3 世の中は肉じゃ
鳴り響く緊急警報。
「ばかな! こんなばかなことが!」
山田が青ざめる。
補給が追いつかない。これでは戦線が維持できない。
戦闘開始から二十分も経過していないのに。
どうする。
元スパイの顔に滲む苦渋。
このままでは戦線の崩壊は時間の問題だ。
しかしもう打てる手は残っていない。補給がなくては戦えるわけがないのだから。
無理か。どうしても無理なのか。
「降伏するしか……ないのか……」
「なにを遊んでいるのですか。山田シェフ」
ぽこっと、五十鈴の手がコック帽越しにチョップを決めた。
「あふん」
悲壮ごっこをしていた山田が変な声を出す。
「なかなかによく食べるお客様のようですね。山田シェフはカレーの仕上げに専念してください。真・トンカツは私が」
さっとフライヤーの近くに移動する五十鈴。
山田はまだいなかったが、彼女はさっぽろ雪祭りを経験しているのだ。
澪から二度も肉の補給を受けなくてはならなかった、あの激戦を。
作っても作っても、売っても売っても減らない、あの行列を。
それに比較すれば、今回など専門の厨房で回せるし、肉の在庫もある。
ぜんぜん余裕だ。
「さあお客さま。この私が前線に出たからには、そう簡単には崩せませんよ」
厨房から覗く瞳。
それは、必中必殺の彼女の矢のように、朱音一行を射抜く。
「む? カツが変わった……? のか?」
ほんの一瞬、朱音のスプーンが止まる。
美味い。
そして巧い。
先ほどまでのカツも絶品であったが、これはさらに上をゆく。
まだ伸びしろがあるというのか。
「やるのぅ。カレーも変わったようじゃな」
もはや彼女の瞳には、右衛も左衛も、玄真さえも映ってはいない。
真・澪豚カツカレーの皿。
それを通して戦人の姿しか見えない。
本来、煮方と揚げ方に分かれていたのだろう。
おそらくあの山田とやらいう美丈夫は煮方だ。揚げ物を専門のものに任せ、自分は本来のカレーに戻ったのだろう。
カレーを口に含むごとに、心に風が吹く。
それは見たこともない異国の風だ。
南フランス、プロヴァンス地方を吹き抜ける暖かな風。
知らない場所なのに、どうしてこんなに懐かしいのか。
「そしてこのカツは、母の愛じゃな」
見守っているよ、と。
ここにいるよ、と。
背を押してくる愛だ。
「よいぞ……よいぞ……。じゃがもっとじゃ。もっと我を楽しませよ。もっと我を泣かせよ」
涙を流しながら、そして笑いながらカレーを食べる朱音。
危ない人である。
暁の女神亭でなかったら通報されちゃうレベルの。
妙に達観した顔で、玄真は他人のふりをしていた。
結局、玄真は一人前を食べた。右衛と左衛も一人前ずつを平らげた。
朱音はといえば、二十マイナス三である。
じつに簡単な計算式だ。
さらに追加を注文しようとしたのだが、なんと暁の女神亭は追加注文を受け付けていないという。
朱音の前に現れた五十鈴との間に、一触即発の空気が流れた。
しかし、トラブルを起こさないというのは玄真との約束でもある。
そしてそれ以上に、全力を尽くして戦った戦士たちだけがもつ共感のようなものがある。
意外なほどあっさりと折れる朱音。
「無体をいうて悪かったの。じつに美味であったゆえ、ついの」
「申し訳ありません。規則ですので。ですがそのかわり」
すっと朱音の耳に唇を近づける五十鈴。
「ザンギの方は、すこしオマケしておきました」
満面の笑みが、鬼姫の顔に浮かぶ。
「五十鈴とやら。我と結婚してたまわれ」
突然のプロポーズである。
「ごめん。何言ってるかわからない」
頭を抱える玄真。
彼はそのくらいで済んだが、厨房にいる元スパイは隠し持っている拳銃に手を伸ばしかけたとかなんとか。
まあ、わりとどうでもいい話ではある。
五十鈴がくすくすと笑う。
釣られるように朱音も微笑を返した。
残念だが、五十鈴を娶ることは難しい。
降る刻の流れが違うから。
もし次に目覚めるのが、百年も後だとすれば、命短き人間たちは誰も生きてはいないだろう。
この出会いが、今生の別れでもある。
「では、我はゆく。汝と出会えたことは我にとって宝物じゃ」
「過分なお言葉、感謝に堪えません。ぜひまた食べにきてくださいね」
