第二十一話
それから半年後、テレーシアはなんとか及第点をとるに至り進級することとなった。
ここまでくるのにどれほどの忍耐が必要だったかと、アストリッドはしくしくと痛む胃を押さえながら感慨深く思った。
彼女の成績に対してとある方向からの依頼という名の圧力がかかり底上げをするようにと言われたが、アッペルクヴィスト女史から任された身であり生来の生真面目さから不当な成績を渡すなどとあってはならず、彼女の処遇に頭を悩ませた。
貴族であれば最低限必要なマナーのほとんどをなすことが出来ない彼女は、だが貴族院が発行する貴族名鑑はすみからすみまで把握していた。
驚くべき記憶力を持っているというのになぜ行動が伴わないのかと頭を抱えたが、そのおかげでなんとか及第点まで押し上げることが出来たのだからよかったのだと思うことにした。
今年度のことさえ考えれば胸をなで下ろすことができたのだが、何度注意しても自分の信念を曲げようとせず貴族としての資質が問われる状態には違いなかった。
そうして待ちに待った進級前の長期休暇が始まった。
長期休暇前には国境に詰める夫に連絡を取って休暇を合わせてもらい、自分たちの家であるラーゲルブラード侯爵のタウンハウスに戻った。
先に家に戻ったのは休暇が長いアストリッドで、数日前に手配した使用人たちが部屋の清掃に従事している最中だった。
家具に掛けられていたほこりよけのシーツは外され、窓を開けて換気をし、あちこちを数人で磨き上げていた。
「奥様。お出迎えも致しませで申し訳ございません」
髪の色を変えたアストリッドを見間違えることなく平然と奥様と言い切った執事は、予定より少し早く戻ったアストリッドを出迎えれなかったことを詫び、埃が舞い散っている中ご不自由をおかけいたしますがと以前使っていた部屋に案内した。
久しぶりの自室は、一番に整えられたのだろう、空気は清涼とし、建具や鏡はすべて一つの埃もなく、部屋のあちこちには美しい花々が生けられて、アストリッドを向かいいれた。
すぐに紅茶が運ばれて、テーブルに並べられていく。
アストリッドが旅の疲れを紅茶の香りで癒やしている間にも、持ち込んだ荷物を使用人たちがてきぱきと片付け、スコー学院に赴く前の姿を取り戻していった。
アンブロウシスは数日遅れてタウンハウスに戻ってきた。
一年前とは比べものにならないほど逞しく精悍な顔つきになった彼は、アストリッドを見つけるやいなや破顔して両手を広げるとアストリッドを招き寄せた。
抱きしめられたアストリッドが厚い胸板から顔を上げて、夫の帰りを待つ貞淑な妻らしく「お帰りなさい」と言う前に髪や額、頬に鼻のてっぺん、そして唇にキスをされ、顔を真っ赤に染め上げた。
「もうっ。久しぶりなのですからちゃんと挨拶くらいさせてくださいませ」
息絶え絶えに文句をいっても効果はなく、それどころか文句を言っている最中にもキスを受け、終いには顔中キスを受けていない場所はなくなった。
やっとキスの嵐がなくなったかと思えば今度はきつく抱きめられて、アストリッドは苦しいやら嬉しいやら大変だった。
「ああ、やっと君がここにいると実感できたよ。おかえり、アストリッド」
「まあそれは私の台詞ですわ。…………お帰りなしまし、アンブロウシス様」
こうして二人は離れていた一年を埋めるように休暇の間中お互いを求め合い、分け合った。
夢のような休暇はあっという間に過ぎていく。
二人は部屋にこもるばかりではなく思い出を作ろうと美術館や劇場を訪れ、朝の庭の散歩をし、お互いの実家に顔を出した。
もちろんアストリッドは変装を解いて普段の自分に戻っている。
胸にはアンブロウシスから子供の頃もらったダイヤモンドの小さな指輪が煌めいていたが、実家に顔を出した時に弟がよってきて親しげに話しかけてきてくれた時についその指輪を触ってしまってアンブロウシスから怪訝な目を向けられた。
何か不安なことがあると指輪を触ってしまう癖をアンブロウシスが知らないわけがなかった。
タウンハウスに戻ってから問われたが、アストリッドはたまたま触ってしまったのだといって取り合わなかった。
アンブロウシスもせっかくの休暇に争いの種は必要ないと、それ以上の追求をしなかったのはありがたかった。
そしてまた二人は二人の世界に浸った。
アストリッドはあまりの幸せに、理想の未来が今、手に入ったような錯覚に陥っていた。
アンブロウシスの休暇が明けるある日のこと。
アストリッドはいつものように朝食をアンブロウシスと取っていた。
もうすぐこの幸せな時間が無くなり、またあの胸をかきむしりたくなるほどの虚無感を与えられる学院に戻らなくてはならないと思うと憂鬱に沈みそうになったが、あと少しの間しかアンブロウシスといれないというのに鬱になることはないと自分を叱咤して気合いを入れた。
