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第五話


記憶は新しいほど鮮明だ。


つなぎ合わせた”知っている”ことの物語も最後を迎える直前は細かくわかっていたのだが、子供の頃のことになると曖昧だった。

曖昧といえば、アストリッドは結婚をしていたが、夫の顔も年齢も名前も何もかもわからなかった。

貴族の結婚だ、どうせ政略に違いないと深く考えなかったし、物語通りにこのまま進めば夫とも苦しい別れになる。

愛していた家族とあのような別れ方をするのだ、これ以上の苦しみを今は詳しく”知る”必要はないと判断して、意識をほかに向けた。


アストリッドが”知っている”ことは、実はそんなに多くない。

未来がわかっているからと言って今日のことを”知っている”わけでもない。

淑女教育にしても、講師を招いてレッスンをしている最中に”知っている”と理解するのだ、学ぶべきことは一から学ぶ必要があった。


文字を覚えたときには、ようやくこれで”知っている”ことを書き残せると安堵した。


鮮明な物はいい、問題は薄れゆくほうだった。

鮮明なものはよほど強烈に印象が残っているせいか何度も何度も体感し、幼いアストリッドの心を壊しにかかろうとするが、そうでないものはそのとき限りに忘れてしまうことがほとんどだった。

弟の妻であるシーラがどのような女性だったか、弟がどうしてあのような凶行にでるようになったのか。

優しかった母親は、貴族にありがちな男尊女卑などせず姉弟を公平に扱った父親が、どうしてアストリッドをあそこまで追い込むのか、知るよしがなかった。

アストリッドは物語の主軸を知らず、脇役としての位置でしかなかったのだ。

本筋がわかっていないから、結果しか”知らない”。

それでは、駄目なのだ。


腕の中ですやすやと気持ちよさげに眠る小さな弟は十分に庇護されるべき存在だ。

視線をあげれば部屋の反対側にはパイプを吹かす父親が傍らに座る母親に笑いかけている。

愛する家族の団らんのひとときだ。


このやさしい時間がずっと続きますように。


そう願わずにはいられない。


だがアストリッドにはわかっていた。

願っていてばかりでは何も変わらない。

流されるまま何も行動を起こさなければ弟の悪意と父の理不尽な行動のせいで命を落とす。

残酷な未来を”知っている”のはアストリッドだけ。

ただ泣くだけにこれからの人生を費やしたくない。

それならば、とアストリッドは決意して行動する。


やっと覚えた文字をつかって”知っている”ことを書き留めて、読み返す。

物語をまとめて、どうしてこうなるのかを吟味する。


主筋を知らないがために流されたのならば、知ればいい。

適切な判断ができないのであれば、出来るように沢山のことを学んで習得すればいい。

身の潔白をすることもできないほど動揺が激しいのならば、動揺してもきちんと対処できるように心を強く持つようにすればいい。


幼いアストリッドは非情な将来を体感したせいで、あどけなさを捨て、生きるために模索する大人びた子供になった。


無条件で弟をかわいがる一方、やってはいけないことはきちんと叱った。

なんでも欲しがりすぐ飽きる弟に、一つ一つのものがどれほどの手をへてできあがるのか、作り手の思い入れがあり、大切に扱ってほしいと願っているのかをとくとくと説きもした。

無駄な足掻きかもわからないが、将来散財しないようになってもらいたかった。


家庭が裕福だったことをこのときばかりは喜んだ。

お金が、力があるからアストリッドが必要だと思った勉学を教えてくれる優秀な教師を雇ってもらえたし、必要に応じて実地訓練もさせれくれた。

寝る時間を惜しんで勉強に励み、芸術にも造詣が深くあれと美術館に出かけ劇場にも足を運び、そこで知り合った貴族の息女たちと交流を深めるために茶会を催しもした。

それ以外にも将来結婚した後に必要だろうからと領地経営にも興味を持ち、父親に教えを請うた。


とても十やそこらの子供がするべきことではない。


母親はアストリッドを心配して少しペースを落としてはといってみたが、とうの本人が首を縦に振らず、大人になるまでにまだまだ学ぶべきことがあるのですと言ってさらに新しく学び始めようとする。

そしてそれを全てものにしているのだから、両親は娘の体の心配しつつも誇らしそうに目を細めた。


自分の能力を底上げしていく一方で、アストリッドは頭の隅で考え続けていた。

なぜあのような死を迎えなければならなかったのか。

アストリッドは、何もしていなかった。

侯爵家の娘としての義務を果たし、政略結婚をして家をでた。

夫は誰かわからないが、たぶん親愛にちかいものがあったはずで、貴族としてはまずまずの一生を終えるはずだった。

なにかがおかしい、そう思えたのは弟が結婚してからだった。

優しかった母の滅多になかった愚痴が毎日のようになり、侯爵家のタウンハウスに行く度に見慣れた美術品が無くなっていく。

きっとシーラでなくても弟の妻という時点で母親は文句をいっていただろうから、愚痴は愚痴として聞いていたし、美術品にしても若い世代は重厚で煌びやかな壺など趣味ではないのだろうと片付けたに違いないと思っていた、

だが母の愚痴の中に真実はなかったか?

シーラが既婚者が着るにはみっともないほど胸元が開いたドレスを着ていただとか、ケバケバしくゴテゴテと飾り付けられた帽子は違う意味で目を見張るのよと言っていたことがなかったか。


…………送りつけられた箱の中に、まさにそのドレスが、帽子があったではないか。


細身のアストリッドではそのまま着ればぶかぶかでしかないドレスの数々は、色合いも装飾もアストリッドの好みとはかけ離れていた。

アストリッドを知っている人ならば、アストリッドが選ぶはずがないと断言するだろう。

父親は違ったようだったが。

弟、なのだ。あの箱を送りつけてきたのは。

とすれば件の箱の本当の持ち主は弟の妻であるシーラをおいてほかにない。


あの大量のドレス。

趣味の悪い装飾品の山。

そして、タウンハウスで見かけなくなった美術品の数々。


あれらはすべてシーラが持っていた物となる。

金額にすれば、一体いくら必要だっただろう。

とうてい子爵の収入で賄えるものではない。

父親である侯爵の援助があったとしても、あれほどの量が必要だろうか?

それ以前に、なぜ美術品がドレスと同じ箱の中に丁寧に片付けられていたのか。


ここまで来てようやくアストリッドは理解した。


弟の無心は、領民たちを生かすためではなかったのだ。

溺愛してやまない妻であるシーラを自分に繋ぎ止めておくための贈り物に使われいたにすぎない。



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