(9)
触れてもいないのに、僕の手のひらがじんと熱を帯び始めた。目には見えない線が、本からと、そして僕の手のひらから伸びていき、ちょうど真ん中で結び合ったとき、僕の全身を一陣の風が吹き抜けた。
流れ込む思念が、瞼の裏で映像となる。
『許して』
黒髪の女がそう言った直後、僕は曼珠沙華の中に埋もれていた。
あたりを見回す。
黒髪の女性がいない。
誰の姿も見えない。
前に見たときと違う光景に、僕は戸惑った。
見渡す限り、どこまでも続く曼珠沙華の中を、僕はゆっくりと歩き出した。
空はない。
光もない。
音もない。
けれどなぜか曼珠沙華の紅く淋しい色だけははっきりと見えた。
不思議な光景だった。
僕は歩き続けた。
ふいにやわらかな風が頬を撫でた。
あれだけあった曼珠沙華は、風に吹かれて一瞬のうちに消えていた。
芝居の幕間に舞台セットが切り替わるように、僕はいつのまにか、どこかの庭に立っていた。庭には池や飛び石があり、庭園としてきちんと手入れされている。
目の前には重そうな瓦を載せた大きな日本家屋がどっしりと建っていた。
広い縁側がふいに賑やかになった。
見ると、小さな子供が二人、本をめくりながら楽しそうな声をあげている。
『母様〜』
『はいはい』
子供の一人に呼ばれて奥から出てきたのは、亜麻色の髪の女性だった。
金色に近い髪をきっちりと結いあげ、黒地に銀の蝶の刺繍の入った着物に薄いグレーの帯を締めている。
『あら? このご本はいじっちゃだめって母様、言ったでしょう』
『だってこれを読んだら強くなれるのでしょう? 父様のように』
『まだ字も読めないのに』
『だから読んで。母様が読んで聞かせて』
『自分で読めなければ意味がないのよ。ちゃんと字を覚えるまでは母様が預かっていますからね』
母親は子供たちが見ていた本をそっと閉じた。子供たちがぶうぶうと文句をいっていたが、やがて家の奥へと消えていった。
一人縁側に残った母親は、抱えていた本を開くと一気に二つに裂いた。
一方を空へと放つと濃紺の星空へと溶けて消えていった。
母親は残った方に口づけたあと、そっと手を離した。
片割れが地に触れるその瞬間、その本のタイトルが見えた。
「あ!」
声をあげた瞬間、目の前にあった光景はぱちんと弾けた。
二つに破られた本。
一つは空に投げられ、一つには地に落とされた。
「もしかして!」
僕は書庫を飛び出し、廊下をバタバタと走って店に飛び込んだ。