第二十六話
気がつくと、アストリッドは暗闇の中にいた。
先ほどまでは王都にあるタウンハウスの執務室で男爵領にある繊維工場の売上悪化の原因を探っていたはずだった。
去年度より売り上げが激減した工場は現在半分以上の機械が埃をかぶっている状態で、報告によると原材料である棉の入荷が少ないために一部機械の運転を止めているとのことだった。
今年の男爵領の天候は去年と大差ないはずだったのだけれど。
天候で収穫の伸びが望めないのならば分かるが、そうではない原因があるのならば探らなければ来年度の収穫にもかかわってくる。
アストリッドは頭を悩ませたが、報告書の中に綿農家の代表者名が変わっていることに気がついた。
代替わりなど珍しくないが、替わったことで収穫が落ちたのならば何かしらあるはずだ。
アストリッドは早速代表者との面談を取り付けようとペンを取った、までは記憶にあった。
そして今に至るわけだが、多分これは夢なのだろうと、アストリッドは漠然と思った。
真っ黒な夢を見るなんて、なんて私に相応しい。
学院を強制的に去って早半年、あれからこれといった進展も新しい情報も何もなく、受け持っていた学生たちの卒業式という晴れ舞台に呼ばれることすらなく今日に至った。
弟は次席として卒業式に臨み、そのまま殿下の側近候補として宮内庁入庁が確定している。
姉としては誇らしい限りで、侯爵家では弟の卒業と入庁を祝う会食が予定されていた。
もちろんこちらは家族としてアストリッドとアンブロウシスが呼ばれていたが、休暇を取る予定だったアンブロウシスは運悪く国境沿いで小さないざこざが起こったため休暇が取り消され参加することが叶わない。
アストリッドは一人で実家である侯爵邸へと足を運ばなければならなかった。
気持ちが反映されているのね。
弟と彼女が結ばれる未来がなくなったはずだった。
だがスコー学院を去って半年、”物語”の時が近づくにつれ、あの思い出したくもない場面を頻繁に夢見るようになった。
父の分厚い手が頬を打ったことを、母の狂ったような笑い声を、弟の虫けらを見るような目を否応なく見せつけられる。
学院に在籍している間は全く見なかった”物語”はここに来て”物語”は真実なのだと証明するように威力を増してアストリッドを苦しめた。
今も暗闇の向こう側で明かりがぽうとともったかと思うと、少しだけ歳をとった父親が鬼の形相もかくやとばかりにアストリッドを睨み付け罵倒し手や足を上げている、別の光の中では地下牢に入れられる娘になぜどうしてと縋ろうとする母親とその母親を止めようとして羽交い締めにしている弟が、違う光のなかでは狂気に染まっていく母親が、その横の光の中では弟がアストリッドからせしめた金で商人に買掛金を支払っている姿が映し出されている。
もう十分わかったから。
”物語”で受けた体の痛みは今はないが、心はそうはいかない。
今生では受けた痛みを忘れる努力と、受けないための努力を積み重ねてきたつもりで、それはある一定の成果を見せていたはずだった。
些細なことでも”物語”との違いが判明するたびに喜び、疲弊しかけた心を浮上させていた。
アンブロウシスと結婚をして、無理を言ってスコー学院にはいったのに、結局は流されるまま何の成果も残せなかった自分が恨めしい。
彼女が弟を選ばなかったのだから良かったようなものの、もし彼が選んでいたら、選んだとしても自分が二人を引き裂くことが出来るほどの何かを得ていたのかといえば、ない、としか言えないふがいなさ。
挙げ句に礼儀知らずの彼女を押し上げるために必死になって指導した、そのことが裏目にでて休暇という名の退職へと追いやられてしまうなど、情けないを通り越して愚かとしかいいようがない。
だから、そんなにせめないで。
次々と浮かび上がる光と死へと向かわせる所業は、己の愚かさとふがいなさを否応なく見せつけられるもので、アストリッドは胸をかきむしった。
自分で自分を傷つけていても気づかない。
手入れされた爪が皮膚を掻き、肉を割いて赤く色づいていく。
ぽたりと指の間から流れ落ちた自らの血に、”物語”で流れ出た血が重なって、アストリッドは悲鳴を上げた。
「……っはぁっ!」
執務室の机で伏せていた体を反射的に起きあげて、無意識に口元を手で押さえ声を押し殺した。
