第十六話
「いい話じゃないか。お受けしたらどうかな」
仕事から帰ってきたアンブロウシスは、アストリッドの話を聞くと驚きはしたもののすぐに晴れやかに微笑んで答えた。
文句を言われる、嫌がられる、非常識だと罵られるなどの想像をしていただけに、アストリッドはあっけにとられてしまったが、すぐに立て直して「なぜ」と問い直した。
すると夫の口からはとても信じられない話が飛び出したのだ。
「実は辞令が出て、近々国境警備隊へ出向することになったんだよ」
その言葉にアストリッドは衝撃を受け、硬直した。
アンブロウシスはそんなアストリッドを申し訳なく思いながら体を引き寄せた。
軍隊に入隊してからたくましさを増した胸にぽすんと頭が当たる。
「任期は二年あるから一緒に行ってもらいたかったけれど、先輩方が言うには妻帯者のほとんどは単身赴任しているらしい。国境なだけあって辺鄙ではあるし、なによりいつ隣国と戦争になるかどうかわからない場所に愛する者を連れていくことができないというんだよ。私としては君と離れがたいのだけれど、愛する君を危険な目にあうとわかっている場所に連れて行くことはできない。けれど君を一人にしておくことはとても心配でどうしようかと思っていたところだったんだよ」
理解してもらおうといつも以上にゆっくりと話をするアンブロウシスの気遣いと背中をさする手にアストリッドのこわばった体が少しずつほぐれだした。
不思議なものだ、自分こそが彼にとって衝撃を与えるはずの話をしたというのに、それを逆に喜ばれてしまうのだから。
「だからこの話は渡りに船というか、まるでこの辞令に合わせて作られた話のような気がしてならないね。
ねえ、君。
女史はなんていっていたんだい?」
アストリッドは夫の問いに女史の話を思い返しながら言葉を紡ぐ。
「…………できれば寮の監督も引き受けてもらえないか、ということくらいかしら」
「なるほど。学院は王都から距離があるから通うことはできないし、妻帯者でないかぎり教員も寮生活だと聞いたことがあるから、君も務める限りは寮にはいらなければならないということだよね。じゃあ女史の希望通りに監督も引き受けてみてはどうかな」
「まあ、あなた。どうしてそんなことをおっしゃるの?講師を引き受けたとして初めてのことですから他のことを考える時間などないと思いますのに」
「それはどうだろう。僕の愛する君はとても優秀だから、すぐに慣れると思うけれど」
「それは買いかぶりというものですわ。
ただ、任せられた仕事はやり遂げたいと思っておりますけれど」
「ほらごらん」
きっと君のことだからそういうと思ったよ、と抱きしめられていた腕の力がぎゅっと増した。
「でも一つだけ。休暇があればちゃんとここに帰ってくることを約束してくれないかな。
そうでないと君を求めて学院まで押しかけてしまいそうでならないからね」
返事がくぐもったのは重なった唇のせいだった。
それからは怒濤のごとく日々が過ぎていった。
まず女史に連絡を入れた。
すると女史からの返事を受けとるのと同時くらいの早さで本人がタウンハウスにやってきてアンブロウシスとアストリッドに感謝の意を伝えた。
女史の晴れやかな笑顔が印象的だった。
その席でアストリッドは講師をするに当たりいくつかの条件を女史に提示した。
女史はどうしてそんな必要があるのかとアストリッドの条件に首をひねったが、女史にしてみればたいしたことでもないので快く了承して帰って行った。
女史が去った後には講師のオファーを受けたことよる書類が置かれており、これにサインすることで本格的に始動するのだとアストリッドの胸は熱くなった。
だが感傷的になっている場合ではなかった。
夫が単身赴任する時期とアストリッドがスコー学院に赴任する時期が重なっているためにやるべきことは多い。
夫は警備隊の、アストリッドはスコー学院の寮生活になるとはいえ、用意するものは多くありそれの買い出しや手入れなどに時間が必要だったし、誓約書などの書類の作成や二年ほどほぼ不在となるタウンハウスの使用人たちの契約の見直しなど、目を回すほどの忙しさだ。
そんな中、義父である侯爵から侯爵のもついくつかの爵位のうちの一つである男爵位をアンブロウシスに授けられた。
これは国境警備隊に行くのならばそれなりの支度も必要であろうからという理由だったが、本当はアストリッドが講師という職業に就くために次期侯爵夫人という肩書きより男爵夫人としての地位がふさわしいだろうという配慮だった。
上位貴族である侯爵夫妻には息子の妻であるアストリッドが職業につくというわがままを聞き入れるだけでなく配慮までしていただけて申し訳ない気持ちで一杯だったが、大変ありがたくもあった。
アストリッドはこのときよりベーヴェルシュタム男爵夫人と名を変えてた。
両親には夫が男爵位を賜ったことだけを伝えにいった。
母の懸念を晴らすために学院に講師として招かれたといえばよかったのだろうが、なぜか躊躇われた。
それは侯爵から男爵位を賜ったと伝えたときの母のなんともいえない表情のせいだったかもしれない。
それとも将来侯爵となるはずの夫が国境に配備されることで将来性がないとあからさまに見下した顔を向けられたからかもしれない。
アストリッドは夫について行くとも侯爵のタウンハウスに残るともどちらともとれる曖昧な返事を残して実家を後にした。
こうしてアストリッドは夫と義両親の援護のもと一年の時を経て自身が卒業したスコー学院の講師として再び門をくぐることになった。




