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第二十七話

その日もまた、アストリッドはオーケシュトレーム侯爵のタウンハウスへと向かう馬車に揺られていた。

これで何度目かわからない訪問は、弟の卒業と入庁祝いの席を設けてから妙に塞ぎ込んでいる母親が話し相手にとアストリッドを呼び出すようになったためだった。

膝の上には馬車の衝撃に崩れないようにとケーキの入った真っ白い箱を載せている。

お菓子好きな母親のために今王都で一番人気の菓子工房ラクトクレイスのチーズケーキと桃のタルトを取り寄せた。


少しは喜んでくれるとよいのだけれど


弟をかわいがっていた母にとって彼の結婚話は喜び半分寂しさ半分といったところらしい。

アストリッドにとっても他人事ではないためにとても気になるところだが情報源が限られているために動きようもなく、待つことしかできない毎日だ。

だからこそ弟との接点の高い母親との会話は今のアストリッドにとって最重要事項であり、また慰めでもあった。




陽光が差す中庭のテーブルには見たこともない茶器が並べられ、不思議な匂いがするお茶とそれに合わせたらしい色取りどりな菓子が並んでいる。

父親が新規開拓した取引先からの頂き物らしいが、一口噛めばほろほろと崩れ溶ける口当たりと柔らかな甘さの菓子は合わせていただいた茶に絶妙に合っていて癖になりそうな美味しさだった。

時間をおいてアストリッドが手土産に持参したラクトクレイスのケーキが出され、薄くスライスした桃でできたバラが飾られたタルは母親を非常に喜ばせ「食べてしまうのがもったいないくらいに美しいわ」といいながらも嬉しそうに口に運んでいた。

ケーキのおかげか、この日の会話は始終和やかで、気がつくと太陽が傾き、庭の木の陰が長くなっていた。

母親の穏やかな顔を確認して安心したものの弟の結婚話ではこれといった情報はなくがっかりしてしまったが、そろそろ暇時だと話を切り上げようとした。

するとそれまで微笑んでいた母親が急に顔をしかめ、テーブル越しにアストリッドの手を取るとぎゅっと握って離さない。


「お母様。また近いうちに来ますから」


そう言っても悲しそうに首を振って、もう少しいてくれないかと懇願する。

結婚するまでアストリッドは母親は若くしなやかでいて逞しいと感じていたのだが、結婚して視点が変わったのか、それとも彼女の年齢がそうさせているのかは定かではないが、時折とても弱々しく感じられる。

今もそうだ。

アストリッドを帰したくない、離したくないとばかりに手を握りしめてくる。

不安定な瞳はアストリッドをみているというよりも、アストリッドの向こう側にいる誰かを見ているようで虚ろになっていることすらある。


珍しく今日一日そんなそぶりを見せなかったというのに、やはり不安だったのね。


アストリッドは手を離さないように立ち上がると、母親の隣の椅子に座り直して手を握り返した。

それだけで顔に喜色を浮かべ微笑む母親をさらに安心させるように、近くにいる使用人に家への伝言を頼もうとした時、渡り廊下から弟が執事に指示を出しながらこちらに向かってやってくるのが見えた。


「姉上!ちょうどよいところにいてくださった。母上はもちろんのこと、姉上にも是非とも聞いていただきたい話があったのです。もうすぐ父上も戻られますが、一緒に夕食を取る時間を作っていただくことはできますでしょうか?」


テーブルまで足早にやってきた弟は母親とアストリッドの頬に素早くキスをすると、願いという名の強制の言葉を告げた。

アストリッドにしてもつい今し方母親の懇願に負けて家に遅くなると言付けを頼もうと思っていたところだったし、弟に顔を合わせるのは卒業式の食事以来ということもあり、家族で食事をともにとること自体よかったのだが、問題は弟の顔色の異様なまでの悪さだった。


何か嫌な知らせでもあるのかしら。


母親を見れば、折角頬に色が戻ったばかりだというのに不安が押し戻ったのか指が震えている。

アストリッドは出そうになったため息を押し殺しながら、弟に「もちろんよ」と微笑んだ。





父親が帰宅して始まった食事は、初めのうちは昼間の茶会のように和やかに進んでいた。

侯爵が取り組んでいる海外事業はここ数年の東洋ブームで収益はうなぎ登り、需要に対し供給が追いつかず、それに伴い商品価値が予想を遙かに上回る勢いで高まってきている。

嬉しい悲鳴をあげているが、それはコレクターに任せて我々は堅実にならねばなと父親は事業の成功に浮かれるどころか自重しながらグラスを傾けている。

なるほど昼間の珍しい菓子や茶はここからもたらされたのだとアストリッドも頷きながら答えていると、隣の席に座る弟は手にしていたグラスを置いて姿勢を正した。


「父上、母上。そして姉上にもご報告があります。実は殿下からお話をいただいていた件なのですが」


とうとうか、と誰もが弟に注目し、次の言葉を待っている。

ぎゅっと奥歯を噛みしめるように口元を引き締めた弟は、皆の視線が自分に注がれていることを確認するとゆっくりと話し始めた。


「私の縁談相手が分かりました。

ステュルビョルン子爵の第一子であるテレーシア嬢です。

いつまでも誰かも分からないでは家族に心配をかけてしまうと殿下に嘆願してやっと教えていただけました。殿下には時期が来るまでくれぐれも他言無用と言明されましたのでこのことは屋敷から持ち出さないでいただきますのでご承知おきねがいます」


弟が苦虫を噛みしめたような顔で言い切った後、両親はその女性をなぜそこまで隠す必要があるのか、一体その女性はどういった経緯でお前に紹介されたのだとかを言い寄っていたが、アストリッドは彼らの声や姿が薄い膜の向こう側にあるようで何を言っているのかさっぱり分からなかった。

ただ分かっていることは一つだけ。


結婚相手が、テレーシア・ステュルビョルンですって…………?


うそ、うそ、うそよ。

だって、”物語”から外れたのではなかったの?

殿下は彼女を妃にと望んでいたのではなかったの?

それがどうして彼女を弟に、弟の結婚相手にと勧める必要があるとでもいうの…………!


ガタンと大きな音で椅子をひいた音が響き、話を中断された両親と弟が急に立ち上がったアストリッドをいぶかしげに見上げた。


「アストリッド…………?どうしたというの」


母親が無作法なアストリッドをたしなめようと声をかけようとしたその時、アストリッドはぐらりと揺れてそのまま床へ倒れ落ちた。


「アストリッド!?アストリッド、どうしたの!?」

「姉上!大丈夫ですか!?」


あら、どうして皆はあわてているのかしら。おかしいわね。


アストリッドは意識が遠のく中、慌てふためく家族に手を伸ばそうとしたが届かず、彼らの心配する声もまたアストリッドには届かず、ただ暗闇の中に落ちていった。

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