第二話
事の起こりは、アストリッドが見た”夢”からだった。
アストリッドは幼い頃から奇妙な白昼夢を見続けていた。
気が付いたのはいつのことだったかもう覚えていないが、外で両親とピクニックに出かけたときに見た一匹の青カエルだったり、屋敷の自分の部屋にある鏡台の上の小さな額縁の割れを見つけたときだったり、新しく買ってもらったドレスのさらさらとしたリボンの感触を楽しんでいた時に、これらの出来事がどこか昔に同じことを体験したことがあったはずと思い返した時からそれは始まった。
なにかしら。これって前にあったことのような気がするのだけれど、初めてのことよね?
アストリッドは真新しい中に奇妙な懐かしさを抱く不思議さに頭をかしげていた。
そしてその奇妙な懐かしさをどうして感じるのかと何度も何度も記憶の中をひっかきまわしてみたが、わかったことは「おかしい」ということだけ。
なぜ、初めての出来事を”知っている”のか。
そうして知らなかったことを”理解している”のか。
初めのうちは「これ、知っているわ」と口に出していたアストリッドだったが、言葉にするたび初めは微笑ましく見ていた大人たちがだんだんと得体のしれないような目で見るようになってくることに気が付いた。
屋敷の使用人たちから不気味な娘だと噂されようがなんとも思わなかったが、実の母親から気持ちの悪いモノを見る目を向けられ、触ろうとした手を弾かれたときにこれは言ってはいけないことなのだわと”知っていた”ことを黙っているようになった。
アストリッドが”知っていた"と言わなくなったことで、屋敷の者も母親も故意に忘れるようにしたのか、戸惑いは残るものの言葉に出す以前の”普通”の接し方に戻っていった。
それからはできる限り”知っていた”とはは言わず、初めての体験だろうことはそれらしく振舞うことで時折見せる大人たちの疑惑に満ちた視線を回避するようになった。
それに加え、生まれたばかりの愛らしい弟をかまうことで、優しい姉という位置づけを得る努力もした。
弟は可愛い。
弟が生まれてすぐ母親の部屋に行ったときには、母親の腕の中で絵本で見た猿のように真っ赤でくしゃくしゃとした生き物が眠っているだけで、父親は母親がいう「かわいい弟」というモノではないと思っていたアストリッドだったが、すぐにその思いは撤回することとなった。
寝ていた赤ん坊が何かを探しているようにふよふよと手を泳がせているのを見てアストリッドが手を差し出すと、きゅっと小さな手がアストリッドの指を握りしめ離さない。
そのくせもう片方の指は口元に持って行き、ちゅぱちゅぱとお乳を吸うように吸い始める仕草に、アストリッドはきゅんとなってしまった。
それからは時間があれば弟の部屋に行き、ベッドの上からのぞき込んで幸せそうに眠る弟をじっと見ていたり、起きているときはガラガラを鳴らしてあげたり、ちょっとした動きをするたびに「いいこね」と褒めてあげたりしていた。
屋敷の中の誰よりもアストリッドは弟といる時間が長いと自負していたら、よちよちと歩く頃にはアストリッドの後を追い、眠るときはアストリッドの手を握り、アストリッドが淑女となるべく勉強に勤しんでいるとその横でおとなしく絵本を読み、食事をとるときもアストリッドの手からでないとグリーンガーネットの大きな瞳を潤ませて泣いてしまうほどの懐かれてしまった。
かわいくない訳がない。
アストリッドはよりいっそう弟を可愛がり、弟はさらに姉を慕った。
どこからどう見ても仲のよい姉弟を侯爵夫妻は温かい目で見守っていた。
優しい姉を演出するまでもなく、アストリッドは弟にメロメロだった。
だが時折、無垢な弟の吸い込まれそうなほど透明な瞳を見ていると、いいようのない不安で胸が痛くなる。
急に動きを止めたアストリッドを心配そうに見上げる小さな弟に、なんでもないのよと髪を優しくなでる手が、かすかに震えるのを止められない。
アストリッドにはわかっていた。
弟を初めて見たあのとき、またいつもの”知っている”ことが次々と湧いて出た。
いつもであればそのときの出来事を”知っていた”だけだったのが、おかしなことに生まれたばかりの弟を見てからは未来の出来事が見えるようになった。
その中でアストリッドは大きくなった弟に煮え湯を飲まされ、人生を奪われ若くして死ぬ運命を見てしまう。
五歳のアストリッドにはその映像の意味がわからなかったが、だんだんと弟が”知っている”ことと同じように成長するにつれ、あの日に見たものが自分自身に降りかかる現実になっていくのだと理解するようになった。
アストリッドは大人になった弟に苦渋を舐めさせられ、両親からも夫からも見捨てられ、失意のうちに人生を終えるのだ。
舌っ足らずの言葉で「おねえたま」と呼ぶかわいらしい弟は、愛おしい存在であるとともに恐怖を与える存在でもあった。
大好きよ。
今はその言葉に嘘はない。
けれどもその言葉をいつまで言い続けることができるのか、アストリッドにはわからなかった。