実際のところ夢の中で叫んでいたのであって、現実では叫んだわけではない。
けれども早鐘のように打ち付ける鼓動が、喉元の痛みが、そして掻きむしったはずの胸が痛み、夢が夢でないような錯覚を起こさせる。
はっはっと肩で息をしていると、はらりと後れ毛が目の前に落ちてきて現実に引き戻された。
大丈夫。あれは夢。
早く打ち続ける胸に手を置くと何度も大きく息を吸ってはゆっくりと吐き出した。
落ち着きを取り戻すのにしばらくかかったが、胸の痛みが少なくなった頃にようやくあたりを見回す余裕ができた。
執務室の分厚いカーテンの向こう側は夜が明け始めたのか白々としてカーテンの隙間から光を差し込んでいる。
今日という日が始まろうとしている。
ああ、実家に行かなくては。
今日は弟の卒業祝いと入庁祝いを兼ねた会食に招かれている。
プレゼントはすでに用意済みで、忘れないように机の隅に置かれている。
欲しがっていた万年筆はとても高価だが、値段に見合ったペン先はとても滑らかに動き、美しい曲線を描く。
ペン軸は何色にするか随分と悩んだが結局選んだのは深緑で、天冠には無理を言って金色で紋章を入れてもらった。
これを手にした時の弟の喜ぶ様を想像して、アストリッドは微笑みを無理矢理作った。
そうでもしないと悪夢に捕らわれて今日を乗り切れる自信がなかった。
久しぶりに訪れた実家では母親の熱烈な歓迎を受け、会食が始まるまでとりとめのない母の話に付き合った。
なかなか孫を腕に抱けないと言われたときは申し訳ない気持ちが先立ったが、作らない理由をいうわけにもいかず微笑んで誤魔化した。
そうこうするうちに父親が弟とともに帰宅し、久しぶりに家族揃っての食事となった。
父親も母親も弟もアストリッドの胸の内など知るよしもなく楽しそうに笑い合っている。
出された食事も弟が好んで食べるものでしめられていて、特に前菜に出された鶏レバーのムースなどは寮生活では決して口にできないもので感嘆の声を上げていた。
穏やかに進んでいた食事が止まったのは、弟の結婚について話が及んだときだった。
「そろそろ貴方も良い人がいるのではなくて?」
高位貴族の令嬢であれば成人前に婚約を結んでいることが多いが、子息であればそうではない。
弟は学院で彼女と出会い将来結婚をするとばかり思っていたアストリッドは彼がいまだ婚約していなくてもすぐに彼女に決まるだろうと思っていたが、彼女が殿下と結ばれるなら弟には違う相手が必要だという至極当たり前のことをすっかり失念していた。
少し考えればわかりそうなものを。
こと家族のこととなると聡明といわれたその頭脳が全く働かなくなる。
何度も同じことを繰り返しては気づかされる己のふがいなさに落ち込みそうになったが、肌身離さずつけている貴石に手をやってやり過ごした。
弟はというとこのことには触れてほしくなかったのか苦虫を飲み込んだように顔をしかめた後、ナフキンで口元を拭ってから礼儀正しく母の方に体を向けた。
「それが…………殿下から紹介したい人がいると言われているのです。
ですがいたずら好きの殿下のこと、なかなか相手の方を教えてくれないのです」
「まあ!殿下から直接お話しを頂けるということはとても名誉なことですわ。
殿下のなさることですから間違いはないと思いますが、どなたか分からないのであれば何も準備が出来ず困りますわね」
「できるだけ早く教えていただけるようにはいってみますが」
「ええ、そうなさって」
あの殿下が弟の結婚相手を紹介してくれるですって?
小さな理由をこれ以上ないほどに膨れ上がらせてアストリッドをスコー学院から追い出した張本人である殿下が弟の結婚話を持ってきたとして素直に受け止めることができるはずがない。
ただ殿下にとってアストリッドは一男爵夫人であり講師でしかなかったが、友人であり、また将来殿下の側近となる弟に無体なことなどするはずがない。
いや、しないはずだ。
殿下はきっと侯爵家に相応しい女性を紹介してくれることだろう。
疑り深くなるのも大概にしないといけないわ。
自分が思ってもみなかったことをされたからといって誰にでも同じようなことをするとは限らないのだから。
そう言い聞かせてみても、どうしても嫌な予感がしてならない。
アストリッドは胸のむかつきを覚えて唇を噛みしめた。




