苦肉の逆攻勢
08
2週間後の新暦102年獅子月17日。ギムレー基地で、ベネトナーシュ王国とアリオト伯国の講和条約が締結されていた。講和使節団代表は、アリオト伯国側が新君主代行、伯女マコ。ベネトナーシュ王国側が、王女にして全権のルナティシア。軍人や官僚たちに交じって、シグレ、アイシア、ディーネもオブザーバーとして列席している。
条約の内容はおおむね以下の通り。
1 アリオト伯国はベネトナーシュ王国への軍事侵攻の非を認め謝罪する。
2 アリオト伯国は、今後事前協議なしにベネトナーシュ王国の領土、領海、領空に侵入しないことを約する。
3 アリオト伯国は、ビフレスト島のスコル山脈以北の町や荘園の各種の自治権を認める。
4 スコル山脈の麓の北端を非武装中立地帯とし、アリオト伯国、ベネトナーシュ王国ともに兵力をおかない。
5 アリオト伯国は、安全保障の担保として、ナーストレンドにベネトナーシュ王立軍の駐留を認める。
6 スコル山脈以北の地下資源の採掘権はベネトナーシュ王国に譲渡され、免税特権が付与される。
細かい内容は別に締結される協定に任されたが、このように、領土の割譲も賠償金も要求しないのだから、一見してずいぶん寛容な条約であるとも言えた。が、条約締結に列席していた伯国側の人間たちは、一様に苦渋の表情を浮かべていた。もちろん中国人義勇兵の幹部や、オブザーバーとして出向いた中国人の政治顧問も。
まずもって。スコル山脈以北の自治権承認という話は、実質的に島の中、北部の独立を認めたに等しい。面子の面でも、税収その他経済面でもかなりの痛手だ。
そしてナーストレンドに王立軍が駐留することは、名実ともに伯国が負けたことを内外に対して公式に認めることになる。
極め付けが地下資源の採掘権だ。
ビフレスト島は地下資源に恵まれていることが伯国と中国の合同調査で判明していた。タングステンやボーキサイト、場所によってはイリジウムやプラチナまでが算出するその場所は、正に宝の山といえた。
それの北半分がそっくり譲渡させられてしまい、税金を課すことさえできないのである。
中国とてただで伯国に協力するつもりだったわけでは断じてない。軍事協力の代価は、伯国領内の地下資源の採掘権という約束がされていたのだ。
要するに、伯国は中国からの借り入れの返済をビフレスト島から行うことができなくなり、中国にしてみれば伯国に落とした金を回収する計画がほとんど白紙に戻ってしまったのである。
もちろん地下資源はビフレスト島だけにしかないわけではないが、伯国と中国は自分たちの食扶持を改めてゼロから都合せざるを得なくなってしまった。その時間的、経済的な損失を考えれば、笑顔で条約を受け入れろという方が無理な話だった。
ともあれ、これ以上状況を悪くしないためには、とにかく早急に戦争を終わらせるべきという話もわかる。と、伯国代表の一人とし列席したレオーネは思う。ちらりと窓の外に目をやると、滑走路のど真ん中に開いた巨大なクレーターが目に入る。あんなものを用いる戦争は、職業軍人である自分でもごめんだと思えたのだ。
ギムレー基地が占領された後、レオーネに率いられた伯国軍は、陸路と海路に分かれてどうにか2日かけて島の南部に撤退した。義勇軍も、ほとんどの装備や物資を置き去りにして、着の身着のまま航空機と車両で逃げ出してきたという有様だった。
そして、やっとの思いで味方の支配地域にたどり着いた彼らを迎えたのは、「こちらの半分しかいない敵に対してなんという失態か」「ナーストレンド奪還どころか、ギムレーまで奪われておめおめ逃げてくるとは何事だ」という非難と罵倒の声だった。レオーネはそれらを甘んじて受けた。言いたい奴には言わせておけ。生き延びたからには自分たちにはなすべきことがあるのだと開き直ったのだ。
だが、しばしの休息の後で、伯国軍と中国人義勇軍の間で立案された作戦は、相当に無理があり、しかも常軌を逸したものだった。
すでにビフレスト島方面の海軍力が壊滅している状況では、海路で大兵力を送ることは不可能。ならば、交通の難所であるスコル山脈を越えて兵を島の北部に進める以外にない。だが、山脈を大兵力で越えようとする動きを、ベネトナーシュ王立軍が見逃してくれるわけがない。
そこで、まずはギムレー基地を、R-17弾道ミサイル、通常スカッドによって無力化。ギムレー基地からの応戦を封殺。同時に、ナーストレンドに空挺部隊を降下させて一時的に制圧。敵軍をベネトナーシュ本土と、島の中部に分断し、指揮系統を寸断する。その隙を突いて可能な限り迅速に山脈を超えて大兵力を展開。ギムレーを奪還し、しかる後にナーストレンドも奪還する。これが作戦の概要だった。
だが、言うは易しの話で、作戦には当初から懐疑的な声も大きかった。険しいスコル山脈を大軍で越えるのは容易ではない。一つの計画の狂いが、一つの連絡のミスが作戦全体を危うくしかねない。
加えて、分別のある職業軍人の間では、弾道ミサイルを用いることにためらいを感じるものも多かった。
スカッドの威力は、義勇軍の演習を見学してその目で確かめている。だから問題だ。
「あんな威力を持つ兵器をこちらが用いれば、敵もさらに強力な兵器、ドラスティックな手段で報復してくる危険がある」「戦争は局地戦にとどまらない、全面戦争に発展してしまうのではないか?」
しかし、そんな慎重論は、敗北の屈辱をすすぎ、勝利を渇望する声に抑え込まれ、「青龍偃月刀作戦」と名付けられた作戦は、その5日後、新暦102年獅子月1日をもって、実行に移されたのである。