第二十話
それにしても、とアストリッドは学院から与えられた研究室の椅子に深く腰を掛けながら考えた。
テーブルの上にはアッペルクヴィスト女史から引き継いだ学生カードが積み上げられている。
アストリッドは体を起こし、カードを取り上げると目当てのカードを数枚引き抜き、机の上に一枚一枚確認するように並べだした。
アストリッドにとっては頭痛の種と言って過言でないカードの主たちは、その実、アストリッドの受け持ちの学生はただ一人で、その学生が最も頭を悩ませる存在となっている。
彼女・・の存在は担当の中でも履修困難な学生というだけでなく、自分の将来を破滅へ導く存在としても認識しているため、”物語”で知りえる彼女の性格を少しでも正そうと、そして…できればご遠慮被りたいが…”物語”のままであれば将来の侯爵の横に並び立つ存在として教養や気品を身に着けて”物語”の中の散財癖を直そうと他の学生よりは目にかけてきた。
彼女は他の教科においては学年でも上位、それもほとんどの教科が十番以内の成績を収めているというのに、こと教養においては尊敬するアッペルクヴィスト女史も音を上げるほどの問題児だった。
いくら女史のお墨付きとはいえまだ年齢の若いアストリットでは舐められるのか、どれほど努力をしても彼女には響かず、このまま及第点すら取ることが難しければ他の教科が優れていようとも基本履修科目の欠落で卒業はできない。
彼女が憎くて指導が厳しいのではない。
ただどうしようもなく自分が無力に思えて仕方がないのだ。
他の学生たちからは講師として信頼されていると感じる分、余計に虚無感に襲われる。
その彼女がカードに記載されている通りに、こともあろうか上位貴族の子息たちと共にいることに違和感しか覚えない。
アストリッドの担当が女子学生ということもあって授業で彼らと会う機会はないが、休憩時間毎に外に出て逢瀬を重ねているのか校舎間の移動のたびに目の端に彼らの姿をとらえることが多い。
芝生の上で座っている彼女を取り囲むように立っていたり、彼女を中央に据え道幅いっぱいに広がって話しながら歩いている姿だったり、講堂の入口を塞ぐようにして談笑していたり。
余りにも頻繁に遭遇するため、わざわざ見せびらかしているのかと疑いたくなるところだが、一講師であるアストリッドにそれを行ってとしてどのような意味があるというのだろう。
芝生の上に直接座るというのは淑女として決して褒められた行為ではないがまだましな方だ。
だがその他の行動は迷惑行為としか言い様がなく、横柄な態度は貴族社会に出ると嘲笑の的になる。
輪の中に王族に連なる者がいることで、笠に着ているのならばたちが悪い。
教養の講師としての義務と責任がそのまま見逃すことを許さず、公共の場所で我が物顔で闊歩する彼らに、彼らと遭遇すると知らずと出るため息を押し殺しながら注意を促した。
「あなた方はここをどこだとお思いですか。楽しく談笑していることはとても喜ばしいことですが、道いっぱいに広がって他の学生の通行の妨げになることは非常に迷惑な行為でしょう」
「扉の前に立たれると他の学生が講堂に入りづらくなります。もうすこしだけ横にずれると他の方もとおりやなるでしょう」
弟がいる集団に声を掛けることはある種の勇気がいったのだが、弟は名が変わり変装をして口調も変えたアストリッドに気づかず、問題の学生は首を何が悪いのかわからないと首をかしげた。
「まあ、先生。少しの間のことではないですか。
そんなに目くじらを立てなくても、ほら、誰も気にもしていませんわ」
「今は教養の時間ではないのですから、先生に指導していただかなくても結構ですのに」
その通りだと周りにいる学生たちが頷きあう。
中には理不尽だとばかりに睨み付けてくる学生もいる。
唯一人、弟だけがアストリッドに頭を下げるが、集団の一番後ろに立ち位置があるためアストリッド以外の誰もそれに気づかない。
「注意は致しました。それを実行するかどうかはあなた方の判断に任せますが、ただ一つだけ言わせていただくと、講義外だからといってもあなた方の行動は学院の監視下にあるということです。この学院に在籍している間は学院の規則に則るのが正しい学生のあり方であり、規則外のことにおいても学院で学んでいることを遂行すべきことであることは明白です。それが学院の外でどのような経歴、どのような背景を持つにしても、ということを付け加えておきましょう」
最後に一人一人の名を彼らの目を見ながらつげ終えると、アストリッドはその場を後にした。
背後から「いけ好かない」だの「誰だと思って」だの、あろうことか「金目当ての後家のくせに」「これだから夫に捨てられてたんだ」「傷物が」だのと誹謗中傷を投げつけられる。
若い貴族夫人が俗界と隔離される学院にいるのだから噂の一つや二つはあると思っていたアストリッドだったが、まさかここまで着色されているとは驚きだった。
噂話を平然と本人に投げつける浅ましいこの集団に弟がいることが情けない。
彼の声が聞こえてこないことは幸いだが、その集団に属しているだけでも品位を疑いそうになる。
――――彼女のことを想っているのならば居続けなければ機会がないのだろう。
貴族としても人としても成長を見せない彼女にどうして惹かれるのかと思うが、恋は理性を殺してしまうということか。
玄人ではないアストリッドの変装はよくみてみれば姉だとわかりそうだというのに、姉を慕っていたはずの弟は目の前で苦言を呈する講師を姉だと見極められず、テレーシアは弟の親族とは知らずアストリッドに取り繕わない自分を見せつける。
彼女の本性をより知るために弟と血縁であることを隠すことにしたアストリッドだったが、彼女の貴族として人としての行いを知ると、弟になぜ分からないのかと言いたくなる。
いや、言っているに等しい行為をしていると思うのだが、彼女にそれが届かないように弟やあの集団にも届くことがない。
前途多難とはこのことね、とアストリッドは椅子の背に体重を預けて天を仰いだ。




