第9話 契約関係のはずが、団長様の独占欲が通訳不能です
眼下には、宝石を散りばめたような王都の夜景が広がっている。
謁見を終えた私たちは、そのまま王都にある公爵家の別邸に滞在することになった。
広々としたバルコニーには、心地よい夜風が吹いている。
けれど、私の心臓は早鐘を打ったままだ。
隣に立つグレイド様の横顔を、盗み見る。
月の光を浴びた彼は、溜息が出るほど美しく、そして遠い存在に見えた。
「……あの、団長様」
私は意を決して口を開いた。
「昼間の件ですが、本当にありがとうございました。私を守るために、あそこまで言ってくださって」
婚約者宣言。
あれはきっと、魔導師団の手から私を逃がすための機転だったはずだ。
公爵家の権威を使えば、誰も手出しはできない。
最高の盾だ。
「書類の準備も進めていると仰っていましたが、ほとぼりが冷めたら破棄する予定でしょうか? それとも、形式上だけの白い結婚として……」
そこまで言って、私は言葉を詰まらせた。
グレイド様が、手すりに置いていた私の手に、自分の手を重ねてきたからだ。
「エルマ」
静かな声。
彼は私の方を向き、真剣な眼差しで見下ろした。
「君は、私が嘘をついていたと思っているのか?」
「えっ? だって、そうでしょう? 私は元男爵令嬢で、一度婚約破棄された身です。公爵家の奥様になれるような身分じゃありません」
常識的に考えればそうだ。
竜の通訳ができるといっても、それは特殊技能に過ぎない。
血統や家柄を重んじる貴族社会で、彼が本気で私を選ぶ理由がない。
「身分など、私が黙らせる」
彼は即答した。
「それに、嘘ではないと言ったはずだ。最初からそのつもりだった」
「最初から……?」
「ああ。君が初めてヴェルドアの背中を掻いた時から、私は君に目を奪われていた」
グレイド様が、恥ずかしそうに視線を逸らす。
耳が赤い。
「最初は能力に驚いた。だが、それだけじゃない。君は危険を顧みず、ただ竜のために動いた。ステーキを焼き、毎日楽しそうに話し、私のことも……怖がらずに受け入れてくれた」
彼の手が、私の指をそっと絡め取る。
「君のひたむきさに救われたのは、ヴェルドアだけじゃないんだ。私もだ」
ドキン、と胸が高鳴る。
その言葉は、私の予想していた「有能な部下への評価」を遥かに超えていた。
「でも、私は地味ですし、可愛げもありませんし……」
「どこがだ」
グレイド様が少しむっとしたように眉を寄せた。
「君は可愛い。笑った顔も、困った顔も、ステーキを焼いて煤だらけになった顔も。……全てが愛おしい」
愛おしい。
その言葉の破壊力に、私の頭はショート寸前だった。
熱い。顔が沸騰しそうだ。
こんなの、どう返事をすればいいの?
「だ、団長様……」
私がもじもじと後ずさりしようとした、その時だった。
ドンッ!
背後から、ものすごい衝撃が来た。
バルコニーの手すりの外から、太くて黒い何かが――ヴェルドアの尻尾だ――が、ぐいっと私を押したのだ。
「きゃっ!?」
バランスを崩した私は、前につんのめる。
倒れる、と思った瞬間。
硬い胸板に受け止められた。
「っと、危ない」
グレイド様が私を抱きとめる。
密着する体。
彼の匂いと体温が、私を包み込む。
『あーもう! じれったいんだよ!』
頭の中に、呆れたような声が響いた。
窓の外を見ると、ヴェルドアが巨大な目を覗かせている。
『さっさとくっつけよ! 見てるこっちが恥ずかしいわ!』
「ヴェ、ヴェルドア!?」
まさか聞き耳を立てていたなんて。
しかも物理的に介入してくるなんて。
私が慌てて離れようとすると、グレイド様の腕が強くなり、逃がしてくれなかった。
「……ヴェルドアの言う通りだ」
耳元で、甘い声が囁かれる。
「私も、もう我慢の限界だ」
「えっ、団長……んっ!?」
言葉は、彼の唇によって塞がれた。
優しい、けれど逃げ場のないキスだった。
頭が真っ白になる。
バルコニーの夜風も、ヴェルドアの視線も、全てが遠のいていく。
感じるのは、彼の熱と、激しい鼓動だけ。
長い、長い口づけの後。
ようやく解放された私は、息も絶え絶えに彼を見上げた。
グレイド様の瞳は、獲物を捕らえた肉食獣のように妖しく光っていた。
「エルマ。君の通訳スキルは素晴らしいが……今の私の気持ちは、通訳しなくても伝わっただろう?」
彼は意地悪く微笑み、私の頬を指先でなぞった。
「君の言葉も、視線も、これから先の人生も。全て私が独占したい。……覚悟してくれるね?」
それは問いかけではなく、確定事項の確認だった。
もう逃げられない。
鉄壁の外堀と内堀に囲まれ、最強の竜に見張られ、この執着心の強い公爵様に捕まってしまったのだから。
私は小さく息を吐き、そして彼の胸に顔を埋めた。
「……はい。覚悟します」
そう答えると、彼は嬉しそうに私を抱きしめ直し、またすぐに口づけを落としてきた。
『ヒューヒュー! やったぜ!』
ヴェルドアの冷やかしの声が聞こえるけれど、今の私には、それを通訳してあげる余裕なんてこれっぽっちもなかった。
ただ、この甘くて重い幸せに、溺れるしかなかったのだ。