すると、くすくすと笑う声が上がり、うつむき加減だった顔を上げると、テーブルの向こう側から目を細めて笑う愛おしい夫の姿があった。
「いや、ごめん。
君のその顔がとても懐かしくてね。昔を思い出して笑ってしまったんだよ」
きょとんとするアストリッドをさもおかしそうにアンブロウシスは笑う。
「結婚する前に何度か君の元に通っただろう?その時に私に顔を合わせたとたんに見せたあの顔のことだよ。
あの当時、君は私が侯爵邸に伺うたびにまるで戦場に行く前の兵士みたいに意気込んでいた、その顔と今の顔がまったく同じで、妙に懐かしくてね」
「いやですわ、そんな昔の話をするだなんて」
「悪いとは思わないよ。だってとても可愛らしいじゃないか」
「まあ、私が感情を隠すことができない不出来な妻とでもおっしゃるの?」
「まさか!君は誉あるスコー学院の教養の講師に任命されるくらい素晴らしい女性でどこに出しても非の打ちどころのない妻だけれど、私の前だけは結婚した今も昔も本当に素直で可愛らしいと思っているよ」
そう言いながらテーブル越しに手を差し出して、アストリッドの左手を掴んだ。
「ほらまた真っ赤になった。私の可愛い妻は私を喜ばせるのが本当に上手だね」
『ほらまた真っ赤になった。私の可愛い妻は私を喜ばせるのが本当に上手だね』
え、とアストリッドは重複して聞こえた声に戸惑った。
久しぶりの感覚に気分が悪くなりそうだったが、それ以上になぜ今ここで観なければならないのかと不安になった。
焦りがもたらしたのか、目の前のアンブロウシスの姿も二重に重なる。
「アストリッド?いったいどうしたんだい?」
『アストリッド?いったいどうしたんだい?』
急に固まったアストリッドを不振に思って、アンブロウシスが眉をひそめた。
その姿すら二重にぶれてアストリッドの深く暗い部分を揺り動かす。
これは”物語”の再現だ。
アストリッドはなぜ今この幸せの時に”物語”を見てしまうのかと恐怖に引きつりながらせわしなくあちこちに視線をさまよわせた。
揺らめいてぐらつく視界は何もかも二重にぶれて見える。
入居する前に二人で厳選しした壁紙も扉もテーブルも椅子も食器もテーブルを彩る美しい花すらもすべてが二重にぶれている。
だがそれらは同じもので、違っているのはただ一つ、アンブロウシスの服装だけだった。
朝食を食べたらすぐにここを発つアンブロウシスはすでに出立する準備を終えているが、”物語”の彼はガウンを羽織ったままの寛いだ格好だった。
なぜ、今日このときになって。
スコー学院で講義をしていても、廊下や広場でテレーシアたちとすれ違っても、実家で弟と会っても”物語”を見ることもなかったからこそ、アストリッドは未来が少しずつ変わってきているのではないかと思いを強くしていた矢先だというのに。
また、みえて、しまった。
服装の違いこそあれ、全く同じ場面背景で、全く同じ言葉を言われ、アストリッドは足下から崩れ落ちる錯覚に捕らわれた。
椅子に座っていたことは幸いだった。
「アストリッド?顔が真っ青だ。部屋へ戻ろう」
いつの間にか後ろに立っていたアンブロウシスに支えられながらも立ち上がり、アストリッドはおぼつかない足取りで部屋へと戻っていった。
私室のソファに座る頃にはガウン姿のアンブロウシスはいなくなり、腕にアストリッドが贈った腕時計をつけた彼だけが気弱になったアストリッドを支えてくれていた。
耳元でひどくうるさく鳴る心臓もアンブロウシスの手が背中をさするたびに落ち着きを取り戻していく。
「ごめんなさい。せっかくの朝食を無駄にしてしまったわ」
「なにをいう。君の体調こそが大切なのだから、そんなことを気にする必要はないよ」
気付け用の紅茶を手渡しながらアンブロウシスが気遣わしげに言った。
これからまた国境へと発たなければならないアンブロウシスにこれ以上迷惑をかけれない。
けれど、心に受けた打撃とアンブロウシスが去ってしまう悲しみがアストリッドに襲いかかり、頬に涙がつたっていった。
「ああ、アンブロウシス。お願いだから私を見捨てないで」
急に気弱な言葉を呟いたアストリッドに驚いて、アンブロウシスはその小さな顔を両手で包み込んだ。
アストリッドの煌めく瞳から流れ出た涙を丁寧に吸い上げ、帰ってきた時よりもゆっくりとした動きで顔中にキスをした。
「私の大切なアストリッド。どうして私が君を見捨てるなどと思っているのか分からないけれど、そのようなことは決して起こらないと誓おう。君は私がどれほど君を恋い焦がれているか、きちんと知るべきだよ」
そしてアンブロウシスが出立しなければいけない時間ぎりぎりまで、二人は寝室から出てくることはなかった。




