ひとくち百合 その4~貴女は無慈悲な、夜の~
屋上の縁に立つ怪盗の外套が、月光を弾いて翻る。私の居場所はその一歩後ろ。予備の拳銃と替えの仮面を抱えて立っている。
「未だ、か」
怪盗が――あの人が呟く。屋上に続く階段の向こうから聞こえてくる足音は一つだけ。迷いなく響く、硬い革靴の跫音。
「やれやれ。性懲りもなく今夜も来たのかい、刑事さん」
「お前が呼ぶからだろう」
見下ろす女と見上げる男。怪盗と刑事。
因縁を前に、あの人は笑う。あの男にだけ見せる、私には見せない、月のように柔らかな微笑み。
刑事の手元で火薬が光った。銃声は一発だけ、態と外した弾丸が屋上の縁を削る。
「次は当てる」
「どうせ外すくせに」
軽口を交わす口許はどこか愉し気で。
やがて鳴り始めたサイレンの音を聞いて、あの人は踵を返す。
飛び降りる寸前。
「またね」
その言葉が向く先を私は知っている――私ではない、あの男。
闇に消える外套の残像を追って私も飛び降りる。総ての夜はあの人の味方だ。
着地の衝撃を殺し、路地裏へ。息を合わせる。背中に触れる距離。
「お怪我は?」
「無いよ。万事快調さ」
唯だ前を向いてあの人は言う。私に、一瞥もくれないで。
何時からだろうか。あの男を見つめるあの人の目に熱が籠り始めたのは。仕事の終わりに、あの男を待つようになったのは。
誰より傍に居る私でなく、敵手でしかないあの男と逢うことを心待ちにするようになったのは。
刑事と怪盗が想い合うことは物語になるのに、
――相手役が助手の端女では、質の悪い冗句。
あの日、絞り出したなけなしの感情を、一笑に付した非道い言葉を思い出す。
『ふむ、君にはヒューマーのセンスが無い様だね?』
そう言って煙を吐いた。あの人の煙草は、知らない香りがする。銘柄は昔から変えたことが無いのだと。
昔。
どこまで遡るか、私は知らない。教えてくれない過去。
故郷を棄てました。父を、母を棄てました。名前も、暮らしも、全部。全部、貴女の傍に居るため。
それなのに、そうまで貴女を想っているのに。私が一番、貴女の背中に近いところに居るのに。
貴女が熱を向けるのは、どこまでもあの男。
あの男はいつも貴女を裁く。何も知らない癖に。正義だの、法だのと。薄っぺらな言葉で。
それでも貴女はあの男だけに微笑む――それは正しくて。
私は、間違いなのですか。
じゃあ、私は一体何なのですか?
私は、貴女にとって何?都合のいい下僕?心を持たない人形?どこか与り知らぬところで勝手に総てを擲った莫迦な女?
頬を撫でる夜風が言葉に成らぬ囁きを立てる。走りながら、私は考える。
愛の言葉が欲しいわけではないのです。
せめて。
せめて、私が居なければ困ると言ってほしい。
貴女の計画が狂うと。貴女の銃が重くなると。貴女の夜が鮮やかなものでなくなると。
ただ、そう言ってほしいだけ。
「如何かしたのかな?」
振り返るあの人の雪白の肌が月明かりで艶美に耀く。
「……いえ。なんでも。」
言えない。これ以上口に出して、あの人に寄り添うことさえ叶わなくなるのが怖い。
撃鉄を起こすのは何時だってあの人だ。引き金を引かないのも、何時だってあの人。
私は唯だ、言われる儘に鉛弾を込め続ける。
あの人の心に、私の居場所が無いと知っていても。




