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 灰は後から後から降ってきて、店中を白く染めた。これを掃除するのにどれだけ時間がかかると思っているんだろう。どうせなら床でやって欲しかった。五代目の逃げ足の速さを恨む。

 古本屋というのは、眼鏡をかけた優しそうなおじいさんが店の奥に座っていて、宝物のような古い本と、埃と紙とインクの匂いと、静けさに満たされている。

 というのは、うちの店には絶対に当てはまらない。

 店主はあんなだし、筆業師見習いの僕は、時にさっきのように逃げ出した本と追いかけっこをしている。書架の本たちは、いつでも僕をちゃかし、くすくすと笑う。

 煩いにもほどがある。

 でも、しゃべるくらいなら、まだいい方だろう。

 そういう本が持ち込まれても、無害なのでうちで預かるだけだ。

 しかし力の強すぎる本は封じる。今日、持ち込まれた本のように、暴れるような手に負えないものは消してしまうこともある。

 本を封じたり消したりすることを、僕たちは浄化するという。

 そのとき使うのが、筆だ。

 筆で宙に文字を書き、念を込めて手を打つと、その文字は様々な姿に形を変える。文字を操るのだ。これは、千年家の血を引く者にしかできない術だった。

 筆を使うから、僕たちは筆業師と呼ばれる。

 もちろん、大っぴらに宣伝したりはしない。いまの時代、本がしゃべるとか、本が人を襲うとか、本を退治するとか、そんなことを信じる人はほとんどいないから。一見、普通の古本屋を装いながら、神社に奉納された本や直接持ち込まれた本を処理している。

 生活の糧は物の怪となった本の処理代だが、直接店に持ち込んできたお客さんからお代をもらったことがないので、どこからお金が回ってくるのか僕には未だに謎だ。神社から貰うのか、もしかしたら健康保険みたいにあとでまとめて申請して、どっかからお金を貰うのかもしれない。物の怪図書組合でもあるのだろうか。

『ねえ 早く片付けてくれない』

『汚れるのは嫌だ』

『おい 半人前の見習いくん!』

 さっきから耳に飛び込んでくるこれらの囁きは、店の書架に並んだ本たちのものだ。

 ここにある本は、しゃべるということ以外まったく無害なものばかりだから、この店で次の持ち主が現れるのをおしゃべりしながら待っている。ごくごくたま〜に、ふらりとやってきた普通の客が普通の本と思って買っていくこともあるのだ。客が本を抱えて出て行く時、店内にドナドナの大合唱が溢れていることは、僕たち千年家の人間しか知らない。

 そんな本たちだが、五代目が店に現れると急に行儀が良くなる。いつもはざわざわと煩い店内が、一瞬で静まり返ることもある。

 これが格の違いというものだ。

 どうせ僕は見習いだし、と少しばかり卑屈になったりもする。

 でも、いつか五代目のようになりたいとは思わない。

 尊敬はするけれど、僕はどれほど人間の手に負えない本でも、簡単に灰にしてしまいたくはないからだ。

 筆業師ならそうするしかないと理屈ではわかっている。けれど終わった後にはいつも、他に方法はなかったのかと考えあぐねてしまうのだ。

 本を消滅させるしかできない、それが筆業師の仕事なら、僕はこの古書店を継ぎたくはない。

 さっさと片付けろと急かす本たちに、僕は「すぐやります」と敬語さえ使いながら重い腰をあげた。

 ハタキで床に落とした灰を、ホウキとちり取りで集めていたとき、大きめの欠片が目に止まった。表紙の端の方だろう。著者名の一部が残っている。

「見えるかな」

 僕は今にも崩れてしまいそうなその欠片を、そっと拾い上げ手のひらに載せた。

 僕は筆業師としては駆け出しで、五代目のようにすごい術は使えない。

 でも、僕にはもう一つ、別の力があった。

 手のひらで欠片を包み込み、瞼を閉じる。

 合わせた手がじわりと温かくなる。その温度は僕の血液の流れに乗って身体を巡り、やがて脳へと達する。

 全身をすっと風が吹き抜けた。

 閉じた瞼の裏に見えていたもやもやが吹き飛び、一気に視界が開ける。

 見渡す限り、一面の青田。

 風がその表面を撫でていく様が見える。

 小川の脇の畦道に向き合う若い男女がいた。自転車を片手に持ったまま、青年が一冊の本を差し出した。五代目の「火風」に焼かれたあの本だ。

 少女が両手を出して受け取った。

 青年は自転車にまたがりすぐに行ってしまったが、少女は本を抱きしめたまま、いつまでも青年の後ろ姿を見送っていた。

 それが別れの場面なのか、日常の一コマなのか、どんな意味があるかは僕にはわからない。ただ、少女の胸の鼓動が、茶色い革表紙の本に直に触れるのを感じた。

 それが、その本が覚醒した瞬間だった。

 残った欠片から残留していた思念が次々と僕の中へ流れ込んでくる。

 少女はずっとその本を大切にしていたこと。年をとっても、ずっと手放さなかったこと。もう、彼女はいないこと。最初の持ち主であるあの青年も、もういない。

 だから本はこの店にやってきた。

 本としてこの世に残り続けるのではなく、彼女の元へ行きたかったのだ。

 さわやかな風が吹き渡り、少女と青田を消し去った。

 僕はまた、千年堂に戻ってくる。

 あの本は、彼女と一緒に消えることを望んだ。その手段として僕らが使われたのだ。

 五代目はこのことは知らないだろう。人に害を為す本を浄化したにすぎない。

 けれど僕は考える。

 あんなに苦しい手段を選ばなくても、もしかしたら別の方法もあったかもしれないと。あんな風になる前に、その声を聞くことができていたら、その想いを知ることができたらと。

 明らかに筆業師とは違うこの力だから、このことはまだ誰にも話していない。浄化すべき本の想いを知りたいなんて、五代目には言えなかった。

 この本が最期に見せてくれた情景とともに、僕はこの本の存在を記憶の書架の中にしまう。

 母屋から祖母が僕を呼ぶ声が聞こえた。

 店のテーブルには、まだ処理すべき本が数十冊、残っている。

 新年まであと一週間。

 この時期は、うちに本がたくさん持ち込まれるのだ。

 自分の部屋の大掃除もまだだというのに。

「ぼくは年を越せるのだろうか……」

『むーりむーり』

『おまえの しんねんは もう 死んでいる』

『新年のご利用は計画的に』

『クスクスクスクス』

 何度目かのため息は、暖房を止めた店の中で、白く濁った。

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