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第七話


その瞬間、心が狂おしいまでの歓喜と計り知れない恐怖に震えた。



アストリッドは十二歳になった時のことだ。

娘に甘い侯爵が婚約者候補を連れて母親と弟とで中庭で小さな茶会を開いていたアストリッドの元を訪れたのは。

柄の大きな父親の陰からでてきた少年は、ストロベリーブロンドの長い前髪を半分近くかき上げて流し、意志の強そうな琥珀色の瞳をアストリッドに向けていた。


彼、だわ。


見つめられた瞬間に、アストリッドはおなじみの白昼夢に襲われた。

何度となく行われた茶会での彼のスマートさに反比例する熱い瞳。

並んで歩くときに差し出された腕はいつだって・・・・・アストリッドを守ってくれていた。

図書室で本を読んでいるといつの間にか前に座っていてこちらをじっと見つめていたこともある。

つぎつぎと現れる彼は、いつでもアストリッドを虜にする。

――――――そして血を吐きながら倒れているアストリッドの手をとって、血判を押すのだ。

あれほど興味が無いから”知っている”物語に登場しないのだと思っていた彼は、その実、一目でアストリッドの心を掴んで離さない。

心が歓喜と恐怖に震えてしまい、我を忘れて無作法にも音を立てて立ち上がってしまった。

おや?と父親は片方の眉を上げたが動こうとせず、一緒にいるはずの母親や弟が滅多にマナーを外さないアストリッドを不思議な物を見るように見つめている。

喉元から漏れる嗚咽を誰にも知られたくなくて、震える手が口元を塞ぐ。

少年アストリッドの無作法を笑うことなく、アストリッドの前まで進むとにっこりと微笑んだ。


「はじめまして。アンブロウシス・ラーゲルブラードと申します」


未来のことなど何一つ知らないまっすぐな瞳を向けられて、アストリッドは涙を流した。



お茶会は侯爵とアンブロウシスの席を新しく設け、和やかに再開された。

父がどういうつもりでアンブロウシスを伴ってやってきたかなど”知っている”。

十五歳になるアンブロウシスは後数ヶ月もしないうちにスコー学院に入学し二年間の寮生活をはじめる。

その前にアストリッドの婚約者候補として知り合わせ、仲を深めさせ、できればそのまま婚約をさせておきたいのだ。

アンブロウシスが侯爵家のタウンハウスに現れたことで、彼にとってこの縁談は必要な物なのだ、アンブロウシスの答えにNOはない。

あとはアストリッドの返事一つで関係が続くかどうか決まる。

ここでアストリッドが”NO”といえば、あの”知っている”物語の最後のように離婚届に血判を押さなくてもすむ、たったそれだけのことだ。


だけど――――――。


社交にたけたアストリッドが口を噤むなか、二人を見ていた侯爵は内心驚いていた。

アストリッドは十二歳の子供だったが非常に大人びていて、時折答を窮する質問を投げかけてくるほど才女でもあった。

その娘が見たことのないほど顔を染め上げ、ちらちらと横にいるアンブロウシスを見ては頬をさらに染めている。

どう見ても一目惚れだろう。

そしてアンブロウシスも目尻を下げているではないか。

今日は顔合わせのつもりだけだったが、このような結果になろうとは思ってもみなんだ、とほくそ笑んだ。



お茶会はつつがなく終わり、アストリッドは部屋に戻ってきた。

扉を閉めた途端、部屋の中を当てもなく歩き、時には座り込み、思い立ったように立ち上がったと思えばまた部屋の中を歩き回る。


どうして忘れていられたのか、自分が信じられない。


アンブロウシスの優しい瞳を思い出すだけで、顔に熱が溜まる。

白磁のカップを持つ指の、なんて長いことか。

まだ少年の幼さが残る顔つきは、スコー学院を卒業後入隊することで精悍さを増しりりしくなる。

その横に立つことを許されたのはアストリッドで、そのことが誇らしくもうれしくもあった。

今も、その気持ちが湧いて出て、つらく苦しい。


愛しているわ、アンブロウシス。

だからこのお話はなかったことにしなければ、私はきっと壊れてしまう。


ちらつかされた離縁状と血にぬれたハンカチを”知っている”からこそ、あの優しい瞳が反転し蔑んだ色に濃く染まった姿をまた・・見せつけられたら。


壊れて、しまうわ。


弟の裏切りに父の仕打ちは、アストリッドの肉体を死に追いやったが、愛するアンブロウシスからの蔑みは精神的に死を与える。


ああ、でも、愛しているの。

一目見ただけで魂を奪われたほど、愛しているの。

非業の最期を迎えると”知っている”のに、あなたの隣にたちたいと願うほど、愛しているの――――――。


アストリッドは苦悩する。

これまでずっと政略結婚で考える必要も無いと思っていたことが、実は一番考えなければいけないことだった。

ここですっぱりと断ち切らなければと思う気持ちと、次に会う約束を得られて喜びを抑えきれない自分がせめぎ合っている。

アンブロウシスを思う気持ちが強すぎて、何をどうしていいのかわからないのだ。


この婚約が決まるのは、アンブロウシスがスコー学院に入学する直前だった。

それまではまだ、ほんの少しだけだが猶予はある。


アストリッドは思い出したように紙とペンを取り出して、今日見た”知っている”ことを書き始めた。

いつものように感情を殺して、事実だけを書き出して、頭の中を整理する。

少しでも明るい未来を手に入れる、そのために。




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