バースデーケーキ
朱里がどんなに失敗を繰り返しても料理に励み続けるのは、普通の奥さんのようになりたいからだ。
元男。
戸籍は女に変えられたものの、その事実は変わらない。なのに大地はそんな自分と結婚をしてくれた。プロポーズをしてくれた。だから応えたい。普通の、女として生まれて来た人以上に。
しかし実家では料理なんぞ一度たりともしたことはなし、言葉も出ない体も弱い朱里は生きているだけで十分だと、そう、扱われ続けてきた。まだ兄の海里の方が家の手伝いはよくしていたし、実際海里は一人暮らしを始める時には簡単な料理は手早く作ることができたので、母親も安心して東京に送り出したほどだ。
大地に応えたい。その一心で、朱里はある日決意を固める。
それは大地の誕生日にケーキを作ること。
それに向けて、まず、お菓子作りの本を買い込んだ。それから、お菓子作りの有名ブロガーの記事を読みに読んだ。特別の調理器具に加え材料もあれこれネットショップも使って揃えた。
そして迎えた大地の誕生日。
朝も早い時間から、配達がやってきた。
老舗ホテルのレストランから配送された、季節のフルーツケーキである。メロンにブルーベリー、モモ、イチゴありとあらゆるフルーツがキラキラ輝いて載っている。なんだかよくわからない砂糖菓子が小宇宙のように飛び交っているし、そして真ん中に鎮座するチョコレート製のプレートには「Happy Birthday DAICHI」
なんだろうと思う間もなく、母からスマホにメッセージが来た。
ーー大地君の誕生日に届けてもらえるよう、いつものホテルにケーキ予約しておきました。二人で食べてください。
朱里はその場にしゃがみ込んだ。
こんなにきれいで美味しそうなものは、自分の手では到底作ることはできない。何せケーキを生まれて初めて作ろうとしていたのである。
でも、ーー朱里は台所に一通りそろえた材料と調理器具をちらと見やる。
自分で作ったものを食べてもらいたかった。きっといつものように、うまい、最高、天才、そう言ってくれるはずだから。でも、どうしたらいいだろう……。
朱里の目の前がぼんやりと滲んでくる。
大地は、自分の誕生日に用意されたホテルのケーキを目にしたらきっと喜ぶだろう。別にわざわざ自分が作らなくてもいいのかもしれない。
でも、……朱里はきゅっと唇をかんだ。わがままでいいから、自分で作りたい。大地の気持ちを優先していないかもしれないけれど、自分だって準備をしてきたんだ。いつもは失敗も多いけれど、今日はきっとうまくいく。何せ、準備の量が違う。準備の質が違う。
朱里は力強く拳を握って立ち上がった。
卵、割って黄身と白身に分ける。殻が入る。慎重に、箸で取り除く。
大丈夫。時間は、ある。
朱里は緊張しながら卵を分け終えると、初めて手にするハンドミキサーを始動した。白身に浸して、スイッチを入れる。
爆発!
慌ててスイッチを切るものの、白身の半分が壁やら床やらに飛び散ってしまった。
朱里は泣きそうな顔をしながら、再び卵の白身を分けて足していく。
本と、違う。
ブログと、違う。
何で私がやるといつもこんなおかしな事態になってしまうんだろう。
そんなことを繰り返しながら、ようやくスポンジを型に入れオーブンに入れる。しっかり予熱もした。温度もきちんと確認した。あとは待つばかり。
朱里は高鳴る鼓動を抑えつつオーブンの中を何度も覗き見た。膨らんできた。バッチリだ。
チン、とオーブンが鳴る。
開けると、きちんと焼けている。前作った時のパンのように固く沈んではいない。
朱里は安堵して次のクリーム作りに入った。
今度はそっと一番遅い速度でハンドミキサーを回し始める。ゆっくりやれば飛び散らない。だんだん硬さが出てきたら速度を上げる。
そっと持ち上げるとツノができた。完成。料理本の通りだ。朱里は嬉しくなった。
あとはスポンジに塗るだけ。
ふと、オーブンの前に置いたスポンジを見て朱里の顔は蒼白になった。
真ん中が、へこんでいる。
どうして? さっきはちゃんと平らだったはずなのに。クリームを作っている間に何が起きたのだろう。
朱里はちら、と時計を見やった。さすがに最初からやり直すには時間がない。大地が帰ってきてしまう。
目の前が真っ暗になった。
こんなことなら、ホテルのケーキで良かったのだ。何もどうせ失敗するケーキなんて、作ろうと思わなければよかったのだ。
