は、ここまで読み終えて、全身に電流のようなものが走るのを感じた。
鈴木義弘を殺した犯人かもしれない相手が、義弘に電話をかけてきた場所が、飛瀧神社。
その飛瀧神社の御神体である那智の滝が、義麿ノートに現れた。
偶然かもしれないが、浅見は言いようのない胸騒ぎがした。
義麿の魂が、八十年の年月を経て、孫の義弘の無念を晴らそうとしているのかもしれない。
ノートを閉じ、布団に入る浅見。
改めて、このノートを書いている義麿が十八歳であることに驚き、かつ、今までの記述と大きく異なる本音のようなものを感じるのだった。
自分にとって大切な人の突然の死を、義麿なりに一生懸命受け止めようとしていた。
浅見はふと、自分のことを振り返る。
初めて「死」というものに直面したのは十三歳のときだ。
父の秀一が急病であっけなく亡くなった。
当時は義麿のようには「死」を受け止めることは出来なかった。
受け止めることができたのは、成人になってからだ。
義麿ノートの魂の話に影響されたのか、秀一の魂がすぐ傍にいるように思えてきた。
「お前は相変わらず厄介なことに首を突っ込んでいるな」
呆れ顔の秀一が、寝入りばなの浅見の上に一瞬浮かんで、消えて行った。
翌日早朝、浅見は一人飛瀧神社へ向かった。
長方形の紀伊半島の短辺部分を、海沿いに西から南にひたすら車で走る。
阪和自動車道を下り、二時間弱で目的地にたどり着いた。
早朝のせいか閑散としている。
飛瀧神社の鳥居の周りに背の高い樹々がうっそうと生い茂り、この参道を行くと那智の滝に出るらしい。
浅見は、鳥居の脇、広い駐車場の一角に電話ボックスを発見した。
八軒家殺人事件の四日前、ある人物が鈴木義弘に電話をかけた場所だ。
神社というこの場所に溶け込むようにかどうか判らないが、切妻屋根になっている。
携帯電話が普及し、電話ボックスは急激に減っている。
ある人物は、何故ここから電話をしたのだろうか?
考えられる理由は、まず、名前を知られたくない、ということ。
殺人事件の捜査ともなれば、電話ボックスの場所は特定される。
あとは、警察が突き止めることが判っていて、あえてこの場所を選んだということか。
浅見は、電話ボックスに入り、あたりを眺めながら考えていると、ふと一台の車が目に留まった。
「関係者用駐車場」と書かれた看板があり、その一番奥に停まっている。
気になり、車に近づいてみた。
覗いてみると、助手席に突っ伏して男が寝ているようだ。
「すいません」
浅見はドアをコツコツと叩き、呼んでみた。全く動く気配がない。
良く見ると、男は喪服を着ている。
ドアがロックされておらず、恐る恐る開けてみると、その振動で、男が浅見の前にもたれかかってきた。
と同時に、車内に充満していたガスが一気に流れ出て来た。
神社の関係者らしき女性が、遠くから浅見を見たが、通り過ぎて行った。観光客だと思われたようだ。
その後も何人か通り過ぎて行った。
他人に対する無関心さは、現代日本では、都会も田舎も関係ない。
浅見は落ち着いて男の顔を見た。
「松江さん!」
思わず叫んだ。
男は、今朝から行方が判らなかった八紘昭建の松江だった。
昨日からの浅見の胸騒ぎが、このような形で現実化されてしまった。
松江は既に死亡していた。
車内をざっと見回すと、携帯電話が置いてあり、メール画面が開いていた。
『会社の金を横領した事をなじられ、鈴木義弘さんを殺しました。死んでお詫びします』
遺書だ。
浅見は、とっさに違和感を抱きながら、松江の遺体をそっと起こし、ドアを閉める。
急いで、携帯電話を取り出し警察へ通報した。
よく見ると、車の排気口にゴムホースがつながれ、ガムテープで固定されていた。
そのホースが車の後部の窓に差し込まれ、隙間はガムテープで密閉されていた。
しばらくして、かすかなサイレン音が聞こえて来た。
静かな山々の中で、ドップラー効果を検証するかのごとく、パトカーのサイレンの音が次第に高くなって近づいてきた。
「和歌山県警の星野です。あなたが通報して下さった浅見さんですね?」
浅見は、自分がルポライターで、この場所に来たのは、那智大社の取材のためだと、咄嗟に誤魔化した。
八軒家殺人事件の四日前、「飛瀧神社参道口電話ボックス」から電話を掛けた人物を探るため、と言っても警察は納得しないだろう。
元はと言えば、この情報は、鳥羽が仕入れた警察の機密情報なのだから、鳥羽に迷惑がかかるのを避けるためでもある。
「そうですか。朝早くから災難でしたな」
松江との関係も聞かれたので、仕方なく鳥羽と真代の名前を出して、つい二日前、真代を介して松江と会ったことを説明した。
