1 鬼姫襲来
ゆっくりと。
夢幻の海をたゆたう意識が方向性をもってゆく。
覚醒へとむけて。
「む……」
紅唇を震わず吐息。ぴくりとうごいた瞼が、ごくわずかに開かれる。
窓とてない石造りの寝所。
光もなく、音もなく、命の気配すらなかった場所に灯る、命の息吹。
「これ……は……」
百年の微睡み。その終焉は快適なものではなかった。
長く美しい朱銀の髪が、寝汗で顔に張り付いている。
額から生えた二本の角は人ならざるものの証。
朱夜叉。
それが彼女の名である。
とかく鬼の多い日本において、あまり有名な存在ではない。
なにしろほとんど寝ているので。
そりゃあ寝てるだけで伝説に名を残したりしたら、そっちの方がびっくりである。
ついたあだ名は朱夜叉の眠り姫。
「まあ……眠り姫でもぐーたら姫でも、なんでも良いのじゃがな……」
ぼりぼりと頭を掻きながら不機嫌な声を出す。
こんなに不快な目覚めはしばらくぶりだ。
あるいは人の世に何かあったか。
たとえば七十年ほど前のような未曾有の惨事が。
だが鬼たる身に、人の世の変遷は関係ない。覚醒の理由にはならぬのではないか。
「誰ぞある」
無意味な思考を中断して呼びかける。
ずっと寝ていたのだから状況が判るわけがない。判る者に訊くのがいちばんだろう。
「右が控えております」
「左も、ここに」
襖の向こう側から帰ってくる声が二つ。
右衛と左衛。
彼女の眷属であり、護鬼だ。
主の目覚めを喜ぶ声色では、残念ながらない。
「起きてしまったか。やむを得なからざる事ではあるが」
三人目の声が混じる。
知っている声だ。
「玄修羅。汝はおなごの寝所に押しかけるほど不作法な者ではないと思うておったが。我の思い違いかの」
棘をたっぷりと含んだ声で告げる。
同じ鬼族で、なにかと縁のある男だ。
残念ながら良い縁ではないが、思い返すと、そう悪縁ばかりともいえないところが腹立たしい。
「時と場合による。できれば眠っていて欲しかった。だが起きたからには仕方がない。事情を説明するので支度を」
姿は見えない。
とかし緊張した声が去ってゆく気配があった。
「何事なのじゃ……まったく」
髪をかき上げると、寝汗の残滓が指先を汚す。
舌打ちしそうになるのをこらえ、湯浴みの準備をするよう眷属に申し伝える朱夜叉だった。
「壮絶に嫌な予感がする」
作業服姿の男が言った。
左胸に澪町役場と刺繍された素敵な作業服である。
北海道南部の小さな街、澪の建設課課長補佐。
それが彼の肩書きである。
愛称はしゅてるん。本名もあるのだが、そちらで呼ぶ者は誰もいない。上司や部下や同僚ですら。
下手をすれば、本名を知らない可能性だってあるくらいだ。
戸籍上の本名が知られていない公務員というのも、なかなか愉快な存在だが、この程度で驚いていたら、澪では生きていけない。
なにしろこの街の役場庁舎内にはオカマバーだってある。
「なんだよそれ」
変な顔をするのは同僚の上下水道課課長補佐たる広沢だ。
額の汗をアイヌ文様の刺繍されたバンダナで拭う。
第三偽装要塞。
公的には、三号観光案内所「つどーる」というのだが、澪に住む者は、この城をそんな名では呼ばない。
リン城。
かつて行われた戦いで散った小さな槍使いの名をとった名称だ。
そのリン城の保守点検作業中の二人である。
多くの部分は作業員たちでもこなせるが、さすがに基幹部分については内政カルテットが出張らなくてはならない。
水利も基礎も、この二人でなくてはどうにもならないのだから。
「や。昨夜の夢見も悪かったんだよな」
「しらないよ。いい歳こいて夢占いかよ」
「それがよ。うちの大将が床を叩いて悔しがってる夢だったんだぜ? OTLみたいなポーズで」
「だから知らないって。しゅてるんの気色悪い夢の内容なんか知りたくもないよ」
聞かなきゃ良かったという顔を広沢がする。
ひどい僚友もいたもんである。
とはいえ、悪い予感など、聞きたくもないというは事実なのだ。
先月の戦いで、また大きな被害が出た。