朱里の視界にテーブル上に置いたスマホが入った。
ーーそうだ。
朱里は恐る恐る、スマホを手にする。
あの人たちに聞いたら、もしかしたら答えをくれるかもしれない、いつものように。
朱里は震える手でSNSのアカウント作成に入った。
ーー名前、少し考えて「SYURI」と入れる。紹介文「ギタリスト。料理初心者です。」画像はなくても大丈夫らしい。とりあえず完成する。
そして最初の投稿。
真ん中がへこんだスポンジケーキの写真を添え、「ケーキのまんなかへこみました。どうしたらいいですか」と投稿した。
しばらく反応はなかった。
やっぱり夕方だからだろうか。
みんな忙しいのかもしれない。
朱里は何度も画面を更新する。
そして通知が一件。
「なりすまし?」
続いてもう一件。
「そういうのやめてください」
「朱里飯は大地のアカウントだから面白いんだよ」
「偽物は消して」
心臓がぎゅっと縮む。
本物なのに。
大地にはお願いできないことだから、自分で聞いてみただけなのに。
さらに通知が増える。
「でも皿エルメスじゃね?」
「確かに」
「エルメスは金出せば普通に買えるだろ」
「人間国宝の皿持ってこい人間国宝」
「待って、このスポンジの置いてある台、前の写真で見たやつじゃない?」
「言われてみれば」
「偶然だろ。よくあるタイプ」
「もし本物ならギター見せて」
「それな」
「ギターなら秒で証明できる」
朱里は泣きべそかきそうな顔で言われるまま部屋へ向かった。
ギタースタンドには自分のGibson。大地のJackson。そして海里から借りているDEENが置いてあった。三台まとめて写真に収める。その写真をアイコンに設定した。
数秒後。
通知が爆発した。
「ちょっと待て」
「え?」
「え?」
「え?」
「マジ?」
「そのDEEN、Needled24/7初期ライブで使ってたやつ!」
「懐かしすぎて泣いた」
「大地のJacksonいる! 弦高ちゃんと超絶低いやつ!」
「本物だこれ」
「朱里本人!?」
「ちょっと待って今日大地の誕生日じゃね?」
「マジじゃん」
「だからケーキか!」
「本物降臨で草」
「おい誰だ偽物扱いしたやつ」
「俺です」
「正直すぎる」
通知音が鳴り止まない。
朱里はさっきとは別の意味で青ざめた。
すると流れを変えるように誰かが書き込む。
「本題! 本題!」
「そうだった」
「ケーキだ」
「料理班来て」
「いつもとアカウント違うから気づいてないかも、誰か貼ってこい!」
「お母さん勢こっちに早く来て下さいお願いします」
ようやく主婦がやって来る。
「朱里ちゃんアカウント作成おめ! スポンジへこんだくらいなら全然大丈夫!」
「クリームで埋められるよ」
「果物乗せれば分からない」
「冷ます時は逆さにするとへこみにくいよ」
「スポンジは失敗しても全然ごまかせる」
「大丈夫大丈夫」
「間に合う」
「誕生日ケーキ頑張れ!」
画面いっぱいに並ぶ言葉を見ながら、朱里は涙目で打ち込んだ。「ありがとう」
その投稿には、すぐ何十件ものいいねが付いた。
そうして早速言われたとおりに、クリームをへこんだ部分に練り込んでいく。若干、わからないくらいにはなったけれど、気になるのでイチゴで埋めるようにして並べる。するとあっという間にへこんでいたなどわからないようになった。そして最後にチョコレートのプレート。手が震えて、上手に書けなかったけれどとりあえず完成。
朱里は完成したケーキの写真を撮ってアップする。「ちゃんとできました。ありがとう」
「良かった!」
「大地よろこぶね!」
「大地のバースデーケーキスポンジから作るの偉すぎる。愛でしかない」
「ただいまー」玄関から大地の声が響いた。
リビングの扉が開かれる。
「え、何だべこれ、すげー!」大地は目を丸くして叫んだ。
「ケーキでねえが! 何これ、朱里作ったの?」
朱里はおののきながら頷く。ホテルのケーキとはだいぶ違うけれど。失敗したけれど。でもSNSを使って助けてもらって。それでようやく完成した。
大地はケーキに顔を近づけながら、チョコレートプレートに書かれた「だいち」の字を凝視する。
「俺の誕生日ケーキ?」
朱里は今度は笑顔で頷く。
「うわあ!」大地は歓声を上げながら朱里を抱きしめる。「すげえ嬉しい! ありがとう!」
朱里の目に涙が滲んだ。




