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よく肥えた青虫が、視線から逃れるように葉から消えた。密に植わった青菜の株と株の間に落下したようで、ぱっと見ではもう探し出せない。
「……あー」
ええとこやったのに、と残念そうにぶうたれて、少年は籠を抱え直し、青菜の収穫を再開した。
とある初夏の午前中。空は凝縮された蒼で、まっ白い雲との対比が、美しく力強い季節の到来を実感させる。山麓の斜面を利用してつくられた鷺凰院の段々畑では、童子たちが梅雨が明けて一気に成長した野菜を収穫していた。
凌は、鼻の頭に浮かんだ汗粒を袖で拭き、ふしゅう、と息を吐いた。凝った首をほぐすのも兼ねてぶんぶんとかぶりを振ってみると、ぬれた生え際が少し涼しくなったように感じなくもない。だがいかんせん蒸し暑い。日差しはまだそれほど強くなかったが、ときおり吹く風もぬるく湿っていて、汗も乾かない。
「うっへー、あっつ」
夏の暑さは嫌いでない凌だが、蒸すのは少し堪える。これが終わったら、みんなで川に遊びに行きたいな……と考えながら、鎌を動かしていた。
「ほんっと、とろいなぁ」
あきれたような声に振り向くと、涼鈴が笠で顔を煽ぎながら上の畑から下りてくるところだった。凌はいーっと歯をむいた。
「おれは仕事が丁寧なんですぅー」
「こんなに遅かったら昼に間に合わないじゃない!頭が煮えてあんぽんたんになるわよっ。見なさい、穹はとっくに終わってるわ!」
ぱしこんっ、と笠で凌の頭をはたいてから、涼鈴は、下の畑での作業を終えて水路で手を洗っている穹に、ごくろーさーん、と手を振った。
「いったいな!そんなに強く叩かれたらそれこそあんぽんたんになっちゃうでしょうが!」
「安心なさい!今よりわるくなることなんてないから!」
ひどい、おれはあんぽんたんじゃないのに!と叫びを上げながら、凌はばりばりと作業をし始めた。涼鈴も笠をかぶりなおして、凌よりもはるかに手際よく青菜を刈り取っていく。
涼鈴は今年で十七になる、鷺凰院の童子のなかで最年長のねえさんだ。溌剌としていて、年少の子たちに慕われているが、小柄でくるくるとよく動き回っているせいか、よく食べる割にほそっこく、目の大きな童顔で、かわいらしいという形容が似合う。今は、顔こそ丸焼け防止と日射病にならないとめに笠をかぶっているが、上着はもとより、裙も膝上までたくしあげている。それでも、不思議と見る者に下品さを思わせない。かわりに、色気も想起させないが。
「…あ、おった」
早くも集中力を切らした凌は、地面に再び青虫を発見し、さっきのと同じやつかなぁ、とつまみあげた。そして涼鈴に小突かれる。凌は涼鈴の三つ年下で、よく言えばあけっぴろげで誰にも気兼ねせず、悪く言えば極めて雑な性格だ。身体を動かすことが得意で、単純ないい奴である。
「もう、他事しないの!索師に怒られるよ!」
「ほーい」
何だかんだで仲は良い。
その時、下の畑から農具を持って登ってきていた穹が、急に畦道の向こうにある林の方を顧みた。
「穹?どうしたの」
涼鈴が訊ねると、寡黙な穹は小首を傾げるようにして、お客さんかな、と呟く。
「患者?」
「馬でもみつけたの?」
穹はかぶりを振る。少し俯いて、「あっちのみち、皆通らないのに、誰かいた」と言うが、涼鈴と凌には、額にしわを寄せてみても何も見えない。そうして暫く、畦道から目を凝らしていると、涼鈴があっ、と声をあげた。
「ほんとだっ、登ってくわね・・・穹はほんとに目がいいのね」
涼鈴が頭をポンポンとなでてやると、穹は猫が心地よい時にするように、大きな目を細めた。
「・・・なんだあいつ、すっごい大荷物だぞ」
林の中を坂道とほぼ平行に通るのは、ここから歩いて半日ほどの宇閤という大きな街を経由して至る街道の末端で、山を越える人か、逆に冬になって降りてくる人くらいしか通らない。鷺凰院に用事のある村人や患者たちは、段々畑に沿って伸びるゆるやかな畦坂をのぼってくる。だから穹が発見した徒歩人も、納涼のために夏の間だけ山にこもる人なのかと思った。
だが、その人影は急にこちらへ向きをかえ、林を突っ切ってわざわざ畦道に出ようとしているようだった。
「あのぉーー、こっちは街道じゃないですよぉーーーー?!」
凌がおもいっきり叫ぶ。それが聞こえたのか聞こえていないのか、徒歩人は一度立ち止まったが、少しすると、結局畦道まで出てきてしまった。
現れたのは、少女のようだった。ごく淡い空色の上着に細身の筒袴という旅装で、細い体に大きな荷物を背負っていた。涼鈴が驚いて、籠を持ったまま駆け出す。あとのふたりもそのまま続いた。
手拭いで首もとを拭きながら、少女がはた、と顔を上げて尋ねた。
「・・・あの、茶穎の鷺凰院は、この辺りであっていますか?」
見た目の年にしては少し低めの声で問う。涼鈴は少し面食らったようにして、ええ、と答える。
「お嬢さんは、患者さん?」
だとしたらこんな大荷物を持たせたままではいけない。穹に目配せして、菜籠を渡した。
「荷物、お持ちしますよ」
涼鈴が手を差し出すと、少女はあ、え、と戸惑う素振りで坂の上の方と三人との間で切れ長の目をきょろきょろさせた。
「えっ、と、違うんです。茶穎の三師に、師事するため、参りました」
「え、ということはは医術師見習い?」
すっげぇ、と凌が素直に感嘆している。
少女が恥ずかしそうに微笑んで、はい、と返した。涼鈴も、そうだったの、と納得する。
「じゃあ、案内した方が良さそうね」
「はい、お願い致します」
結構な勢いで頭を下げたものだから、少女は前のめりに地面と衝突しそうになった。
「おっと、やっぱり荷物持つわ」
今度は涼鈴だけでなく、穹までもが籠をおいて手を差し伸べたが、少女はまたしてもはにかんだ様子で辞退しようとしたので、涼鈴が強引に後ろを向かせてさっさと荷縄をおろさせてしまった。
「鈴姐追い剥ぎになれるぜ」
「失礼ながきね」
ふたりの応酬のあいだにも、少女が申し訳なさそうにしていると、涼鈴はいーのいーの、とてをひらひらさせた。
「ずっと歩いてきて疲れたでしょう?すぐそこだから、もう少し頑張って下さいな」
よろよろしていた自覚はあったらしく、私力持ちだから、と無い胸を張る涼鈴に折れて少女は荷物を預けた。
「じゃあ、穹も、いくよ・・・ちょっと、凌、何でついてきてるのよ」
涼鈴が指摘すると、凌はそっぽを向いてべーっ、と舌を出した。はぁ、とため息が漏れる。
「見えてるわよ、あんぽんたん」
「おれはあんぽんたんじゃないって!」
「兎に角、青菜採り終わるまでは帰ってきちゃダメよ。あ、でもちゃんと水は飲むのよ!干からびてお馬鹿になるわよ!」
馬鹿でもないって、と院に帰っていく涼鈴に叫びながら、凌は道端の小石をちぇ、と蹴った。