戦闘員である第一隊から十四名の戦死。その前の副町長夫人誘拐事件で、やはり三名が闘死している。
中には広沢の知己が何人も含まれていた。
もう戦いはたくさんだ、という思いは、若い町幹部の専有物ではない。
現在澪では、激減した戦力を補充するためにスカウト活動を行っているが、なかなか簡単ではないらしい。
「ポーク隊からも希望者がでてるらしいけど」
「アメリカ軍出身者かぁ。メンタル弱そうだなぁ」
「それは偏見じゃないかな?」
返しつつ、話題の変更に成功した広沢がほくそ笑む。
何が面白くて、野郎の夢の話なんぞを聞かなくてはいけないのだ。
そういうのは美少女がやるから良いのであって、二十代中盤のマッチョマンがやっても、気色悪いだけなのである。
「うげ」
「なんだよ。変な声だすなって」
「正夢になりそうだぜ」
「話題戻しやがったよ。この腐れ鬼」
「いいからちょっと気配読んでみろ」
「自分はしゅてるんほど得意じゃないんだよ」
ぶつぶつ言いながら感覚を鋭敏化してゆく。
……近づいてくる。
巨大な存在感が。
しかも速い。
この速度ならもうすぐ本州を越えて津軽海峡に達するだろう。
敵か。
「これって……あれ? 消えた?」
「ああ。俺も見失った」
時速にして二百五十キロくらいの速さで向かっていた気配が、ぷつりと消えてしまった。
「意味が判らないんだけど?」
「青函トンネルに入ったんじゃね?」
スピードといい、急に気配が消えたことといい、そう考えれば筋が通る。
通るのだが。
「敵か味方か判らねぇけど、たぶん北海道新幹線で向かってるってこったな。悪い予感しかしねぇ」
「残念ながら、自分もだよ」
肩をすくめる酒呑童子と北海竜王であった。
ここは澪。
女神の血族や鬼の末裔、神の転生、果ては中華神話の妖怪たちまでが、人間たちと共存するカオスな街である。
新函館北斗駅に降り立った朱音は、ため息とともに首を振った。
かつて江戸と呼ばれていたところから、二刻ほどで蝦夷地である。
人の世というのは、これほどまでに変化の激しいものだろうか。
ちなみに、飛行機とやらを使えば一刻もかからないという。
「……自らの手で世界を狭くして、如何するというのかの。人は」
ぽつりと呟く。
人が生き急ぎ、死に急ぐのは今に始まったことではない。
戦に明け暮れていた時代もそうだった。
速く移動することに情熱を燃やす意味が、彼女にはわからない。あるいはそれは、長き刻を生きる者だからこそ理解できぬのであろうか。
繰り返す命の円環に入ることの許されぬ身だから。
「お嬢様。いかがなさいました?」
キャスター付きのトランクを引いた右衛が、心配げに声をかけた。
涼しげなサマースーツをまとった瀟洒な青年である。
時代に合わせ、それらしく見えるように変化したのだ。
ちなみに左衛は、右衛とほぼ同じ格好。
朱音こと朱夜叉は、まるでファッション誌から出てきたようなお洒落さである。
膝上丈のふわりとした白いワンピースに身を包み、細い腰を緩やかに絞る飾りベルトは深紅でアクセントとなっている。
強い日差しを避けるストローハットは、つばもやや広く、全体的に「いいとこのお嬢さん!」という雰囲気だ。
となると、男たちの立ち位置は執事といったところだろう。
注目を集める三人である。
「いや……腹が減っての……」
「駅弁を食べたではありませんか」
「しかも、全停車駅総ざらえの偉業を成し遂げたばかり」
左右から口々に言う。
偉業というほどのこともない、すべての停車駅の駅弁を味わっただけだ。
東京から、大宮、仙台、盛岡、新青森と、四つしか停まっていないのだから、四時間で弁当八つは普通である。
たとえば美味しそうな駅弁が二つ並んでいたら、選べないではないか。
「普通じゃよな?」
たぶん。
「お嬢様、誰にいっているのですか?」
「はて? なんとなく、言わねばならぬ気がしたのじゃが? 我は誰に言い訳したのじゃろう?」
小首をかしげる朱音。
漫才を続ける三人の前に自動車が停まる。
もうひとりの同行者、玄真こと、玄修羅がレンタカーを借りてきたのだ。