「遺体の第一発見者になるなんて想像してはらへんでしたでしょうな。偶然にしては気味悪いですな」
「はぁ」
「ところで、取材というのは『火祭り』の取材ですか?」
「えっ? ええ」
『火祭り』と聞いて、浅見は思い出した。
ここ熊野那智大社の一大イベントである『火祭り』が三日後にあるのだ。
『那智の火祭り』は、正式には扇祭または扇会式法会と言う。
熊野那智大社に祀られている滝の神が、年に一度、滝本の飛瀧神社へ里帰りする。その十二の神々を、滝の姿を表した高さ六メートルの扇神輿十二体に遷し、御滝へ渡御をするという神事だ。
例大祭では、大和舞、田楽舞、田植舞が奉納され、扇神輿が大社から旧参道を経て滝本の飛瀧神社へ運ばれる。
扇神輿が滝本へ向かうと、出迎えは十二本の大松明に火を付けて石段を登り、扇神輿を大松明で迎え清める。
白装束の氏子たちが十二本の重さ約五十キロの燃え盛る松明を担ぎ、「ハリヤ」「ハリヤ」の掛け声をあげながら、石段を練り歩く姿は圧巻だという。
まさに、この世で最も重要な「水」と「火」の祭りだ。
その大事な火祭りの準備で忙しい地元の人々が、不安顔でこちらの様子を窺っている。
こちらでは、大勢の警察官が、写真を撮ったり、遺体の近辺を探ったりしている。
いつの間にか駐車場には規制線が引かれ、野次馬たちが集まっていた。
「八軒家事件容疑者の松江に間違いない。もう逃げきれん思うての自殺やろな」
星野刑事は、遺書があることから、自殺の線が強いと判断している。
「自殺と判断するには早急すぎると思いますが」
と浅見は言う。
「その根拠は何です?」
星野は浅見に食って掛かって来た。
「松江さんが喪服を着ていたのは、昨日の鈴木さんの葬儀に出席するためです。そんな人が自殺をするでしょうか? あと、携帯電話の遺書にも違和感があります。松江さんはいつも鈴木さんの事を『社長』と呼んでいました。でも携帯には『鈴木義弘さんを殺しました。』と打っている。とっさに遺書を残したなら『社長』と打つのではないでしょうか。誰か他の人物が打ったのかもしれません」
「松江さんについて、ずいぶん詳しいんですな。ま、そんなもの、他殺の証明には到底なりませんけど。浅見さんは、松江が殺されたと言わはるんですね?」
「その可能性は否定できないと思います」
夏の太陽がギラギラと照り付けはじめた。
「とにかく、浅見さん。あなたは第一発見者であり、松江と色々話したということやし、詳しいことを聞きたいので、署までご同行願いますか?」
「え? それは、構いませんが……」
若い刑事・杉本が星野のところに何かを持ってきた。
松江の車の中で発見したらしい。
「星野さん、これが運転席の下に落ちていたのですが……」
杉本刑事が持って来た物は、片方だけのパールのイヤリングだった。
ネジを回して耳たぶに固定する古いタイプの物だ。
浅見が松江の遺体を発見したときに、イヤリングには気づかなかった。
松江の奥さんの落とし物だろうか? だとしたらもっと早く松江が気付いているだろう。
松江が誰かから盗んだ物だろうか?
鈴木家に空き巣に入ったのが松江だとすると、真代さんの物だという可能性もある。
ひょっとすると、松江を殺害した犯人が落として行った物かもしれない。
「念のため鑑識に回して指紋を採れ」
と星野は杉本刑事に命令した。
「さ、行きましょか」
と星野に促され、浅見は、パトカーの後ろをソアラで走った。
警察に連れて行かれた浅見は、徹底的に聴取された。
警察が第一発見者を疑うというのは仕方のないことである。
「まるで犯人扱いじゃないか。このままでは帰らないそ、事件に関する情報を仕入れなければ」
と、浅見は内心思っていた。
思いが通じたのか、空き巣の犯人が判明したという情報を得ることが出来た。
犯人は、やはり、松江だった。
決め手は、鈴木家に残されていた指紋と、近所の人の目撃証言だった。
警察の見解は、逃走資金確保のための空き巣、ということで済まされた。
だが、浅見は、義麿ノートを狙っての犯行ではないかと思っている。
その根拠は、まだない。
松江の遺体が発見されたという情報は、すぐに大毎新聞にも入り、鳥羽から浅見に連絡が入った。
真代には和歌山県警から連絡が入ったらしい。
浅見はとりあえず、大毎新聞の田辺通信部に戻ることにした。
義麿ノートを早く読みたいという衝動にかられている。
一瞬、すぐそこにいる義麿に、話しかけられた気がした。
さうだ、明日、那智の滝の神に祈りに行こう。
鎌足公、森高先生、そして僕の魂のために。




