第23話~変化~
『スージー……。スージー?』
『先生、こっちよ。早く来て』
ぼんやりした背景の中で伸ばした僕の手から、真っ白のサマードレスを着たスージーがどんどん距離を取っていく。僕は彼女の手を無我夢中で掴もうとしては、まるで空に浮ぶ真っ白な雲を掴むかのように、その手は何度も何度も空を切った。
『何だ、これは? 夢――なのか?』
自分に問い質した瞬間、今自分が見知らぬ部屋に居ることに気が付いた。
あたりを見渡し、まだ荷解きの済んでいない段ボールが所狭しと積まれている。ここが引っ越してきた新しい家だと気付くのに、随分と時間がかかってしまった。
“ああ、やっぱり夢なのか。変な夢だな”
ソファーで寝ていた筈なのに、いつの間にか床に寝てしまって居た様だ。背中や腰の痛みに耐え、目をこすりながらゆっくりと体を起こすと、まだカーテンのついていない部屋に朝日が遠慮なく差し込んで来た。
「眩し――……?」
反射的に背けたその視線の先に、僕に寄り添うようにして床に眠っているスージーが居たことに一瞬息が止まりそうになる。穏やかに眠っている彼女の表情は、心なしか微笑んでいるようにも見えた。
「いつの間に」
昨夜、確かにベッドに向かったはずのスージーだったが、いつの間にここに戻って来ていたのだろう。僕が眠りに落ちる前にはなかったブランケットが掛けられていた事が、全てを物語っていた。
両手で顔を塞ぎ、大きく溜息を吐いた。
僕はどうするべきなのか、スージーは一体どういうつもりで昨夜、僕にあんな事を言ったのか。
「お嫁さんになりたい、だなんて」
思ってもみない言葉を聞き、駄目だとわかっていてもつい欲が出てしまう。スージーがまだ知る筈もない、自分の中にある男の部分をさらけ出してもいいのだろうか。そんな思いが一瞬頭の中を駆け巡った。でも、そんな事をしたら、間違いなく彼女は怯えるだろう。それこそ、クリスの時の様に発作が出たらと思うと、試す気にもなれない。
「――」
まるで天使が羽を休めているかのように丸くなって眠っているスージーをみると、邪な考えをしてしまった自分が恥ずかしくなった。
「はぁ。ほんと、残酷な天使だよ。羽を毟り取って二度と飛べなくしてやりたい」
そうしたら、ずっと僕の側に置いておく事が出来るのに。
そう思わずにはいられなかった。
◇◆◇
僕達はこの街では違う名を使う事で、全く別の人物に生まれ変わろうとした。
例え、呼び名を変えたとしても、別人になれるわけじゃないとは思っていたが、彼女を追う者の妨げになればと思い、実名を伏せていた。
庭に農作物を育てながら極力自給自足の生活をし、やっとの事で僕の夢でもあった子供達に勉強を教える教室を開く事が出来た。徐々に生徒数も増え、今ではスージーもここで教鞭を執っていた。
僕達の新しい生活が波に乗ってきたある日の夜。いつもの様にソファーで眠る準備をしていた僕に、スージーが声をかけてきた。
「先生。いつまでそこで寝るつもりなの?」
眉尻を下げ、呆れた顔をして溜め息を吐いた。
「ん? ああ、そうだね。ウィルにわざわざ来させるのも悪いし、今度、近所の人に言ってベッドの移動を手伝ってもらおうかな」
そう言って僕はソファーに横になり、頭の下で手を組んだ。
スージーが側までやってくると、僕が寝そべっているソファーの中央で腰を下ろし、僕の顔を上から覗き込む。
「どうして一緒に寝ちゃダメなの?」
幾度と無くその質問を投げかけられていたが、それとなくはぐらかしていた。一体、どの面提げて男の生理現象について、純真無垢なスージーに話せるのかと言いたい気持ちをぐっと飲み込み、具体的には言及してこなかった。
悪気は無いのだろうが、僕の気持ちがわからない彼女に対し、ジレンマに苦しんだ僕は半ば呆れ気味に首を左右に振った。
「じゃあ聞くけど、何でスージーはそんなに僕と一緒に寝たがるの? もういい大人なのに」
まるで突き放すような物言いだった。
そんな僕の心の乱れを感じ取ったのか、顔を少し歪めながらスージーは必死で言葉を探している。やがて、見つけ出した彼女の言葉は、僕の予想を遥かに超えていた。
「先生。……私達は恋人同士じゃないの?」
「えっ?」
恋人? 僕とスージーが?
そんな言葉が喉まで出掛かって、慌てて飲み込んだ。歪んでいたスージーの顔が、段々悲しみに溢れた顔に変わっていくのを見ると、とてもじゃないけどそんな風に言える訳が無い。だが、言葉にせずとも僕の表情で全てを悟ったのか、スージーの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「やっぱり、先生はそういう風には思えないのね。……私は先生の事が好きって言ったよ? 先生も私の事が好きって言ってくれたじゃない。――なのに何で恋人同士になれないの?」
「あ……」
お互い好意をもっているのは確かなはずなのに、見えない壁が僕達を妨げている。スージーはとっくにその壁を乗り越えて、僕の側までやってきていると言うのに、僕はまだそこで立ち往生していた。
いつか見た夢の様に、スージーは手招きしているのに僕は前に進む事が出来ない。素直になれない自分に気付くと、ドクンと一際大きく心臓が跳ね上がった。高鳴る胸の音が次第に早くなっていくのを感じ、僕は見えない壁を乗り越えようと必死でもがき始める。
「あ、その、僕。君と長く居過ぎたのかな? 君を守る事しか考えてなくて。スージーとそんな関係になるって、思ったことなかっ――」
スージーの髪の香りがしたと思った途端、僕は口を塞がれた。
それは以前触れただけの口付けとは、全く違った感覚だった。
ゆっくりと唇が解放されると、スージーは驚いて固まっている僕を見て、口角をぎこちなく上げる。
「男の人って、何歳になっても鈍感なのね」
スージーが子供の頃の面影を突き破り、単なる二十三歳の女性に変化しているのを目の当たりにした瞬間だった。
頭に落雷があった様な衝撃が僕を襲う。
スージーの目を食い入るように見つめながら、上体を起こし片膝を立てると、彼女の頬に自然と手が伸びていった。
スージーは僕のその手を両手で包み込むと、潤んだ瞳で僕を真っ直ぐ見据える。艶かしい顔つきで、まるで僕の今の気持ちを見透かしたかのように小さく頷いた。
頬に置いた手を彼女の首の後ろに回し、徐々に引き寄せる。まるでお互いの気持ちを確かめあうかの様に、小鳥が木の実を啄ばむ様に、何度も短いキスをした。
彼女の緊張が、手から伝わってくる。
唇を一度離すと、目を合わせ二人とも照れるように微笑んだ。
そして、まるで磁石のように再び引き寄せられると、次第に深い恋人同士の口付けへと変化を遂げた。
新しい生活を迎え、僕達の関係も新しいものへと形を変えて行く。
それは何年も前から、心の奥底にしまいこんでいたものが一気に放出されて、お互いを求めあっているかの様にも思えた。
この瞬間、二人は“家庭教師とその生徒”と言った関係から、“恋人同士”へと変化を遂げることとなった。