右手を差し出す女勇者。
「機会があれば、是非にの」
力強く握り返す鬼姫。
本来なら敵対する関係である二人の間に芽生えたのは、友誼であった。
殺し合うよりは、ずっとずっとましだろう。
去ってゆく四人。
「またのご来店、心よりお待ちしております」
頭を下げる。
応えるように、頭の高さに挙げられた朱音の右手が、ひらひらと振られた。
「お嬢様。あの態度は如何なものかと」
右衛が穏やかに主人を咎める。
午後の公園。
暁の女神亭から程近い公園である。ここで次期魔王兄妹は眷属たちと出会った。
もちろん、べつに史書とかに載るような事柄でもない。
応えず、朱音がもぐもぐと豚肉の唐揚げを咀嚼する。
これも美味い。
あえで歯応えのある部位を使い、しっかりと噛むことによって、より深い味わいが生まれてゆく。
少し大げさにいえば、生きていることを実感できる。
獲物の肉に食らいつき、咬み千切るような、そんな生の快感だ。
柔らかいことが、そのまま美味しいという意味ではない、と、体現したかのような一品である。
「聞いておいでですか。お嬢様」
今度は左衛だ。
語調がやや強くなってゆく。
あの人間は丁寧な一礼で彼らを見送った。
それに対して、振り返りもせず後ろ手に手を振って済ませるとは。
「まあまあ。右衛くんも左衛くんも」
両手を広げてなだめるのは玄真である。
彼は、朱音が振り返らなかった理由を知っているから。
友誼が芽生えたとはいえ、あるいは、芽生えたからこそ別離の涙は見せたくないものだろう。
一瞬の交錯だ。
もう二度と会うことのない友。
これをあと何千回、何万回繰り返せば良いのだろう。
「玄真や」
ザンギを口に運んでいた楊枝が、ふと止まる。
「いつになれば、我は許されるのであろうな」
音波として黒い鬼の聴覚を射程に捉えるには、あまりに小さな呟きだった。
「んん? なんて?」
首をかしげる。
「喉が渇いたのじゃ。なにか飲み物を所望する」
「そこに水道があるよ?」
「たわけが。これほどの美味を、水で流し込めと申すか」
「ですよねー」
ベンチから立ちあがる男。
「洋酒と日本酒、どっち?」
「それを問うか?」
「ですよねー」
澪豚ザンギやトントロ煮込みには日本酒かハイボールか。
この命題は澪の内部ですら容易に決着を見ない。
朱音はどうやら前者であるようだ。
「ちょっと買ってくるよ。ここにいて」
使い走りに嫌な顔もせず、ほてほてと歩み去ってゆく。
とくに視線を投げることもなく、ふたたび肉をつまみ始める赤い鬼。
が、手が止まった。
気配を感じたのだ。
何かが近づいてくる。人ではない。
目を細める。
街の方から歩いてくる女が一人。
まだ若い。おそらくは二十年は生きていないだろう若い鬼だ。
「澪に住む鬼のひとりかの……?」
内心に呟く。
まだ若い故、こちらの変化に気付くかどうか、微妙なところではあるが。
気付かれると、厄介なことになるかもしれない。
勝手にナワバリに入っているだけに。
若い女鬼が近づいてくる。
ごくわずかな緊張感を漂わせる右衛と左衛。
指呼の間に距離が縮まり、ふたりの鬼姫が互いの顔を視認する。
一方が、にっと笑った。
食べているものに気が付いたからだ。
「世の中は」
「肉じゃ」
謎の問いかけと謎の回答。
たったそれだけ。
そのまま去ってゆく若い鬼。暁の女神亭の方へと。
不意に朱音が呵々大笑する。
なんと愉快な街だ。
惜しい。じつに惜しい。もう間もなく去らなくてはならぬというのが、あまりにも口惜しい。
「お嬢様?」
「如何さないました?」
七月も終わりに近づいた澪。
少しだけ傾いた日差しが、鬼姫の影を長くしてゆく。
主の笑いの意味が判らず、二人の護鬼が狼狽する。
かまうことなく、朱音は手づかみでザンギをつまみ、ひょいと放り投げた。
美しい放物線を描いて、それは鬼姫の口に消えていった。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
新作執筆の合間に、こんな感じのものを書いてみました。
許可をくださったSwind先生に感謝っ
そして、読んでくださった皆さんに、百万の感謝をっ