潮風
それは、夜八時を過ぎたころであったろうか。名残惜しげにいつまでも中空にとどまっていた夏の太陽もとうに地平線の彼方へと退き、赤レンガの建物が並ぶ町は深海の色をした宵闇に浸されていた。火を使わずにバーベキューができそうな熱気もぎらつく陽光が消えるにともなって弱まり、代わって物憂げな温風がたゆたっている。家々の窓には灯がともり、町はその日の活動を静かにしめくくろうとしていた。
街路に車のエンジン音と、あるかなしかの足音が響いた。折しもバスがひとりの少女をおろし、ゆっくりと走り去ろうとしているところだった。年のころは十才前後だろうか。通いなれた家路をゆくのだろう、大きな麦わら帽子をかぶった少女は急ぐ様子もなく歩き始めた。
バス停から曲がりくねった道を数分歩くと、広場に出る。昼間は子供たちの遊び場として、また買い物や井戸端会議の場として常に賑わっている場所だが、この時間ともなると人影も絶え、広場を取り巻くように軒を連ねる商店も残らず鎧戸を下ろしており、動くものといえばただ少女と夜風のみ。街燈に照らされてくっきりと円形に浮かび上がる広場は、陽光の下で見るそれとはまったく別の顔を持っていた。あたかも舞台のような、或いは人知の及ばぬ異世界のような。少女は道をそれ、あえかな光を放つ広場に足を踏み入れると、その中央に立ってみた。
不意に、一陣の風が駆け抜けた。風は木々の葉をそよがせ、少女の頬をなで、白い服をはためかせて、長い髪をすくいあげていった。それが合図のように夜風は強まり、街路樹の梢が一斉に騒ぎ始めた。
――海。
何の脈絡もなく、少女の脳裡に「海」の字が浮かんだ。ここは最も近い海岸へ行くのにも車で半日はかかる内陸の町で、潮風の届こうはずはない。だが少女は波打つ緑の葉の向こうに確かに潮騒を聞き、湿気とぬくみを帯びた柔らかな風に磯の香を嗅いだ。海鳥の鳴き交わす遠い声すら、聞き取った気がした。
小さな掌を街燈の光にかざし、麦わら帽子をずらして風が髪をなぶるに任せ、少女は町中に束の間出現した「海」をしばし味わった。そして今は視界から外れた車道からのクラクションに沈黙を破られると、再び帽子をかぶり直し、弾むような足取りで家路を急いでいった。
はじめまして、星野と申します。
自己紹介がわりに、少し前に書いた超短編を。
こどもの感性は、時として見慣れた風景に不思議な作用を及ぼすようで…
ほぼ実話です。